第三十九話 護る力に
第三十九話 護る力に
曲がった支柱が、根元から折れた。
柵が管理道へ倒れる。
怪異の脚が、その上へ伸びていく。
『東側、下がれ!』
原田の声が響く。
道の入口に張られた光の壁へ、金属の先端が当たる。
壁がたわむ。
その向こうで、二人の術者が後退している。
《朧》が刃を脚の下へ差し込む。
持ち上げようとすると、怪異の胴が前へ傾く。別の脚が地面に食い込み、刃へ重さがかかった。
機体の膝が曲がる。
藍子は足を出しかける。
左腕の熱さが残っている。
今から東へ回っても、すぐには届かない。
「西側から近づけますか」
『そこで待て。胴を戻す場所を空けてくれ』
原田の返事に、足を止める。
《朧》が左手を刃の背へ添え、両腕で持ち上げる。
脚の先端が光の壁から離れた。
怪異の胴が傾き、地面に刺さっていた別の脚も浮く。
『広場へ戻します』
《朧》が身体をひねる。
金属の束が柵から外れ、内側の地面へ落ちる。
土が跳ねた。
藍子は薙刀を低く構えたまま、落ちた脚を見る。
まだ動いている。
怪異が胴を引くと、束の先端も広場へ戻っていった。
『入口から離れました』
東側から報告が届く。
『結界は残っています。二人とも、その外側へ下がりました』
『下流の封鎖は?』
『巡回班が一般道との合流地点にいます。通行人はいません』
『了解。入口の結界が持たなければ、そちらへ下がれ』
原田の指示に、返事が重なる。
藍子は管理道を見る。
倒れた柵の先に、道が続いている。
脚が戻っただけで、出口が塞がったわけではなかった。
『藍子』
琥珀の声が届く。
『作業員六人、確認した。足を傷めた人は先に搬送されてる。ほかの五人も、車のところまで下がった』
柄を握る指の力が、少し抜けた。
『小隊員と救助班も、そこにいる。正門の前には残ってない』
「分かった」
短く返したつもりが、声が掠れた。
左へ顔を向ける。
正門へ続く道は空いている。
先ほどまで、人がそこを歩いていた。
もう、通り終えるのを待たなくていい。
正面へ目を戻す。
怪異は管理道へ胴を向けている。
西側の脚が一本、地面を掻く。切られた脚の残った部分は、動くたびに土へ引っかかっていた。
胴の表面から、黒い殻が落ちる。
それでも止まらない。
《朧》が東側の脚へ刃を当てる。
金属が跳ね上がり、そのまま刃へ巻きついた。
『刃を取られました』
怪異が胴を引く。
《朧》の右腕が前へ引かれる。
左手が金属の束をつかむ。
刃を引き抜くと、細い金属が何本か裂けた。だが、左手の指に残った一本が、すぐには離れない。
手首を返し、振り落とす。
金属は地面へ落ちた。
それでも左腕は前へ出たままで、一拍遅れて胴の横へ戻る。
その間に、怪異の三つの膨らみがずれる。
重なっていた殻が開いた。
奥に、小さな光が見えた。
「西側の傷の奥に、光があります」
『どの位置ですか』
「三つの膨らみの間です。今、殻が開いています」
《朧》が刃を胴へ向ける。
怪異が脚を地面へ戻す。
膨らみが寄り、隙間が狭くなった。
「閉じました」
光は見えなくなった。
薙刀の届く距離ではない。
藍子は足元を見てから、もう一度傷へ目を戻す。
『左腕の反応が遅れています』
《朧》の搭乗者が報告する。
『刃は振れます。ただ、胴を抱えて押さえ続けるのは難しいです』
怪異の脚が、また柵へ伸びる。
《朧》は左腕を下げたまま、右手の刃で先端を払う。
金属が広場へ落ちた。
『その動きなら続けられるか?』
原田が聞く。
『続けられます。左腕を使う時は、その都度知らせます』
『藍子は?』
右手で柄を支え、左手を少し動かす。
刃先の向きは変えられる。
肘を上げるところまでは試さなかった。
「低い構えなら動かせます。左腕で重さを受け続けることはできません」
『玄斎殿、状態は?』
