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神機巫女 -SHIKITSUNE-  作者: レイン
第三節 知ったうえで、まだ選べない

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第四十話 次へ進むために

第四十話 次へ進むために


 玄関へ入ると、煮物の匂いがした。


 藍子は靴を脱ごうとして、壁へ右手をつく。


 片足を上げると、残した膝が頼りなく揺れた。


「座って脱ぐ」


 隣で琥珀が言う。


「……そうする」


 上(あ)がり框(かまち)へ腰を下ろしたところで、廊下の奥から母が来た。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 母が目の前へしゃがむ。


 顔をのぞき込まれ、藍子は少し笑った。


 肩へ手が添えられる。


 言おうと思っていたことはあったのに、母の顔を見ると、すぐには言葉にならなかった。


「寒かったでしょう。中へ入りましょうね」


「うん」


 靴を脱ぎ終え、立ち上がろうとすると、琥珀が右側へ寄った。


 差し出された腕を借りる。


「歩けるよ」


「立つところまで」


 腕を借りたまま身体を起こし、膝が伸びきるのを待った。


「ありがとう」


「ん」


 居間までゆっくり歩き、こたつの脇へ座る。


 母が背中へ座布団を当ててくれた。


「鞄は?」


「大社に置いてきた」


「私のも」


 琥珀が続ける。


「そう。今夜、要るものは入っていない?」


「うん。教科書と、筆箱くらい」


「では、明日受け取ればいいわね」


 台所へ向かう背中を見送った。


 机には三人分の箸が並んでいる。


 いつもなら、椀を出すのは自分だった。鍋の中を確かめ、ご飯をよそい、琥珀を呼ぶ。


 湯気の上がる鍋を持って母が戻ってくる。


 藍子は箸の位置だけを少し直し、そのまま待った。


 向かいへ座った琥珀が、こたつの中へ足を入れる。


 膝に何かが当たった。


「琥珀」


「ん」


「足、こっちまで来てる」


「狭い」


「私の方へ伸ばしてるからでしょ」


 足が引っ込んだ。


 母が小さく笑い、二人の前へ椀を置いた。


「いただきます」


 三人で食べ始めた。


 箸を持つと、指先に薙刀の柄の硬さがよみがえる。


 握る力を少し緩め、煮物へ伸ばした。


 大根は、箸を入れるだけで割れた。


 一口食べてから、箸を置く。


「お母さん。今日のこと、話してもいい?」


「ええ」


 母も箸を置き、こちらへ向き直った。


「《徒桜》に乗るって、自分で答えたよ。何をするのか聞いて、退く時のことも確かめてから」


 大社で答えた時より、言葉を出すのに力が要った。


「でも、途中で下がれって言われた時、すぐには下がれなかった」


「……」


「まだ救助している人がいて。私が離れたら、その人たちのところへ怪異の脚が届くと思ったの。《朧》の人が代わってくれるって言ってたのに、もう少しだけならって……」


「それで、下がれたの?」


「うん。琥珀に止めてもらって、原田さんが交代させてくれた」


 膝に置いた左手を見る。


「あの時、もう手がうまく動かなくなってた。今も、腕を上げようとすると熱いの」


 母が琥珀へ目を向ける。


 琥珀は小さく頷いた。


「玄斎様には伝えたよ。熱さが強くなったり、動かしにくくなったりしたら、すぐ連絡するようにって」


「分かりました。今夜は休ませましょう」


「うん」


 袖から出ていた指をそろえ、膝へ置き直した。


「下がって休んでから、最後の戦いにも加わったよ。帰る時は、私から言えた。現地の確認をお願いして、帰還しますって」


 話し終えると、母はしばらく黙っていた。


「大社から出撃の連絡があってから、ずっと電話をそばへ置いていたの」


 居間の隅に、携帯電話があった。


 充電の線につながれ、母の座る場所のすぐ横へ置かれている。


「夕食を作っている間も、何度も見てしまって。鳴っていないのに、聞こえた気がしたりしてね」


 机の上には、いつもと同じ料理が並んでいた。


