エピローグ
エピローグ
鞄の留め具を閉じると、端から袖がはみ出した。
藍子は一度開け直し、畳んだ服を奥へ寄せる。
机の上には、まだ本が三冊残っていた。
一冊を手に取り、鞄へ重ねてみる。入らない。
「置いていけば」
入口から声がした。
琥珀が、自分の荷物を足元へ置いている。
「途中まで読んでるの」
「三冊とも?」
「こっちは、向こうで読もうと思って」
「途中じゃない」
「……そうだけど」
表紙を見比べ、二冊を棚へ戻した。
残した一冊を、手提げへ入れる。
「これでよし」
琥珀が手提げを見た。
「増えた」
「鞄には入らなかったから」
「私には減らせって言った」
「琥珀は、靴下をずいぶん入れてたでしょう」
「使う」
「向こうでも洗濯するんだよ」
琥珀は足元の鞄へ目を落とした。
少し考えてから、持ち手を握る。
「もう閉めた」
「開けられるでしょう」
廊下の奥から、母の声が届いた。
「二人とも、朝ご飯ですよ」
「今行く」
藍子は鞄を持ち上げた。
左腕でも支えられる。入口のそばへ寄せ、手提げをその上へ置いた。
机を見回す。
引き出しは閉めた。充電器も入れた。学校から持ち帰った教科書は、棚の下段に揃えてある。
窓際には、本を抜いた分だけ隙間ができていた。
「藍子」
「うん」
部屋を出る琥珀のあとを追った。
居間には、焼いた魚と味噌汁が並んでいる。
母が三人分のご飯をよそっていた。
「荷物はまとまった?」
「うん。書類も、外側の袋に入れたよ」
「通行札は?」
「同じところ。琥珀も持った?」
「持った」
昨夜、母と一緒に中身を揃えた封筒を思い浮かべる。
学園へ持っていく書類とは分けて、すぐ出せるようにしておいた。
三人で手を合わせる。
味噌汁を飲むと、窓から入る光が椀の縁へ当たった。
こたつの布団は、数日前に片づけてある。
「向こうへ着いたら、連絡してちょうだい」
母が言った。
「うん。部屋に荷物を置いたら電話する」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんにもね」
「昨日、連絡したよ。着いたら、また知らせる」
昨夜は携帯電話の画面を見て、返信を打っているうちに、荷造りの手が止まってしまった。
どんな授業を受けているのか。
実習では何をするのか。
聞きたいことを並べたら、一度には送りきれなかった。
「何て言ってた?」
琥珀が尋ねる。
「着いてから、また話そうって」
「質問、多かった?」
「……ちょっと」
「私も聞きたい」
「じゃあ、一緒に聞こうね」
母が二人の前へ煮物の皿を寄せた。
「まずは朝ご飯を食べてからね。玄斎様をお待たせしないように」
「はい」
藍子は箸を持ち直した。
食事を終えると、母と食器を片づけ、お茶を飲んだ。
琥珀は湯飲みを両手で包み、最後の一口まで飲んでから机へ置く。
藍子も飲み終え、二人分を盆へ載せた。
台所で母が洗うそばから、水気を拭いて棚へ戻す。
二つとも、いつもの場所に収まった。
玄関へ荷物を運ぶと、母も上着を羽織って出てきた。
「お母さんも、大社まで?」
「ええ。玄斎様にご挨拶しておきたいから」
琥珀が靴へ足を入れ、鞄の持ち手を握る。
藍子も靴を履いた。
立ち上がり、肩の紐を直す。
膝は揺れなかった。
扉を開けると、風が前髪を揺らした。
片手で押さえ、外へ出る。
三月下旬の朝だった。
日陰に残っていた雪もなくなり、道端の土には小さな草が伸びている。
家の前を曲がると、琥珀が鞄を反対の手へ持ち替えた。
「重い?」
「少し」
「靴下、減らしてくればよかったのに」
「靴下だけじゃない」
「分かってるよ」
石段の下で、母が手を差し出した。
「そこは、私が持ちましょうか」
琥珀は段を見上げ、それから鞄を見る。
「石段だけ、お願い」
「ええ」
藍子も肩の紐を直した。
手提げは軽いが、鞄と一緒に持つと、上る時に脚へ当たりそうだった。
「私も、これをお願いしていい?」
母が受け取る。
二人は空いた手で荷物を支え直し、並んで石段を上った。
