第六話 町へ下りたもの
第六話 町へ下りたもの
翌朝、琥珀は食卓に着くなり言った。
「山には、もういない」
味噌汁を運んでいた藍子の手が止まる。
「昨日の気配?」
「ん。町の方へ下りたと思う」
母も琥珀を見た。
「どちらへ向かったか分かる?」
「そこまでは分からない」
「そう……。見回りの方へ伝えてくるわ」
母は盆を置き、玄関へ向かった。
藍子が朝食を並べ終える頃に戻ってくる。
「通学路には異常がないそうよ。町の方も調べてもらいます」
「学校は休まなくていいの?」
「今のところは、普段どおり登校するよう連絡が来ています。
ただし、何かおかしいと感じたら、近づかずに引き返してきなさい」
「うん」
琥珀は窓の外へ目を向けた。
昨夜から残っている見回りの者が、境内を歩いていた。
朝食を終え、二人はいつもより早く家を出た。
表の道には警察車両が停まっている。町内放送も、山側の道路へ近づかないよう呼びかけていた。
それでも通勤や通学の人々は行き交い、店先では品物を並べる音がしている。
校門に立つ教師に促され、二人は教室へ向かった。
授業は普段どおり進んだが、ときおり聞こえるサイレンに、生徒たちが顔を上げた。
六時間目が終わる頃、校内放送が流れた。
『本日の部活動はすべて中止とし、地域ごとの集団下校を行います。
生徒は教室で待機し、担任の指示に従ってください』
教室がざわめく。
『山側の道路と北商店街には近づかないでください』
「北商店街……」
冬支度の買い物に行った場所だった。
担任が教室へ入り、下校班と経路を確認し始める。
途中で職員室から呼ばれ、戻ってくると黒板の経路を書き直した。下校の準備は、なかなか進まない。
窓の外が暗くなっていく。
厚い雲の下で街灯が灯り、窓ガラスに教室の明かりが映り始めた。
琥珀が席を立つ。
「どうしたの?」
「いる」
窓へ近づき、北商店街の方角を見た。
「昨日、山にいたもの」
その直後、遠くで硬いものが砕ける音がした。
窓ガラスが小さく震える。
教室のざわめきが止まった。
「窓から離れて!」
担任は生徒たちを席へ戻し、廊下へ出た。
「事故かな」
「北商店街の方だよね?」
声を潜めた会話が続く。
琥珀は席へ戻っても、窓から目を離さなかった。
「近づいてくる」
「こっちに?」
「ん」
藍子も外を見たが、暗くなった町に動くものは見えなかった。
戻ってきた担任が、教卓の前に立つ。
「北商店街で、建物の一部が壊れる事故がありました。警察が周辺を封鎖しています。
下校経路を確認するので、もう少し待ってください」
それから二十分ほどして、下校班ごとに呼び出しが始まった。
藍子と琥珀を含む山側の生徒は、北商店街を大きく迂回することになった。
「この経路は警察が確認しています。先生と一緒に帰りますから、列から離れないように」
校門を出ると、車の数が少なかった。
通りの先には規制線が張られ、警察官が脇道への進入を止めている。
生徒たちは二列になり、表通りを進んだ。
藍子は琥珀の手を握る。
「勝手にどこかへ行かないでね」
「行かない」
「本当に?」
「藍子が離さなければ」
「それ、私次第になってない?」
いつもの調子で返したが、握る手には力が入った。
一行が交差点へ差しかかったとき、冷たい風が吹いた。
道路脇の落ち葉が、一斉に舞い上がる。
その中心に、何かがいた。
人の形に近い。けれど、頭部は獣のように前へ伸び、腕は地面へ届くほど長かった。
黒く濁った輪郭が揺らぎ、ところどころが景色へ溶け込んでいる。
「……何、あれ」
藍子は足を止めた。
隣の生徒は、顔に当たった落ち葉を払い落としている。
その向こうにいるものには、気づいていないようだった。
数人だけが顔色を変え、同じ場所を見ていた。
悲鳴が上がる。
怪物の輪郭が、急に濃くなった。
長い腕が振るわれ、道路標識が折れる。