 藍子は煮物の皿を見てから、母へ目を戻した。


「……ごめんなさい」


 母が手を伸ばした。


 頬に触れた指が、耳の下へ落ちた髪をよける。


「もしまた乗るなら、下がるように言われた時は、無理に続けず交代してね」


「うん」


「代わりの人が来てくれても、藍子が動けなくなっていたら、交代できないでしょう」


 《朧》が間へ入る姿を思い出した。


 後ろには、足を置く場所を示してくれた原田がいた。


「うん。次は、動けなくなる前に伝える」


 母の手が頬から離れた。


「話してくれて、ありがとう」


 藍子は頷いた。


 母が箸を取り直す。


「お母さん」


「なに?」


「……ただいま」


 母は頷いた。


「おかえりなさい」


 それから煮物の皿を少し寄せる。


「温かいうちに食べましょう」


 藍子も、大根の残りを口へ運んだ。


 味噌汁を飲もうとして、椀へ左手を添えかけた。


 腕の外側が熱くなる。


 手を膝へ戻し、右手で持てるように椀を近づけた。


 まだ湯気が立っている。


 少し冷めるまで、魚を食べることにした。


 向かいで、琥珀が茶碗を差し出す。


「おかわり」


「もう?」


 顔を上げると、空の茶碗が見えた。


「お腹すいた」


「……私も、食べたら急にすいてきた」


「藍子もおかわり?」


「まだ残ってるよ」


 母が茶碗を受け取り、台所へ立つ。


 琥珀は魚の骨を皿の端へ寄せ、戻ってきたご飯へすぐに箸をつけた。


「琥珀も、ずっと地下にいたんだよね。何も食べてなかったの?」


「ん。お腹はすいてた」


「誰かに言えばよかったのに」


「通信を聞いてたから」


 ご飯を飲み込んでから、こちらを見る。


「藍子が呼んだ時、返事できないと困る」


 藍子は、地下へ残った琥珀の姿を思い浮かべた。


 自分からは見えなくなっても、あの場所で通信を聞き続けていた。


「……そっか。お腹すいたまま、待っててくれたんだね」


「今、食べてる」


 琥珀はご飯を一口頬張った。


 藍子も味噌汁を持ち上げる。


 縁へ口をつけると、今度はちょうどよい温かさだった。


 食事が終わると、母が食器を盆へ集め始めた。


 藍子は自分の茶碗を右手で持ち、机の端へ置く。


「ここ、お願いしていい?」


「ええ」


 母が受け取った。


 琥珀も皿を寄せ、箸を盆へ載せる。


 二人が机を空けている間に、母が台所へ運んでいった。


 背中の座布団へ身体を預ける。


 家へ帰れば、もう少し動けると思っていた。


 けれど、食べ終えた途端、膝から下まで重くなっている。


 台所から水の流れる音がした。


 椀と皿が触れる、小さな音も聞こえる。


 琥珀がこたつの布団を直した。


 藍子の足元にも、暖かい空気が入ってくる。


「眠い?」


「少し」


「布団、敷く?」


「まだ着替えてない」


「じゃあ、着替えてから」


「うん……」


 返事をしたまま、目を閉じかけた。


 何かを待たなければならない気がして、もう一度開く。


 机の上には、湯飲みが二つ残っている。


 琥珀はその一つを両手で持ち、こちらを見ていた。


「藍子」


「起きてるよ」


「今、目を閉じた」


「閉じただけ」


 答えてから、いつかの琥珀と同じことを言っていると気づいた。


 向かいの顔を見て、苦笑する。


「……着替える。手伝ってもらっていい?」


「ん」


 琥珀が湯飲みを置き、立ち上がった。


 藍子も右手を畳へつく。


 差し出された腕を借り、今度は急がずに身体を起こした。


     ◇


 二月に入って最初の放課後、大社の石段を上った。


 左腕は、下げているだけなら熱くならなくなった。けれど、鞄を肩へ掛け直す時には、まだ右手が先に出る。


 石段の途中で、琥珀が振り返った。


「持つ?」


「今日は大丈夫。教科書、置いてきたから」


「全部?」


「宿題に使う分は持ってるよ」


 琥珀は自分の鞄へ目を落とした。


「私も減らした」


「必要なものまで置いてきてない?」


「多分」


「そこは確かめようね」


 境内へ出ると、稽古場から木を打つ音が聞こえた。


