第五話 山の夜
第五話 山の夜
その日の夜。
東雲神社から離れた山中を、一人の男が歩いていた。
先日、神社を訪れた陰陽連盟の調査員だった。
懐中電灯で獣道を照らし、もう片方の手に持った探知具へ目を落とす。
先端の針は、山へ入ってから小さく揺れ続けていた。
これまでも、同じ程度の反応はあった。近づいて確かめれば、薄れかけた残滓だけが残っている。
だが、今夜は違った。
奥へ進むほど、針の振れ幅が大きくなっている。
「残滓だけではないな……」
足を止め、探知具を腰の留め具へ差した。携帯端末を取り出し、現在地と測定結果を送る。
『東雲神社北西の山中。反応が強まっています。これ以上の追跡を中止し、戻ります』
送信済みの表示を確かめ、通話を開いたまま端末を胸元へ収める。
来た道へ向き直ろうとしたとき、灯りの端に足跡が入った。
濡れた土へ、深い窪みが続いている。
初めは獣のものに見えた。だが、形も歩幅も揃っていない。
途中から、二本足で歩いたように左右の跡が交互に並んでいた。
その先は木々の間へ消えている。
懐中電灯を向けた。
枝の隙間に、何かが立っていた。
背丈は人間と大きく変わらない。
照らしても輪郭が定まらず、頭部らしき場所だけが不自然に傾いている。
調査員は一歩下がった。
「本部、応答を。対象を発見した」
返事はない。
腰の探知具から、硬い音がした。針が端まで振れたまま、動かなくなっている。
顔を上げると、怪異は同じ場所に立っていた。
いつの間にか、風の音が消えていた。踏みしめた落ち葉の音だけが、足元で大きく響く。
「本部、聞こえるか」
胸元の端末へ呼びかけながら、さらに後退する。
暗闇の中で、怪異が一歩近づいた。
腰の革箱から護符を二枚抜き、指の間に挟む。
「急急如律令」
放った護符が青白く光った。
細い光が木々の間を走り、怪異の周囲を囲む。地面へ術式が広がり、淡く輝く壁が立ち上がった。
怪異の動きが止まる。
調査員は来た道へ足を戻した。
「こちら東部第六調査班。対象を結界内に拘束。退避します。応援を要請する」
雑音に混じり、声が返った。
『――現在地を――もう一度――』
「東雲神社北西、旧参道付近。位置情報は送信済みです」
結界から目を離さず、下がり続ける。
怪異が片腕を上げた。
黒い指先が、光の壁へ触れる。
乾いた音が鳴った。
一本の亀裂が術式を横切り、瞬く間に全体へ広がる。
「何……?」
壁が砕けた。
宙に浮いていた護符が燃え尽き、灰になって落ちる。
調査員は新たな護符を抜いた。
怪異は追ってこない。
首を傾けた姿勢のまま、こちらを向いている。
「結界を破られました。対象の反応は、事前の測定を大きく上回っています」
そのとき、背後で落ち葉が鳴った。
足が止まる。
前方の怪異は、動いていない。
懐中電灯を背後へ向けた。
木々の間を光が横切る。
何もいない。
今度は、振り向いた背中側から足音がした。
灯りを戻す。怪異は同じ場所に立っている。
「退路側にも足音がします。複数いる可能性が――」
足音が近づいた。
新たな護符が指先で光る。
その直後、懐中電灯が地面へ落ちた。
光が濡れた落ち葉を照らし、横へ転がっていく。
端末から、調査員を呼ぶ声が響いた。
『東部第六調査班、応答してください』
返事はなかった。
『聞こえますか。応答を』
やがて通信が切れた。
山には、風の音だけが戻った。
◇
翌朝、藍子が居間へ入ると、こたつが置かれていた。
昨日出した布団は縁側で干されている。
代わりに掛けられた薄い布団の下から、白い狐耳がのぞいていた。
「琥珀、起きて」
「起きてる」
「それは起きてる人の姿じゃないよ」
「暖かい」
藍子も足を入れた。
確かに暖かい。冷えた爪先まで、じんわりと温まっていく。
「……朝ご飯だよ」
琥珀がゆっくりと顔を出した。
台所から母が味噌汁の鍋を運んでくる。その後ろへ、琥珀の視線が向いた。
「おでんは夜まで待ってね」
「分かってる」
答えてからも、台所を見ていた。
三人で食卓を囲む横で、テレビから朝のニュースが流れる。
『昨夜、山中で男性が倒れているのが発見され、死亡が確認されました』
藍子の箸が止まった。
画面には、見覚えのある山道が映っている。入口に規制線が張られ、警察車両が何台も停まっていた。
『現場には大型動物のものとみられる痕跡が残されており、警察は熊に襲われた可能性もあるとして――』
「この近くだよね?」
「ええ」
母は短く答えた。
昨日通った表の道から、それほど離れていない。
藍子は画面へ身を寄せた。
「亡くなった人って、近所の人?」
「まだ分からないわ」
母は箸を置いた。
「学校へは表の道から行きなさい。帰りも寄り道しないでね」
「うん」
隣で、琥珀が小さく口を開いた。
「熊じゃない」
テレビではなく、母の横顔を見ている。
「山にいたもの?」
「ん」
母は琥珀へ目を向けたが、何も尋ねなかった。
廊下の電話が鳴る。
「はい、九條です」
受話器を取った母は、しばらく黙って相手の話を聞いていた。
「……承知しました。こちらでも境内を閉鎖します」