境内へ出ると、社務所の前に玄斎がいた。
「来たな」
「おはようございます」
「おはよう、玄爺」
母も挨拶し、頭を下げた。
「今日は、よろしくお願いします」
「うむ。京都側も、受け入れの準備ができておる」
玄斎が社務所へ手を向ける。
「先に、到着後の案内を聞いておこう。二人とも、中へ入れ」
藍子は母から手提げを受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
琥珀も鞄を受け取り、持ち手を両手で握る。
縁側にいた奉術衆が立ち上がった。
「荷物は、こちらへ置いてください」
「はい」
示された場所へ鞄を下ろすと、肩が軽くなった。
社務所の机には、いつもの地図と報告書がある。
その隣に、二人の名が書かれた用紙が並んでいた。
担当者が用紙へ目を通し、顔を上げる。
「京都の寮への通行登録は済んでいます。到着後は、向こうの担当者が部屋までご案内します」
「分かりました」
玄斎が母へ顔を向けた。
「稽古の予定は、学園の時間割が出てから決める。こちらへ来る日が決まれば、母御にも伝えよう」
「ええ。二人とも、帰る時は連絡してくださいね」
「うん」
「ん」
母が頷き、荷物のそばへ寄った。
藍子も立ち上がる。
玄斎のあとに続き、母と琥珀とともに社務所を出た。
境内の脇を通り、担当者に開けてもらった扉へ入る。
広い部屋の床には、円を囲むように術式が刻まれていた。
藍子は入口で足を止めた。
《徒桜》を送った母陣より、ずっと小さい。
円の向こうには、荷物を置く場所が空けられている。担当者がその横に立ち、こちらへ頷いた。
「準備ができたら、お一人ずつ札を見せてください。まだ、床の線の内側へは入らないでくださいね」
「はい」
藍子は鞄を足元へ下ろした。
母が上着の襟を直してくれる。
「向こうへ着いて、分からないことがあったら、担当の方に聞くのよ」
「うん」
「二人で分からないまま、先へ行かないでね」
「聞く」
琥珀が答えた。
母はその顔を見てから、藍子へ目を戻す。
藍子は背筋を伸ばした。
「行ってきます」
「行ってきます」
隣からも声が続いた。
母が笑った。
「行ってらっしゃい」
外側の袋から封筒を取り出し、中の通行札を抜いた。
指の間で向きを確かめ、担当者へ差し出す。
担当者が通行札を受け取り、机の上の札へ重ねた。
細い光が、二枚の間を走る。
「確認できました。京都へ着いてからも使います。なくさないようにしてください」
「はい」
返された札を、今度は封筒へ戻さず、鞄の外側へしまう。
琥珀も確認を終え、隣へ戻ってきた。
床の術式が、淡く光り始める。
「お二人とも、荷物を持って線の内側へどうぞ。中央で止まってください」
藍子は鞄を肩へ掛け、手提げを持った。
琥珀が先に一歩入る。
その隣へ進み、床を見た。
靴の下を、光が細く流れている。
「ここでいいですか?」
「はい。そのままお待ちください」
顔を上げると、母が入口のそばにいた。
玄斎も隣に立っている。
「着いたら、荷物を置いて一息つくのじゃぞ」
「はい」
母が小さく手を振る。
藍子も、手提げを持ったまま振り返した。
『京都側、受け入れ準備ができています』
部屋の通信具から声が届いた。
担当者が応じ、床へ手をかざす。
「これから送ります。光が消えるまで、その場所で待っていてください」
光が靴の周りへ広がった。
琥珀の鞄にも、白い筋が映る。
藍子は手提げの持ち手を握り直した。
母と玄斎の姿が、薄れていく。
一度、瞬きをした。
床を踏んでいるはずなのに、その感触が遠くなる。
息を吸いかけたところで、靴底へ硬さが戻った。
「到着しました。まだ動かず、そのままお待ちください」
知らない声だった。
正面にあった扉が消えている。
代わりに、高い窓が見えた。
窓の下には机があり、紺色の上着を着た女性がこちらを見ていた。
藍子は隣を確かめる。
琥珀も鞄を持ったまま、窓を見上げていた。