 そちらへ向きかけたところで、社務所の縁側から呼ばれる。


「二人とも、先にこちらへ来い」


 玄斎が、手にした封筒を軽く上げていた。


 社務所へ入ると、机の上へ一枚の紙が置かれた。


「旧取水施設の作業員たちから、連盟へ礼状が届いた。救助に関わった者へ渡してほしいそうでな。大社にも写しが来ておる」


 藍子は椅子へ座った。


 琥珀も隣から紙をのぞく。


 上の方には、救助に携わった皆様へ、と書かれていた。


 六人とも家へ戻れたこと。


 家族も心配していたこと。


 藍子はそこまで読んで、顔を上げた。


「瀬川さんの足は?」


「今は自宅で療養しておる。回復の見込みもあるそうじゃ」


「よかった……」


「ほかの作業員五人に負傷はなく、駆動室に残った小隊員も無事じゃ。救助班の二人も戻っている」


 隣で琥珀が頷いた。


 藍子は紙へ目を戻す。


 部屋で待っている間、水と毛布が届いて助かった、と続いていた。


 窓の外へ出るのが怖かったことも、短く書かれている。


 下を見ない方がいいですか。


 通信で聞いた声を思い出した。


 台の前にいた自分には、窓も、下りてくる人の姿も見えなかった。


「毛布のこと、書いてある」


 琥珀が指した。


「うん。足の下に入れてたね」


「もう一枚は、車」


「瀬川さんに掛けたの」


 紙へ添えた琥珀の指の隣を、もう一度読んだ。


 水を飲み、毛布を使っているという報告が届くと、支援担当が記録へ書き添えていた。


 その時は、次に下ろせるかを待っていた。


 今は先を急がず、文字を追えた。


 最後の方には、機体で道を守っていた方々にも、どうかお礼をお伝えください、とある。


 藍子は紙の端を持ち直した。


 その行を読んだまま、しばらく先へ進めなかった。


「原田さんたちにも、届いたんですか?」


「うむ。《朧》を送り出した支部にも渡る」


 頷き、ようやく下へ目を移した。


 六人の名前が並んでいる。


 瀬川の名だけは、すぐに見つけられた。ほかの五人の名も、ゆっくり読んでいく。


 正門の外へ先に出た四人。


 最後に救助路を通り、《徒桜》を見上げた一人。


 あの時、口が動いていた。


 何と言ったのか、聞こえなかった。


 紙から顔を上げる。


「《朧》の搭乗者は、もう休めているんですか?」


「休養を取っておる。機体も点検中じゃ」


「最後まで、何度も助けてもらったから」


「礼状も、本人に読んでもらえるよう伝えておこう」


 藍子は左腕を膝へ置き直した。


 自分と同じように、帰ってから疲れが出たのだろうか。


「私からも、お礼を伝えたいです」


「文にするなら、支部へ送れるぞ」


「お願いします」


 玄斎は礼状の入っていた封筒を脇へ置いた。


「書けたら預かろう」


 机の向こうには、旧取水施設の図面も出ていた。


 西側の階段と外壁に、修繕箇所を示す印がついている。


「施設は、まだ使えないんですか?」


「壊れた階段と壁を直さねばならん。残った金属や器物も調べている。作業員を戻すのは、それからじゃ」


 駆動室の窓へ目を向けた。


 その下の足場と、角へ続く細い通路。


 あの道を通るために、背負い具と縄を用意した。今度は直す人たちが入り、欠けた縁や階段を確かめることになる。


「妖気の方は、何か分かったんですか?」


「採取したものを、調整池やほかの地点のものと比べておる。原因については、まだ報告できる結果が出ていない」


「二十四分の記録も?」


 琥珀が尋ねる。


「集めておる。ただ、今回の施設では、妖気が強まり始めた時刻を絞りきれておらん」


 琥珀は机の上の資料へ目を向けた。


 表紙には、施設の名と採取物の番号が書かれている。


「続きは、観測担当?」


「うむ。現地の記録と合わせて調べてもらっている。分かったことがあれば、二人にも知らせよう」


「ん」


 玄斎が図面を畳み、資料と重ねた。


 琥珀も礼状へ向き直る。


「これ、持って帰っていい?」


「そのための写しじゃ。二人で読め」


「ありがとうございます」


 藍子が受け取ると、琥珀が鞄を開いた。