『左腕の負担は残っておる。短い動きに限れ。反応がさらに遅れれば帰還させる』
藍子は左手を柄へ添え直す。
指は動く。
それでも、先ほど落ちた刃先を思うと、握る力が強くなる。
息を吐いて緩める。
『二機とも、胴を抱えて止めるのはやめる。怪異を広場から出すな。東側は警戒を続け、正門と陣までの道を空けてくれ』
原田が指示する。
術者たちの返事が届く。
怪異の背で、突起の根元が持ち上がる。
「背が動きます」
《朧》の刃が当たる。
欠けた殻から、細い黒い流れが噴き出した。
地面を削り、薄れていく。
その間に、東側の脚が柵へ向く。
《朧》が刃を返して払う。
胴の三つの膨らみが、またずれる。
西側の殻が浮いた。
「あの傷です。今、開きました」
光が見える。
だが、脚が地面へ着くと、殻が再び重なる。
藍子はその場所を見続ける。
「脚が戻ると、閉じます」
『東の脚を止めたまま、胴を動かさせてみます』
《朧》の搭乗者が答える。
『西側から、傷が開くか見てください』
原田の声が続く。
『藍子、まだ打つな。見えた位置を伝えろ』
「はい」
《朧》が東側の脚へ刃を当て、広場側へ押す。
怪異が胴をひねる。
脚を地面へ下ろそうとするが、刃に阻まれたままだった。
西側の殻が浮く。
光の手前を、黒い縁が横切った。
閉じるのかと思ったが、隙間は残っている。
「まだ見えています。でも、手前に殻が重なっています」
『西側から、一歩近づけるか?』
原田が聞いた。
足元へ目を落とす。
前には砕けた殻が散っている。右足を抜いた穴は、今の位置より左後ろにあった。
「正面に欠片があります。少し右なら、踏まずに進めます」
『その先は空いている。刃はまだ出すな』
右足を小さく前へ置く。
土が沈まないことを確かめ、左足を寄せた。
怪異の胴が近づく。
裂けた殻の縁に、細い金属が絡んでいる。その向こうで、光が明るくなり、弱くなる。
一つではなかった。
奥の光が陰った時、下に別の光が残る。
「二つ、見えます」
怪異が胴をひねる。
殻の縁がずれ、右奥でも光が脈打った。
「もう一つ。右の奥です」
《朧》が脚へ当てた刃の向きを変える。
金属の束が外へ押され、胴が傾く。
『こちらからも見えました。霊核が三つ残っています』
搭乗者の声が届く。
藍子は光を追った。
手前のものは見える。
下の一つは殻の縁へ隠れ、右奥の一つは、胴が動くたびに見えなくなる。
三つとも、同じ場所からは狙えない。
『記録した。二機とも、一度に全部を狙うな。《朧》、その姿勢を保てるか?』
『長くは無理です。脚が刃へ巻きつく前に離します』
金属が擦れる音が強くなる。
束から突き出た一本が、刃の側面へ回った。
『離します』
《朧》が刃を引く。
脚が地面へ着く。
殻が重なり、三つの光が消えた。
藍子は足を止めたまま、傷を見ていた。
見えている間に打とうとしていたら、刃先を挟まれていたかもしれない。
「殻が閉じると、刃も挟まれそうです」
『はい。こちらが離す前に、抜く必要があります』
《朧》が管理道へ向く脚を払う。
怪異の胴が揺れ、傷の下から黒い欠片が落ちる。
藍子はその跡へ目を向けた。
光を隠していた殻の縁が、外側へ浮いている。
すぐ下には、脚の付け根があった。
「傷の下の殻が、浮いています。あそこを動かせば、手前がもう少し開きませんか」
『位置を確かめます』
《朧》が東側の脚へ刃を当てる。
怪異が踏ん張り、胴を低くした。
傷も下がる。
藍子は低く構えた刃先を、その縁へ向ける。
穂先と殻の間には、まだ隙間がある。
踏み込む先には、尖った金属片が落ちていた。右へ少し避ければ、土の上へ足を置ける。
「今の高さなら、左肘を上げずに届かせられます。ただ、もう半歩必要です」
『突き込んだあと、戻せるか?』
原田が聞く。
柄を少し前へ動かし、引く。
左手もついてきた。
殻へ当たれば、今より重くなる。