倒れた標識が舗道へ叩きつけられ、生徒たちが後ずさった。
「先生の近くに集まって! 落ち着いて!」
呼びかける声に、悲鳴が重なる。
怪物は逃げる生徒へ顔を向けた。長い腕が塀をかすめ、破片が道路へ散る。
藍子も琥珀の手を引き、人の流れに合わせて下がった。
怪物の顔が群衆を追い、二人のところで止まる。
胸の奥が、一瞬だけ熱く脈打った。
怪物が地面を蹴る。
「藍子」
「分かってる。逃げるよ!」
二人はほかの生徒とともに、脇道へ走り出した。
背後で、また何かが砕けた。
教師の呼びかけが遠ざかる。
「こっち!」
藍子は近くの生徒たちと住宅街へ入った。
開いていた店へ駆け込む者も、家の門を叩く者もいる。
路地を曲がるたび、一緒に走る人数が減っていった。
それでも、重い足音は消えない。
振り返ると、怪物が角を曲がってきた。
もう、路地を走っているのは二人だけだった。
「どうして、まだ追ってくるの……!」
「こっちを見てる」
藍子は前へ顔を戻し、さらに走った。
次の角で、琥珀が左へ曲がろうとする。
「そっちは商店街に戻るよ!」
「じゃあ、こっち」
二人は反対側の路地へ入り、その先の坂道を目指した。
携帯端末を取り出し、母へ連絡しようとする。
画面には、圏外と表示されていた。
「こんなときに……!」
「前」
顔を上げた。
坂道の先に、黒い影がある。
電柱の陰から、長い腕が伸びてきた。
「後ろにいたのに……!」
振り返っても、曲がってきた路地から怪物の姿は見えない。
藍子は端末をしまい、足を止めた。
「横道」
琥珀が右を指す。
怪物より手前の道路脇に、石段があった。落ち葉で半ば隠れ、古びた鳥居の先へ続いている。
坂道を塞ぐ怪物が、こちらへ一歩踏み出した。
「行こう!」
二人は石段へ駆け込んだ。
段の隙間から雑草が伸びている。濡れた葉を踏むたびに足が滑り、藍子はつないだ手を握り直した。
背後から重い音が迫る。
鳥居をくぐったところで、その音が一瞬途切れた。
振り返る余裕はなかった。
「もう少し!」
石段を上りきると、木々に囲まれた境内が広がっていた。
社殿は古びているが、落ち葉は掃かれ、軒下には新しい注連縄が張られている。
鳥居の額に、かすれた文字があった。
――四季狐大社。
「こっち」
琥珀が社殿へ向かう。
藍子も追い、閉じた戸へ手をかけた。
開かない。
もう一度引こうとしたとき、背後で鳥居が大きく揺れた。
怪物が見えない壁へ腕を押しつけている。
空中に走った光の筋が裂け、黒い体が境内へ踏み込んできた。
「裏へ回ろう!」
二人は社殿の脇を抜けた。
左右には深い林が広がっている。藍子は建物の裏へ回り込み、別の入口を探した。
そのとき、琥珀の足元で鈍い音がした。
地面に細い亀裂が走る。
「琥珀、止まって!」
落ち葉の下で、地面が崩れた。
白い髪が沈む。
つないだ手を離せず、藍子も前へ引かれた。
「ちょっと待って――!」
二人は土と落ち葉に巻き込まれ、暗い穴へ落ちていった。
◇
落下は、すぐには終わらなかった。
傾斜のついた通路を、土と一緒に滑り落ちる。
「琥珀、手を離さないで!」
「ん」
通路が曲がり、体が横へ振られた。
やがて傾斜が緩み、積もった砂の上へ転がり出る。
「痛っ……」
藍子は上体を起こした。
擦りむいた手のひらが痛む。膝にも土がついていたが、曲げ伸ばしはできた。
「琥珀、大丈夫?」
「ん」
琥珀は立ち上がり、制服の土を払った。
落ちてきた通路を見上げても、入口は見えない。
藍子も立ち、近くの壁へ手を伸ばした。硬い石に触れる。
「ここ、神社の地下……?」
琥珀が正面を指す。
通路の奥で、青白い灯りが一つ点いた。
続いて、その先にも。
灯りが奥へ伸びていく。
「戻れそうにないね」
「進む?」
「……ほかに道もないし」
二人は手をつないだまま歩き始めた。
足音が石壁へ反響する。
前方に、巨大な扉が現れた。
中央には円形の紋様があり、その周囲に四体の獣が刻まれている。