 教科書の間から下敷きを出し、机へ置く。


「挟む?」


「うん。折りたくないから」


 重ねようとして、手を止めた。


「その前に、お返事を書いてもいいですか?」


 玄斎が机の引き出しを開け、便箋(びんせん)を出す。


「連盟を通じて届けてもらおう」


 琥珀が椅子を寄せた。


「私が書く?」


「右手は平気だよ。書きたいこと、一緒に考えて」


「ん」


 便箋を一枚、二人の間へ置いた。


 お手紙をありがとうございます。


 皆さんがご自宅へ帰れたと知って、嬉しかったです。


 二行を書き、礼状を横へ並べた。


「瀬川さんには、足を大事にしてくださいって書きたいな」


「ん。毛布のことも」


「役に立ってよかった、って?」


 琥珀が頷いた。


 藍子はペンを動かす。


「水と毛布が役に立ったと伺って……」


「嬉しい?」


「うん。でも、さっきも嬉しかったって書いたね」


 琥珀が最初の二行を読む。


「二回でもいい」


 藍子は少し笑った。


「そっか。両方、嬉しかったんだもんね」


 そのまま続きを書いた。


 瀬川の足の回復を願う言葉を添え、声を出さずに読み返す。


「琥珀も読んでくれる?」


 便箋を隣へ寄せた。


 琥珀は上から順に目で追い、最後まで読むと頷く。


「名前は?」


「あ、まだだった」


 九條藍子、と書いた。


 その下を空けてペンを渡すと、琥珀も自分の名前を書き添えた。


 玄斎へ預ける前に、二人で机の上へ広げる。


 隣には、六人の名前が並ぶ礼状があった。


 藍子は二枚を見比べてから、もう一枚、便箋を取った。


「《朧》の人にも書こう」


「そっちは、何て書く?」


 ペンを持ち直した。


「交代してくれて、ありがとうございました、からかな」


 琥珀が隣から頷いた。


     ◇


 二月半ば、藍子は久しぶりに、動く木偶の前へ立った。


 作業員たちと《朧》の搭乗者への手紙は、玄斎へ預けてある。左腕の熱さも消え、ここ数日は薙刀を振る稽古を少しずつ増やしていた。


 今日は、木偶の脇に白い印がつけられている。


「印へ当て、相手から離れるところまでじゃ。停止札ではないから、触れても木偶は止まらんぞ」


「はい」


 縁側では、琥珀が観測用の札を持っていた。


「私は霊力を見る」


「うん。強くなりすぎたら教えて」


 藍子は左肘を寄せ、薙刀を低く構えた。


 玄斎が手元の札へ指を添えると、木偶が近づいてくる。


 横へ伸びた木の腕を柄でそらし、その脇へ穂先(ほさき)を送る。


 白い印に、青い光が広がった。


「当たった!」


 薙刀を引き、玄斎の方を振り返る。


「今の、見てましたか?」


「見ておった。後ろも見よ」


「え?」


 木の腕が、肩を軽く叩いた。


 慌てて向き直ると、木偶は腕を伸ばしたまま止まっていた。


 縁側から琥珀の声がする。


「離れる前に振り向いた」


「……うん」


「さっき言われた」


「聞いてたよ。嬉しくて、つい」


 藍子は叩かれた肩を見てから、玄斎へ頭を下げた。


「もう一度、お願いします」


「うむ。今度は当てたあとも見ておれ」


 構え直すと、木偶が再び近づいてきた。


 同じように腕をそらし、脇の印を狙う。


 ところが、踏み込む直前に木偶の胴が起き上がった。


 印が穂先より高くなる。


 追って刃を持ち上げると、身体へ寄せていた左肘が伸びた。刃先が揺れ、印から外れる。


「藍子、光が強い」


 抑えようとした時、視界の端へ木の腕が入ってきた。


「止めてください!」


 肩へ届く手前で、腕が止まった。


 藍子は薙刀を胸元へ引き、一歩下がる。


 息を吐いてから、木偶の脇を見た。


 白い印は、まだ高い位置にある。


「印を追って刃を上げたら、構えが崩れました。戻そうとしている間に、腕が来て……」


 左肘を曲げ、先ほどの低い構えへ戻す。


 このままでは、穂先は印の下を通ってしまう。


 玄斎がそばへ来た。


「実戦では、どうして届いた?」


「《朧》の人が脚を止めてくれて、胴が傾いたからです」


 今回は、胴を動かしてくれる機体はいない。