「……着いた?」
「多分」
「着いていますよ」
女性が笑った。
床の光が消える。
「ようこそ。京都の寮です。お二人とも、気分は悪くありませんか?」
「大丈夫です」
「平気です」
「では、線の外へどうぞ。部屋までご案内します」
藍子は足元を見て、一歩出た。
床は揺れない。
もう一歩進むと、窓から差す日が手の甲へ当たった。
扉の外は、長い廊下だった。
窓際に掃除道具が置かれ、壁には食堂や浴室の利用時間が貼られている。
女性が転送室の扉を閉め、鍵を掛けた。
「転送室を使う時は、担当者へ声を掛けてください。掲示している時間に変更がある場合は、こちらでお知らせします」
「はい」
歩きながら、掲示へ目を向ける。
食堂の時間の前で、琥珀の足が少し遅くなった。
「あとで、ここも案内しますね」
「お願いします」
返事が、さっきよりはっきりしていた。
藍子は笑いをこらえ、鞄を掛け直す。
階段の手前で、向こうから二人の男子生徒が歩いてきた。
一人は畳んだ布団を抱え、もう一人はその上へ枕を載せようとしている。
「上に載せれば、一度で運べるだろ」
「歩くと落ちるって。枕くらい自分で持て」
「一つ増えても変わらないと思ったのに」
「じゃあ、布団も持つか?」
枕を載せようとしていた生徒が、手を引っ込めた。
二人は女性に気づくと、足を止める。
「おはようございます」
「おはよう。こちら、今日から入るお二人です」
布団を持った生徒が、こちらを見た。
「新入生?」
「四月から、二年に編入します」
「じゃあ、同じ学年だ。よろしく」
「よろしくお願いします」
藍子が頭を下げると、琥珀も隣で会釈した。
もう一人が枕を自分の脇へ挟む。
「荷物、まだある?」
「これで全部です」
「そっか。ここ、通れる?」
二人が廊下の端へ寄ってくれた。
「ありがとうございます」
すれ違うと、背後でまた声がした。
「ほら、枕くらい持てるだろ」
「持ってるだろ、今は」
足音が遠ざかる。
琥珀がこちらを見た。
「元気」
「うん」
藍子は笑って、段へ足を掛けた。
踊り場で、女性が上を示す。
「この上が女子の居住階です。男子とは居住区画を分けています。一階の食堂や談話室は共用ですよ」
「分かりました」
階段を上りきると、廊下の両側に扉が並んでいた。
案内されたのは、隣り合う二つの部屋だった。
渡された鍵の番号と、扉の番号を確かめる。
藍子が鍵を回すと、軽い音がした。
「室内の備品は、机の上の用紙に載っています。足りないものや、壊れているところがあれば知らせてください」
「はい」
「ひとまず荷物を置いて、一息ついたら出てきてください。食堂や共用の場所をご案内します」
「母に、着いたと連絡してもいいですか?」
「ええ、どうぞ。私は廊下にいますから」
女性は少し離れた窓辺へ向かった。
藍子は扉を押し開ける。
写真で見た机があった。
その横に棚と寝台。窓際には、何も置かれていない。
鞄を床へ下ろすと、部屋の中へ音が響いた。
手提げを机の脇へ置き、肩から手を離す。
窓へ歩み寄ると、中庭の向こうに校舎が見えた。
どこかの窓が開いている。
「それ、こっちの箱!」
「どっちも同じじゃん!」
「名前が違うだろ!」
藍子は声のした方を探し、少し笑った。
「入っていい?」
入口に琥珀がいた。
「うん。荷物、置けた?」
「置いた」
もう手ぶらだった。
琥珀は机と寝台を見てから、窓へ近づく。
「同じ」
「部屋の中?」
「ん。向きは違う」
「あとで、私も見に行っていい?」
「いい」
藍子は鞄から携帯電話を取り出した。
母へ発信すると、ほどなくつながった。
『着いた?』
「うん。今、部屋へ入ったところ。琥珀も一緒にいるよ」
隣へ少し寄せる。
「着いた」
琥珀が言った。
電話の向こうで、母が息を吐いた。
『そう。二人とも、無事に着いてよかった』
「隣の部屋だったよ。これから、寮の中を案内してもらうの」
『では、担当の方をお待たせしないようにね』
「うん。落ち着いたら、また電話する」