「何も当たっていなければ戻せます。引っかかった時まで、自分で外せるとは言えません」
返事を待つ間に、怪異の脚が持ち上がる。
《朧》の刃が横から打ち、先端を落とした。
『《徒桜》が傷の下へ刃を当てたら、こちらで東側の脚を押します。胴が動くところで、一緒に殻をずらしましょう』
『藍子、押さえ続けるな。重くなったら知らせろ。戻せなければ、薙刀を消して下がれ』
原田の声に頷く。
「分かりました」
玄斎が続ける。
『左腕の反応が変わったら、そこで終わりじゃ。殻が開いても、追って突くな』
「はい」
藍子は傷の下へ刃を向け直す。
狙うのは光ではない。
その手前を塞ぐ、浮いた殻の縁だった。
『東側、入口から離れた位置で警戒を続けろ。正門側は二機の後退に備えろ』
原田の指示に、術者たちの返事が届く。
『こちらの準備はできました』
《朧》が刃を低く構える。
欠片を避け、右足を半歩だけ出した。
怪異の脚が動く。
薙刀を上げかけ、止める。
《朧》の刃が、その脚を払う。
待った分だけ、柄を握る手に力が入っていた。
息を吐く。
「届きます」
『合わせます』
右手を前へ送る。
左手で向きを保つ。
刃先が、浮いた殻の縁へ当たった。
硬い音が響く。
腕へ重さが返り、穂先が殻の縁に沿って横へ滑る。
その下にある脚の付け根へ近づいていった。
「刃先がずれています!」
『刃はそのまま。その位置から胴を動かします』
《朧》が東側の脚を押す。
怪異の胴がひねられる。
薙刀に当たった殻の縁が持ち上がる。
柄が引かれた。
藍子は歯を食いしばる。
「重くなりました!」
『押し合わないで。今、離します』
《朧》が刃の圧力を緩める。
柄の重さが少し抜けた。
薙刀を引く。
右手を身体へ寄せると、左手もついてきた。
刃先を低く戻し、足を止める。
「戻せました。左腕は熱くなりましたが、動きは遅れていません」
『柄へ添える力を緩めよ。熱さが強くなるようなら知らせるのじゃ』
玄斎の声が届く。
指を少し開いた。
右手で重さを支え、左手は柄に触れたままにする。
腕の熱さは残っている。
それ以上は強くならなかった。
前を見る。
傷の下で、殻が一枚めくれている。
怪異が脚を地面へ戻した。
胴の隙間は狭くなる。
だが、めくれた殻は元の位置へ戻らなかった。
「手前の霊核が、まだ見えています」
『こちらからは殻の陰です。光の周りに、刃を入れる隙間はありますか』
藍子はめくれた縁を見た。
光との間に、黒い殻が残っている。
けれど、下から伸びていた一枚は、もう光を塞いでいなかった。
「あります。さっきより下まで開いています」
怪異の西側の脚が、ゆっくり持ち上がる。
穂先を向けかけた。
『その脚はこちらで払います』
《朧》が刃を横へ向ける。
金属の束が側面へ当たり、先端が地面へ押し下げられた。
藍子は薙刀を傷へ戻す。
横へ大きく振れば、左腕にも重さがかかる。
今の高さから、真っすぐ送る。
稽古で何度も繰り返した動きだった。
ただ、あの時は殻も、こちらへ伸びてくる脚もなかった。
「短く突くなら、試せます。脚を止めてもらえますか」
『止めます。胴が動いたら、追わずに抜いてください』
原田が続けた。
『一度突いたら下がれ』
踏み込む先も、戻す先も、削れていない土だった。
「分かりました」
怪異が胴をひねる。
光が殻の縁へ隠れかけた。
《朧》の刃が東側の脚を押す。
地面へ下ろせない先端が浮き、胴が傾く。
傷が低くなる。
「今、見えています」
『合わせます』
右足を小さく出した。
薙刀の高さを変えず、右手を前へ送る。
穂先がめくれた殻の内側へ入った。
金属が擦れる。
手元が少し右へ振られた。
藍子は柄を押し戻そうとして、左の指を強く握る。
熱い。
そこで力を緩めた。
刃先を見る。
まだ、光の手前にある。
右手で柄を送り、左手は向きを保つ。