「印が低くなるまで待つか、私が位置を変えないと」


「試してみよ」


 玄斎が離れる。


 藍子は木偶の右側へ足を置いてみた。印は近づいたが、今度は伸びた腕が穂先との間に重なる。


 もう少し回れば、その奥へ届くだろうか。


 木偶の足と腕を見比べ、いったん正面へ戻った。


「まず、ここで待ってみます。動かしてください」


 玄斎が札へ指を添えた。


 木偶が胴を起こしても、今度は刃先を上げなかった。


 横に振られた腕を、一歩引いてかわす。


 腕が下がり、脇の印も低くなる。


 今なら。


 足を出しかけたところで、もう一方の腕が印の前を横切った。


 踏み込むのをやめる。


 木偶はそのまま近づいてきたため、藍子は斜め後ろへ下がり、間合いを取り直した。


 柄を強く握っていた。


 左肘を寄せて息を吐くと、刃に沿う光が細くなる。


「光、戻った」


「うん」


 木偶が、もう一歩踏み出してくる。


 今度は片腕を高く上げ、こちらへ振り下ろそうとした。


 藍子は木偶の正面から横へ足をずらす。木の腕がすぐ脇を通り、地面近くまで下がった。


 その腕の付け根に、白い印が見える。


 薙刀を低く保ったまま、右手を前へ送る。


 穂先が触れると同時に柄を引き、木偶から一歩離れた。


 相手の腕が持ち上がる。


 藍子はそれを見ながら、薙刀を正面へ戻す。


「そこまで」


 木偶の動きが止まった。


 玄斎が札から手を離すのを確かめてから、穂先を下げる。


「今度は、どうでしたか?」


「当てたあとも離れられたな」


「よかった……!」


 琥珀へ顔を向けると、縁側で札を膝へ置いていた。


「光、さっきより揺れなかった」


「本当?」


「ん」


 藍子は笑い、柄を握る左手を緩めた。


 熱さはない。


 ただ、腕も肩も疲れている。


「少し休んでから、もう一度やりたいです」


「うむ。薙刀を置いてこい」


 稽古場の端へ歩き、刃を人のいない方へ向けて置いた。


 縁側へ座ると、琥珀が水の入った容器を寄せた。


「ありがとう」


 右手で受け取り、一口飲む。


 琥珀は札へ目を落とし、端を指で押さえた。


「さっき、光が強くなった時」


「二回目?」


「ん。声をかけたあと、木偶の腕が戻ってきた」


「あれ、近かったね」


「私、気づかなかった。札を見てたから」


 藍子は水を膝の上へ置いた。


「私も、言われて光を抑えようとしてた。腕が見えたのは、そのあと」


 二人で、止まっている木偶を見る。


「次は、木偶の腕を見る」


「霊力の方は?」


 琥珀は答えかけ、札と木偶を交互に見た。


「両方は、まだ分からない」


 藍子も稽古場へ目を戻した。


「今日は、札の方をお願いしていい? 腕は私が見る」


「ん。光が変わったら言う」


「その時、私もすぐ手元を見ないで、木偶から離れるね」


 琥珀が頷く。


 玄斎がそばへ腰を下ろした。


「次も同じ動きでやろう。今決めた分担で、試してみよ」


「はい」


 藍子は容器の蓋を閉めた。


 柄を握っていた手を膝へ置く。


 指先には、印へ当てた時の感触が残っていた。


「さっき、当たった時、振り返らなかったでしょう?」


「見てた」


「今度こそ、見てもらいたくなったけど」


「ん。分かった」


「顔に出てた?」


「全部」


 藍子は笑った。


 玄斎が休憩の終わりを告げるまで、二人で木偶を眺めていた。


     ◇


 稽古を終えて社務所へ入ると、窓の外には境内の明かりが灯っていた。


 琥珀が、机へ広げられた冊子をのぞき込んでいる。


「何を見てるの?」


「学校」


 隣へ座ると、校舎の写真が見えた。


 その下には、授業や実習の様子が並んでいる。木立の中で札を構える生徒もいれば、机を囲んで図面を見ている生徒もいた。


 玄斎が、向かいの席へ腰を下ろした。


「四月からの進路について、二人に話がある」


 冊子の表紙をこちらへ向ける。


「京都の専門学校で学ぶことを、考えてみぬか。陰陽連盟附属術者養成学園《八咫烏(やたがらす)》という、術者を育てる学校じゃ。今の学校で一年次を終えたあと、二年次へ編入する形になる」