『ええ』
通話を終え、携帯電話を鞄へ戻した。
兄と姉への連絡は、案内が終わってからにしよう。
鍵を手に取る。
「行こうか」
「ん」
廊下へ出ると、女性がこちらを向いた。
「お部屋は大丈夫そうですか?」
「はい。荷物を置いてきました。備品は、戻ってから確かめます」
「分かりました。では、一階をご案内しますね」
藍子は扉を閉め、鍵を掛けた。
隣の扉は、もう閉まっていた。
琥珀も鍵をポケットへしまい、並んで階段を下りる。
一階へ戻ると、女性は廊下の途中で足を止めた。
「こちらが談話室です。机や本棚は、寮生の皆さんで使えます」
開いた扉から中をのぞく。
長い机に、本を開いた生徒が二人いた。
一人が紙の上へ指を置き、何かを尋ねている。隣の生徒は首をひねり、自分の本をめくっていた。
「勉強も、ここで?」
「ええ。部屋で集中したい人もいますし、こちらで誰かと相談する人もいます。空いている席は使って構いませんよ」
藍子は頷いた。
冊子で見た写真より、机にはいろいろなものが載っていた。
本、筆箱、蓋のついた飲み物。
椅子の背には、脱いだ上着が掛けられている。
机の一人が顔を上げた。
「新しく入る人?」
「はい。四月からです」
「よろしく。ここ、夕方も誰かしらいるから。分からないことがあったら聞いて」
もう一人も本から顔を上げ、頷いた。
「寮のことなら、だいたい分かる」
「勉強は?」
「今、それを聞いてたところだろ」
藍子は笑い、頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
部屋を出ると、琥珀が振り返った。
「あそこで、一緒に勉強できる」
「うん。分からないところ、聞けそうだね」
「私たちが分かるところもある?」
「あるといいね。授業が始まったら、持ってきてみようか」
「ん」
廊下の先では、先ほどの男子生徒たちが、寝具の保管室へ布団を運び込んでいた。
枕を持っていた方が、空になった手を振る。
「あ、案内中?」
「はい。これから食堂へ向かいます」
女性が答えた。
「俺たちも、これを片づけたら休憩。席、取っとく?」
急に尋ねられ、藍子は顔を上げた。
「いいんですか?」
「うん。入口の近くにいるから」
「ありがとうございます。あとで行きます」
もう一人も保管室から出てきた。
「自分の分は片づけたからな。残ってても、もう手伝わないぞ」
「終わったって。ほら」
保管室の中を指し、それから二人で廊下を曲がっていった。
「知ってる人、できた」
琥珀が言った。
「まだ、名前を聞いてないよ」
「食堂で聞く」
「うん。私たちの名前も、言わないとね」
食堂の入口へ着くと、女性が壁の掲示を示した。
「朝食と夕食の時間は、こちらです。食事の時間以外も、ここで休憩できますよ」
「はい」
中では、数人が椅子へ座って話していた。
奥の方から、食器を片づける音がする。
入口に近い机で、先ほどの生徒が腕を上げた。
「こっち、空いてるよ!」
藍子も手を上げる。
「今、行きます」
案内してくれた女性へ礼を言い、隣の琥珀と顔を見合わせた。
二人で、空いた席へ向かった。
ここまで『神機巫女 -SHIKITSUNE-』第一章をお読みいただき、ありがとうございます。
怪異も神機も知らなかった藍子が、《徒桜》と出会い、怖さを抱えながらも、
自分で乗ると答えるまでを描いた第一章でした。
戦いのあと、家へ帰ってご飯を食べたり、琥珀と他愛のない話をしたり。
そうした日々も含めて、二人を好きになっていただけていたら嬉しいです。
第二章では、舞台が京都の《八咫烏》へ移ります。新しい仲間や先生たちとの出会い、
授業や寮での暮らし。藍子と琥珀がどんな毎日を送るのか、
引き続き見守っていただければと思います。
また、第二章の前には、過去を描く断章を挟みます。
こちらも楽しんでいただけましたら幸いです。
これからも『神機巫女 -SHIKITSUNE-』をよろしくお願いします。