穂先が光へ届いた。
硬い音がする。
腕に短い衝撃が返った。
光が弾ける。
「当たりました!」
『抜いて!』
薙刀を引く。
穂先が傷から戻った。
柄を身体へ寄せ、足を一歩引く。
黒い流れが傷から噴き出し、さっきまで立っていた場所の土を削った。
《朧》が西側の脚を打つ。
先端が、薙刀の前へ落ちる。
藍子はそれ以上下がらず、足を据えた。
「刃を戻せました。左手も、遅れずについてきています」
『霊核一つの破壊を確認しました』
《朧》の搭乗者が告げる。
怪異の胴の一部が、地面へ垂れた。
その下にあった脚が折り込まれ、金属片がばらばらに落ちる。
藍子は光のあった場所を見ていた。
暗い。
あれほど動いていた膨らみが、今は垂れ下がっている。
自分の刃が届いた。
右手には、硬いものを突き破った感触が残っていた。握り直すと、指の震えが柄へ伝わる。
息を吸った。
胸へ空気が入る。
『左手を少し休ませて。次の脚は《朧》に任せて』
琥珀の声が届いた。
「うん」
右手で柄を支え、刃先を正面の地面へつける。
左手を離した。
怪異の背で、突起の根元が持ち上がる。
「背が動きます」
『見えています』
《朧》が胴の正面から身体をずらした。
細い黒い流れが地面へ落ちる。
土が削れ、黒い靄が広がった。
機体はその横で足を止める。
藍子は左腕を下げたまま、怪異を見た。
残る二つの膨らみが、垂れた胴を押しのけるように動いている。
脚が地面へ突き立てられた。
身体を起こそうとしている。
崩れた部分が少し持ち上がり、その下から黒い殻が落ちた。
『下の霊核が出ます』
《朧》が刃を低く構える。
怪異は胴を引き上げようとした。
切られた脚の残った部分が、土に引っかかる。
片側だけが上がり、胴が斜めに傾いた。
残る脚の一本が、藍子の足元へ伸びる。
「西にも来ます!」
『その脚を追わないで。少し下がれますか』
地面へつけていた薙刀を消す。
両腕を下げ、一歩引いた。
先端が、元の位置の土を掻く。
「離れました」
怪異はその脚へ重さを移した。
傾いた胴の下に隙間ができる。
奥で、光が脈打った。
「下の霊核が見えます!」
『その位置を保ってください』
《朧》が怪異の脇へ寄る。
地面を支えていた脚の先端を、刃で横へ払った。
支えを失った胴が傾く。
崩れた金属が土へつかえ、途中で止まった。
下の傷が開いている。
《朧》の切っ先が、その隙間へ入る。
怪異が脚を戻そうとした。
だが、垂れた胴が上から重なり、先端が地面を擦るだけだった。
左腕は下げたまま、右腕で刃を送る。
硬い音が響いた。
『二つ目を破壊しました』
刃が戻る。
怪異の下側から、金属片が崩れ落ちた。
支えていた脚も折り込まれる。
胴が大きく傾く。
藍子は、右手を開いたまま見ていた。
残る膨らみは一つ。
けれど、背の根元はまだ動いていた。
黒い流れが、その周りへ集まり始める。
『三つ目は?』
原田が聞いた。
『右奥です。胴が傾いて、こちらからは背の殻に隠れました』
《朧》が機体の向きを変える。
残る脚が、地面を掻く。
胴の下へ折り込まれた金属を踏み越え、管理道の方へ伸びていった。
『東側、脚が来ます!』
『結界から離れろ。妖気への対処は小隊が受け持つ』
原田の声が入る。
藍子は怪異の背を見た。
切断された突起の根元に、黒いものが溜まっている。
《朧》は胴の脇にいた。
刃を背へ向ければ、管理道へ伸びる脚から離れる。
「背の根元が上がっています」
『こちらで受ける。《朧》は脚を戻せ』
広場の端で、札が光る。
薄い壁が、怪異の背と術者たちの間に広がった。
黒い流れが噴き出す。
光の壁が白く濁り、端が揺れた。
『壁の外へ下がれ!』
術者たちが退く。
地面を削った黒い筋が、壁の前で薄れていく。
《朧》の刃が、管理道へ伸びる脚を打った。
先端が広場へ落ちる。