「京都へ、ですか?」


「うむ。術の基礎だけでなく、ほかの術者と組む実習もある。二人がこれから何を学びたいか、一度、案内を見て考えてほしい」


 藍子は冊子へ目を落とした。


 写真に写る生徒たちは、自分たちと同じくらいの年に見える。


 けれど、今の教室とは違い、机の上に護符が並んでいた。


「今の学校から、移るんですね」


「そうなる。母御とも相談が必要じゃ。まずは、二人の希望を聞きたい」


 隣を見ると、琥珀も写真をのぞき込んでいた。


「琥珀は、どう?」


「もう少し見る」


 一枚めくった先に、長い机と椅子の並ぶ部屋が現れた。


「食堂」


「そこから見るの?」


「大事」


「授業の方も見てね」


「そっちも見る」


 藍子も写真をのぞいた。窓際の席で、何人かの生徒が盆を前に話している。


 その下には、寮の案内があった。


 玄斎が別の紙を広げた。


 いくつかの建物を上から描いた配置図だった。校舎から少し離れたところに、寮の棟が並んでいる。


「二人が部屋を借りるなら、この棟になる」


「ほかの寮とは違うんですか?」


「主に、所属先との行き来が必要な特待生などが使っておる。暮らすための部屋とは別に、人員用の転送室があるのじゃ」


 示された場所へ目を寄せる。


 いくつもの居室と、廊下の先にある転送室。


「ここから、大社へ戻れるんですか?」


「うむ。こちらとの接続を使えるよう、手続きを進める」


 琥珀が、転送室の印を指した。


「部屋ごとにない?」


「皆で使う部屋じゃ。管理する者もおる。使う者には通行札を渡し、許可された経路と条件で行き来してもらう」


「いつでも、というわけではないんですね」


「決められた時間の外で使う時などは、別に許可が要る。詳しい手順は、向こうの担当者とも確かめてから教えよう」


 藍子は配置図の端へ指を置いた。


「《徒桜》は、大社に残るんですよね?」


「そうじゃ。格納も整備も、引き続きこちらで行う。搭乗する時は、大社へ戻ってもらう」


「玄斎様との稽古も、続けられますか?」


「無論じゃ。学園の授業と合わせて、来る日を決めよう」


 机の脇には、さっきまで使っていた観測用の札が置かれている。


 今日決めた琥珀との分担も、まだ試し始めたばかりだった。


「大社から、毎日学園へ通うこともできるんですか?」


「その形も取れる。寮で暮らすかどうかは、母御とも話して決めよ。今日ここで、すべて答える必要はない」


 藍子は頷き、もう一度、居室の並ぶ頁を開いた。


 写真の部屋には、机と寝台があった。


 机の上には本が積まれ、窓際に小さな鉢が置かれている。


「実習では、いろんな人と組むんですか?」


「うむ。教える者も、扱う術や道具によって違う。大社とは違うやり方に触れることもあるじゃろう」


 木立の中で札を構える生徒の写真へ戻る。


 その後ろには、別の生徒が立っていた。二人とも、同じ方を見ている。


 《朧》の搭乗者と、初めて通信で話した時を思い出した。


 どんな声の人なのかも、どう動く人なのかも知らなかった。現地へ着いてから、一つずつ教えてもらった。


「琥珀は、何を習いたい?」


「白い光」


 琥珀は机の札へ目を向けた。


「何ができるのか、調べたい」


「学園なら、分かりそう?」


「分からない」


 返事をしてから、玄斎を見る。


「調べるものは、大社より多い?」


「専門に調べている者も、設備もある。ただし、すぐ答えが出るとは限らんぞ」


「ん」


 琥珀は自分の手を開いた。


「指に力が入らなくなる前に、使いすぎてるって気づきたい」


 藍子も、その手を見た。


 山の麓で札を支えたあと、琥珀は聞かれるまで疲れを言わなかった。湯飲みを寄せてほしいと頼んだのは、そのあとのことだ。


「私が行かなくても、行く?」


 琥珀がこちらを向いた。


 少し考えてから、頷く。


「行くと思う」


「そっか」


 藍子は冊子へ目を戻した。


 四月になれば、琥珀にはここに写っている教室へ通う朝が来るのかもしれない。


「でも、藍子がいた方がいい」


 顔を上げる。


「どうして?」


「授業が終わったら、一緒に寮へ帰れる」


 琥珀は部屋の写真を指した。


「分からないところも聞ける」


「宿題?」


「ん」


「まず、自分でやるんだよ」


「それは、こっちでも言われる」


「向こうでも言うよ」


 琥珀は冊子を少し自分の方へ寄せた。


「……無理に来てとは言わない」


「うん。嫌なわけじゃないよ」


 机を囲んでいる生徒たちの写真を見る。


 授業で分からなかったところを、部屋へ戻ってからも話すのだろうか。


 隣の部屋へ聞きに行くこともあるかもしれない。自分が聞かれる側になる日も。


「私も、ここで暮らすのは、ちょっと楽しそうだと思った」


「食堂もある」


「それは、さっき見たでしょ」


「藍子も毎日食べる」


「私も食べるけど」


 笑いながら、寮の頁へ戻った。


「休みの日に、家へ帰ることもできるんですよね?」


 玄斎へ尋ねると、頷きが返ってきた。


「大社へ戻り、そこから家へ帰ればよい。母御にも予定を伝えておくのじゃぞ」