藍子は箸を置き、母が戻るのを待った。
「学校から帰ったら、今日は外へ出ないこと。境内の掃除もしなくていいわ」
「でも――」
「藍子」
穏やかな声だった。
それでも、続きを言えなかった。
「……分かりました」
母が席へ戻る。
テレビでは、熊への注意を呼びかけるニュースが続いていた。
◇
学校でも、朝から山の事故が話題になっていた。
「やっぱり熊だったらしいよ」
「この前、先生も気をつけろって言ってたよね」
「この辺で人が襲われるなんて、今までなかったのに」
藍子は教科書を開いたまま、話し声へ耳を向けた。
「藍子の家、山の近くだよね?」
前の席の女子生徒が振り返る。
「うん。でも、裏手の林には近づかないように言われてる」
「しばらく誰かに送ってもらった方がいいんじゃない?」
「表の道を通って帰ることになってるよ。琥珀も一緒だし」
隣では、琥珀が窓の外を見ていた。
「琥珀」
「ん?」
「今朝のこと、ここでは言わないでね」
「熊じゃないこと?」
藍子は慌てて周囲を見た。
「……そう。それ」
「分かった」
琥珀は教科書を開いた。
担任が教室へ入り、ざわめきが収まる。
朝の会では、山側の通学路の使用禁止が続くことと、放課後は寄り道をせず、複数人で帰ることを念押しされた。
昼休みになっても、山の話は続いていた。
「夜中に鳴き声がしたって」
「うちの近くでも、大きな影を見た人がいるらしいよ」
藍子は弁当を食べながら、窓へ目を向けた。
見える山は、昨日と変わらない。
朝、母が告げた境内の閉鎖を思い出す。足跡が見つかったときには、そこまでしなかった。
「昨日まで、目撃情報もなくなってたのに……」
琥珀が弁当箱を閉じる。
「怖いから、増える」
「噂が?」
「ん」
教室の後ろで、また別の生徒が話し始めた。
藍子は残ったおかずを口へ運んだが、母が今どうしているのか気になっていた。
◇
放課後、二人は表の道を通って帰った。
東雲神社の石段前には、札が立てられている。
『当面の間、参拝をご遠慮ください』
石段を上っても、参拝客の姿はなかった。
母屋の前には黒い車が二台停まっている。
裏手の林へ続く道には注連縄が張られ、その先へ入れないようになっていた。
「また、調べに来たのかな」
玄関を開けると、何人分もの靴が並んでいた。
奥の部屋から、低い声が聞こえる。
「今後、単独での行動は禁止します」
「次からは最低でも三名。戦闘班を含む小隊で対処してください」
藍子は足を止めた。
「昨夜の怪異は、それほどのものなのですか」
母の声だった。
短い沈黙のあと、男が答える。
「現時点では断定できません。ですが、従来と同じものとして扱うことはできません」
琥珀が襖へ近づこうとした。
藍子は袖をつかみ、首を横に振る。
二人は廊下を離れ、藍子の部屋へ入った。
教科書を机へ置いたが、開く気にはなれなかった。
「怪異って……」
座布団へ座り、声を落とす。
「今朝、琥珀が言ってた、山にいるもののこと?」
「たぶん」
「戦闘班って言ってたよね。熊を捜す人たちじゃないのかな」
琥珀は窓辺へ立った。
林の手前には新しい注連縄が張られ、護符が一定の間隔で下げられている。
「琥珀には、何か見える?」
「見えない」
「今も、山にいる?」
「今は、分からない」
藍子も窓へ近づいた。
木々が風に揺れている。
それだけだった。
しばらくして、玄関の戸が開く音がした。
複数の足音が母屋を出ていき、車のエンジン音が遠ざかる。
廊下から母に呼ばれ、二人は居間へ向かった。
「さっきの人たち、誰だったの?」
「山を調べている方々よ。今夜の捜索について、確認に来ていたの」
母は二人を座らせた。
「東雲神社にも、見回りの方が残ることになりました」
「朝のニュースと関係あるの?」
「ええ」
「お母さんたち、怪異って話してたよね」
母の手が止まった。
「廊下で、聞こえたの」
藍子は母の顔を見た。
母はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「何が山にいるのか、まだ詳しくは分かっていないの。だから、自分たちで確かめようとしないで」
「……うん。行かないよ」
母が琥珀へ目を向ける。
「琥珀もね」
「行かない」
「何かを見つけても、二人だけで追わずに知らせてちょうだい」
「分かりました」
「ん」
二人の返事を聞き、母は小さく息をついた。
◇
その夜、複数の明かりが裏手の山へ入っていった。
境内には見回りの者が配置され、母屋の周囲にも新しい護符が張られている。
藍子が眠ったあとも、琥珀は窓辺に座っていた。
林の間で、明かりが一つ動く。
昼間には捉えられなかった気配が、そのさらに奥から伝わってきた。
以前、山道で感じたものだった。
琥珀は目を閉じた。
山の奥にあった気配が、少しずつ下へ移っていく。
目を開くと、捜索の明かりはまだ林の中にあった。
やがて、山から気配が消えた。
琥珀は町へ顔を向けた。
灯りが並ぶ方角に、同じ気配がかすかに残っている。
「……下りた」
眠っている藍子には、その声は届かなかった。