怪異の胴がひねられた。
背の殻が、突起の根元から裂ける。
その奥で、光が脈打った。
「三つ目が見えます。背の傷の中です」
藍子は右手を開く。
薙刀を出そうとして、左腕へ目を落とした。
下げていても、熱さは残っている。
「玄斎様。低い構えを確かめます」
『まず、持つところまでじゃ』
右手に薙刀を戻した。
地面に近い位置で支え、左手を添える。
柄を少し動かす。
両手は一緒についてきた。
「遅れはありません。熱さも変わっていません」
『短く突いて戻す。それ以上は続けるな』
「はい」
《朧》が残る脚を外へ払う。
怪異の胴が回り、裂けた背が藍子へ向いた。
『傷へ入れる位置を取ってください。脚はこちらで対処します』
傷の高さは、先ほどより低い。
穂先と光を見比べる。
その間に殻はなかった。
ただ、突起の根元から細い黒いものが漏れている。
「まだ噴き出しています」
『待て。今は入るな』
原田が告げた。
藍子は薙刀を低く保つ。
札の壁が揺れ、光が弱まった。
黒い流れが途切れる。
踏み出しかけた足を、土へ戻す。
根元が、もう一度膨らんでいた。
新たな流れが噴き出し、傷の前を黒く塞ぐ。
喉が乾いた。
あとどれくらい、待てばいい。
《朧》が脚を払う音が響く。
札の壁の端が裂け、細い黒い筋が広場へ走った。
『こちらは下がれます。噴出が収まるまで待ってください!』
術者が呼びかける。
藍子は刃先を見た。
柄を握る右手が強張っている。
左腕も熱い。
息を吐き、右手を身体へ寄せた。
穂先の向きを傷へ合わせる。
腕を振り上げず、この高さから送る。
足を置く場所だけは、今のうちに確かめた。
右側に、土の見える場所がある。
「右へ半歩、寄ります」
『進める。そこから先は、合図を待て』
原田の返事に頷く。
右足を置き、左足を寄せた。
背の傷が正面にある。
光は黒い流れに隠れ、まだ見えない。
怪異の脚が、また管理道へ伸びようとした。
《朧》の刃が、その下へ入る。
先端が地面から浮いた。
怪異は胴をひねる。
だが、崩れた金属が土へ引っかかり、背は藍子の方へ向いたままだった。
『脚を止めています。長くは保てません』
藍子は傷を見続けた。
黒い流れが細くなる。
切れ目の向こうに、光が見えた。
『噴出が収まりました!』
『藍子、今だ』
「突きます!」
右手を前へ送った。
左手で向きを保つ。
穂先が裂けた殻を抜ける。
縁の金属が鳴った。
光が近づく。
横で地面を掻く音がした。
怪異の脚が刃を押し、土へ戻ろうとしている。
《朧》の右腕が下がった。
藍子は傷から目を離さなかった。
穂先が光へ届く。
硬い音が両腕へ返った。
「抜きます!」
柄を身体へ引き寄せる。
穂先が傷から戻った。
一歩後ろへ下がる。
直後、《朧》の刃から脚が離れた。
金属の先端が、さっきまで穂先のあった場所を薙ぐ。
背の根元から黒いものが噴き上がった。
藍子は薙刀を低く保ったまま、足を据える。
《朧》も後ろへ下がった。
怪異の脚が地面を掻く。
一度。
もう一度。
先端が土へ食い込み、そのまま止まった。
傷の奥に、光はない。
藍子は刃先を下げる。
左手もついてきた。
「刃を戻せました」
『三つ目の霊核の破壊を確認しました』
《朧》の声が届く。
胴の表面から、殻が落ちる。
背の根元が傾き、残った金属の束も地面へ崩れた。
藍子は動くものを探した。
脚の先端。
胴の隙間。
折れた突起の根元。
どこからも、次の攻撃は来なかった。
《朧》が刃を下げずに待っている。
『三核の破壊を確認。周囲の反応を調べろ。まだ近づくな』
原田が告げた。
術者たちの返事が届く。
藍子は右手で柄を支え、刃先を正面の地面へつける。
左手を離した。
熱い。
指も、腕も、自分のものなのに重く感じられる。
顔を上げる。
広場の反対側に、《朧》が立っていた。