「はい」


 帰れなくなるわけではなかった。


 それでも、寮で暮らせば、毎晩あのこたつへ座ることはなくなる。


 夕食のあと、母が食器を洗う音も、廊下から風呂が空いたと呼ぶ声も、向こうの部屋では聞こえない。


 冊子を閉じかけ、もう一度開く。


 授業の写真へ戻った。


「玄斎様」


「なんじゃ」


「私、行きたいです」


 玄斎がこちらを見た。


「《徒桜》を扱う稽古は、これからも続けたいです。今日みたいに相手の動きが変わった時も、構えを崩さずに動けるようになりたいから」


 高くなった印を追い、刃先が揺れた。


 木偶が止まったあとでなければ、どう崩れたのかも確かめられなかった。


「それに、学園では、いろんな人と組んでみたいです」


 写真の二人へ目を向ける。


「すぐには、できないこともあると思います。その時に、何を助けてほしいのか、初めて組む人にも伝えられるようになりたいです」


 玄斎は頷いた。


「うむ」


「それと、私も寮で暮らしてみたいです」


「毎日こちらから通う形ではなく、じゃな?」


「はい。授業が終わってからも、同じことを学ぶ人たちと話してみたいから」


 隣で、琥珀が冊子を押さえていた。


 藍子は部屋の写真をもう一度見てから、玄斎へ顔を上げた。


「お母さんに、話してみます」


「そうせよ。今の学校で必要になる手続きもある。希望がまとまったら、改めて母御と来てもらおう」


「はい」


「琥珀も、自分から話すのじゃぞ」


「ん。私も行きたいって言う」


 玄斎から受け取った案内を、二人で揃える。


 琥珀が鞄を開くと、下敷きの間から今日の授業で使った紙が出てきた。


「それ、宿題?」


「違う」


 確かめてから、別の冊子を取り出す。


「こっち」


「置いてこなくてよかったね」


「ん」


 案内を折らないように挟み、鞄を閉じた。


 藍子も立ち上がり、玄斎へ向き直る。


「次の稽古も、今日の続きからお願いします」


「うむ。木偶の腕を忘れぬようにな」


「次は、当てたあとも見てます」


 玄関へ向かうと、琥珀が先に靴へ足を入れていた。


 こちらを振り返る。


「当たったら?」


「……離れるまで、見てる」


 背後で、玄斎が笑った。


 藍子も靴を履き、鞄を肩へ掛け直した。


     ◇


 夕食のあと、藍子は鞄から学園の案内を取り出した。


 机を拭いていた母が、手を止める。


「学校から?」


「ううん。玄斎様にもらったの。四月からのことで、相談したくて」


 母は布巾を畳み、台所へ置いて戻ってきた。


 琥珀も隣へ座る。


 二人の前へ冊子を広げると、母は表紙へ目を落とした。


「《八咫烏》ね。玄斎様から、お話があったの?」


「うん。お姉ちゃんが通ってる、京都の養成学園って、ここ?」


「ええ。お兄ちゃんも通っていますよ」


「……お兄ちゃんも?」


 冊子へ添えた手が止まった。


「二人とも、同じ学校だったの?」


「そうよ。二人にも、藍子から聞いてみたら?」


 校舎の写真へ目を落とす。


 机を囲んでいる生徒たちの中に、兄と姉の顔を探した。どちらも見つからず、実習の写真へ頁をめくる。


「うん。どんな授業を受けてるのか、聞いてみたい」


 木立の中で札を構えている生徒を見る。


 兄も、姉と同じように術を学んでいる。


 自分もここへ来たら、二人の知らなかった姿を見られるのだろうか。


「それで、玄斎様とは、どんなお話だったの?」


 母に尋ねられ、顔を上げる。


「今の学校で一年を終えたら、二年次へ編入できるんだって。それで……私、行きたいと思ってる」


 母は冊子から目を離し、こちらを見た。


 藍子は膝の上で指を揃える。


「怪異と戦う時、どう動けばいいのか、どんな術なら身を守れるのか、もっと勉強したい。怪異のことも、まだ知らないことばかりだから」


「そう」


「玄斎様との稽古も、続けたいと思ってる」


「京都から、大社へ通うの?」


「転送陣を使えるんだって」


 寮の配置図を広げる。


 琥珀が廊下の先を指した。


「ここ。皆で使う転送室」


「暮らす部屋とは別にあるのね」


「ん。通行札をもらう。使う時間とかは、向こうの人にも確かめるって」


 母は図面を自分の方へ寄せた。


 居室の並びを目で追い、隣の頁を開く。


「寮へ入ることも、考えているの?」


「うん。大社から通うこともできるけど、私は、向こうで暮らしてみたい。授業が終わってからも、同じことを勉強してる人と話してみたいんだ」


「私も」


 琥珀が続けた。


「白い光のこと、調べたい。専門の人もいるから」


「二人とも、行きたいのね」


 藍子が頷くと、琥珀も頷いた。


 母はしばらく寮の写真を見ていた。


「部屋は、一緒になるの?」


「まだ聞いてない。部屋のことも、玄斎様に確かめないとね」


「朝、起きられる?」


 琥珀がこちらを見る。


「私は起きるよ」


 母が小さく笑った。


「今朝は、私が呼びましたけれど」


「……今日は、ちょっとだけ」


「二回」


 琥珀が言う。


「琥珀も聞いてたなら、起きてたんじゃないの?」


「聞こえた」