「開くのかな」
藍子が立ち止まると、中央の紋様が光った。
低い音を響かせ、扉が左右へ開く。
「勝手に開いた……」
「入れる」
「入っていいとは限らないよ」
背後を見ても、青白い灯りの続く通路しかない。
二人は扉の先へ足を踏み入れた。
高い天井の下に、何層もの足場が連なっていた。
壁際には見慣れない機械が並び、床には無数の術式が走っている。
その中央で、青い巨体が膝をついていた。
狐の耳に似た一対の角。
青と白の装甲。
藍子は足を止め、はるか上にある顔を見上げた。
「大きい……」
琥珀が先へ進む。
「ちょっと、勝手に近づいたら駄目だよ!」
「呼んでる」
「誰が?」
「あれ」
青い機体を指した。
藍子には、何も聞こえない。
琥珀を追おうとしたとき、上段の足場から声がした。
「お主ら、そこで何をしておる」
二人が顔を上げる。
手すりの向こうに、金色の髪をした小柄な少女が立っていた。丸い狸耳が、こちらへ向いている。
少女は二人を見たあと、開いた扉へ目を向けた。
「……どこから入った?」
「上からです」
「上?」
「地面が崩れて、穴の中へ落ちて……」
少女は額へ手を当てた。
「よりによって、こんな日に……」
階段を下り、二人の前へやってくる。
神主装束を着ているが、近くで見ると藍子たちより幼かった。
「まず、名を聞こうかの。お主らは何者じゃ?」
「その前に、あなたは誰なんですか? それに、この大きな機械は何なんです?」
少女が答えるより先に、琥珀が口を開いた。
「柚白琥珀。こっちは九條藍子」
「琥珀、勝手に――」
「九條?」
少女が藍子の顔を見つめる。
「九條家の娘か? いや、あの娘は今、京にいるはず……」
「それは姉の藤花です。私は妹です」
「妹?」
少女は瞬きをした。
「……おったのか」
「います。それで、あなたは?」
「わしは、この四季狐大社の神主じゃ」
「神主……?」
こんな小さな子が。
問い返そうとしたとき、地下全体が揺れた。
天井から砂が落ちる。
壁際の装置が一斉に音を鳴らし、神主が操作盤へ駆け寄った。
空中に半透明の画面が開く。
境内で、先ほどの怪物が社殿の周囲を歩き回っていた。
「ここまで追ってきたの……」
「お主ら、あれに追われておったのか?」
「はい。町からずっと」
「結界は破られるわ、地下への入口は崩れるわ……」
操作盤へ手をかざすと、画面に術式と数字が浮かんだ。
「妖気が増しておる。まずいのう」
怪物の周囲へ黒い靄が集まる。
細かった手足に、幾重もの殻が重なった。体が膨らみ、周囲の木々を越えるほどの巨体になる。
「何、あれ……」
「妖殻化じゃ」
「妖殻化……?」
「妖が力を殻としてまとった姿じゃ。ああなれば、人の術だけで止めるのは難しい」
藍子は画面から一歩下がった。
背後の青い機体に近づいた瞬間、胸の奥が熱くなる。
閉じられていた機体の目に、淡い光が灯った。
神主が顔を上げる。
機体と藍子を見比べ、操作盤から手を離した。
「……お主が近づいて、反応したのか」
藍子も振り返る。
青い巨体の目が、光っている。
「今まで誰にも応じなんだくせに、このタイミングで……」
神主は藍子を指した。
「お主、あれに乗れ」
「え?」
自分を指さす。
その隣で、琥珀が一歩前へ出た。
「分かった」
「ちょっと、琥珀!?」
琥珀は機体の足元へ歩いていく。
「待て。わしが指したのはそちらでは――」
足元の昇降台へ乗り、手元の印に触れた。
台が上がり始める。
「動いた」
「動かし方も知らないのに乗らないで!」
胸元で台が止まり、搭乗口が開いた。
琥珀は迷わず中へ入る。
装甲が閉じた。
藍子と神主は機体を見上げた。
動かない。
目に灯っていた光も、ゆっくり消えていく。
神主が腕を組んだ。
「やはり違うではないか」
胸部から、琥珀の声が響いた。
『動かない』
「知っておる!」