「起きたとは言ってないんだ……」


 母は笑ったまま、冊子を机へ置いた。


「寮では、どこまで自分たちでするのかしら。洗濯や掃除も、聞いておきたいわね」


 藍子は案内の後ろをめくった。


 持ち物や手続きの説明はあるが、読んだだけでは分からないところも多い。


「玄斎様が、お母さんとも改めて話したいって。今の学校の手続きもあるから」


「では、私も一緒に伺います。二人も、聞きたいことを書いておきなさい」


「うん」


 筆箱からペンを出し、紙へ部屋のことを書き留める。


 その下へ、洗濯と掃除。


 琥珀が横からのぞいた。


「食堂の時間」


「それもね」


 食堂、と書き加える。


 その下に、転送室を使える時間も並べた。


 母が紙へ目を落とす。


「大社へ通う日は、授業が始まってから調整するのね?」


「うん。学園の予定と合わせて、来る日を決めようって」


「腕のことも、伝えておきなさいね」


 藍子は左手を開いた。


 机へ置き、肘を曲げる。


 熱さはなかった。


「今はもう平気だよ。今日も稽古してきた」


「ええ。今の状態を、向こうの先生にも知っておいてもらうの」


「あ、そっか」


 紙へ書き添える。


 琥珀も自分の手を机へ置いた。


「私も言う」


 母は二人の手を見てから、頷いた。


 紙を読み直すと、玄斎へ聞きたいことが、もういくつも並んでいた。


 書き終えた紙を、案内の間へ挟む。


「お母さんは、どう思う?」


 尋ねると、少し間があった。


「寂しくはなると思います」


 藍子は冊子へ添えた手を止めた。


「二人分、ご飯を炊きすぎてしまいそうね」


「冷凍できる」


 琥珀が言った。


「帰ってきたら食べる」


「どれくらい空けて帰ってくるつもり?」


「そんなに空けない」


 母が笑い、琥珀も冊子を押さえ直した。


 藍子は、その指の隣へ手を置く。


「休みの日には、帰ってきたい。大社で稽古したあとに寄ることも、あると思う」


「その時は、早めに教えてちょうだい。お夕飯を用意するから」


「うん」


「でも、帰るために授業や約束を無理に切り上げなくていいのよ。向こうでも、話したい人や、やりたいことができるでしょう」


 冊子に写っていた生徒たちを思い出す。


 兄や姉のほかにも、これから知り合う人がいる。


「……そうなったら、電話するね」


「ええ」


 母は膝の上で手を重ねた。


「二人が何を学びたいのかは、分かりました。編入のこと、私も賛成です。必要なことを確かめて、一緒に準備しましょう」


 藍子は息を吐いた。


「ありがとう」


「ありがとうございます」


 琥珀も頭を下げる。


 母は二人を見てから、机の案内へ手を伸ばした。


「この冊子、今夜は私が読んでもいい?」


「うん。ここに置いておくね」


 母の方へ向け直す。


 母は校舎の頁へ戻り、写真の下の説明を読み始めた。


 藍子は筆箱を鞄へしまい、立ち上がった。


 台所へ行くと、洗い終えた食器が水切り籠に並んでいた。


 棚から布巾を取り、茶碗を一つ持つ。


 琥珀も隣へ来た。


「私も拭く」


「じゃあ、そっちの小さい皿をお願い」


「ん」


 布巾を渡すと、琥珀は皿の裏まで拭いて棚へ戻した。


 藍子も茶碗を拭く。


 左手で底を支えても、もう熱くならなかった。


「寮でも、こんなふうに片づけるのかな」


「食堂で食べる」


「ずっと食堂とは限らないでしょ。部屋で何か飲んだりもするだろうし」


「湯飲み、持っていく?」


「割れない方がいいかな。荷物も考えないとね」


 琥珀は棚の湯飲みを見た。


「これは、ここに置く」


「うん。帰ってきた時に使おう」


 茶碗を戻し、次の皿を取る。


 居間では、母が頁をめくっていた。


「二人とも、寝具は用意されるそうですよ」


「じゃあ、布団はいらないね」


「枕も?」


「そこは、自分で読んで確かめなさい」


 琥珀が居間へ顔を向ける。


「あとで読む」


 藍子は皿を拭きながら、写真にあった机を思い浮かべた。


 教科書を並べても、まだ本を置けるだろうか。


 今の部屋の棚には、読み終えたものと、途中までのものが混ざっている。全部は持っていけないかもしれない。


「藍子」


「なに?」


「それ、もう拭いた」


 手元を見る。


 乾いた皿を、まだ布巾で包んでいた。


「……考え事してた」


「荷物?」


「うん。本、どれを持っていこうかなって」


「まだ先」


「そうだけど、決めるのに時間がかかりそう」


 棚へ戻して、琥珀から最後の一枚を受け取る。


 琥珀は布巾を畳み、流し台の縁へ置いた。


 藍子も皿を拭き終えて戻す。


 棚の中には、三人分の茶碗が並んでいた。


「終わったよ」


 居間へ声をかけると、母が顔を上げた。


「ありがとう。お茶を入れましょうか」


「私が入れる」


「私も飲む」


「琥珀のも入れるよ」


 やかんへ水を入れ、火にかける。


 湯が沸くまでの間に、湯飲みを三つ並べた。





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