刃はまだ構えられている。
その向こうには、札を持った術者たちがいた。
藍子は崩れた怪異へ目を戻す。
最後まで見えていた光は、もうなかった。
ようやく、長く息を吐いた。
『新たな反応はありません。管理道側にも、動くものは見えません』
東側から報告が届く。
殻の隙間に残った黒いものが、風にほどけていく。
脚は動かない。
『小隊で周囲を確認する。機体のそばへは、まだ入るな』
原田が告げる。
術者たちが広場の端へ散った。
札を持った一人が、倒れた柵の手前で止まる。
その先の道へ目を向け、通信具に手を添えた。
藍子は左手を見た。
指を動かせるか、もう一度確かめたくなる。
動かしかけて、止める。
もう、次の突きに備えなくてもよかった。
「原田さん」
『聞こえている』
「残った金属と、周りの確認をお願いします。私は帰還します」
『了解。こちらで引き継ぐ。正門までの道は空いている』
藍子は薙刀を消した。
両腕を下げる。
何も持っていなくても、指には柄の感触が残っていた。
「ありがとうございました」
《朧》へ呼びかける。
『こちらこそ。傷を開いてもらえたので、下の霊核にも届きました』
搭乗者の声は、最初に聞いた時より掠れていた。
左腕は下げられたままだ。
藍子は口を開きかけた。
無理をしないで、と言おうとして、言葉が止まる。
原田が搭乗者へ呼びかけた。
『《朧》も状態を知らせてくれ。確認は小隊が進める』
『右腕は動きます。左は休ませたいです』
『分かった。その位置で待機。帰還の手配に入る』
藍子は息を吐いた。
握っていた右手をゆっくり開くと、肩の力が少し抜けた。
『藍子、まず正門まで下がれ』
原田が告げる。
「はい」
怪異へ背を向ける前に、もう一度足元を見た。
砕けた殻を避け、足を引く。
《朧》が機体の向きを変え、広場全体へ目を向けた。
藍子は後退を続ける。
門柱が近づく。
武器を持っていた時とは違い、腕を寄せなくても通れそうだった。
門の内側で止まる。
「正門まで下がりました」
『確認した。陣の担当へ引き継ぐ』
別の声が入った。
『《徒桜》、そのまま正門を抜けてください』
一歩、外へ出る。
光の線が見えた。
陣の担当者が、杭の外側で腕を上げている。
『右の杭を避け、線の内側へ進んでください』
「見えます」
足を置く先を確かめながら進む。
右足を線の内側へ置き、左足を寄せた。
身体の揺れが収まるのを待つ。
「陣へ入りました」
『確認しました。周囲を空けます』
担当者が下がる。
藍子は正門の方へ顔を向けた。
広場は、まだ見えている。
《朧》も、その向こうに立っていた。
『藍子、こちらへ戻すぞ』
玄斎の声が届く。
「お願いします」
『両腕は下げたままにせよ。陣から出るな』
藍子は動かずに待った。
陣の担当者が周囲を見回し、腕を上げる。
『現地、帰還準備完了。周囲は空いています』
青い光が足元から広がった。
正門がかすむ。
その向こうに見えていた広場も、光に隠れていく。
藍子は顔を向けたまま、待った。
怪異が動くかもしれない。
誰かが呼ぶかもしれない。
耳を澄ませる。
届いたのは、陣を受け持つ者たちの短い返事だけだった。
足元の感触が遠くなる。
身体へ力を入れかけ、息を吐いた。
やがて、光の向こうに柱が現れた。
地下の広間だった。
出撃前に見ていた柱が、同じ場所に立っている。
『《徒桜》の帰還を確認しました』
担当者の声が響いた。
藍子は足を動かさずにいた。
ここにも陣がある。
人がいる。
担当者が、搭乗口へ降機用の足場を合わせている。
その姿を見て、ようやく帰ってきたのだと思った。
『動かすな。そのまま霊力を収めるのじゃ』
玄斎の指示に頷く。
腕へ流れる力を減らす。
足も、身体を支えるために流していた分を、少しずつ収めた。
視界の青い光が弱まる。
広間の柱が消えた。
膝に触れる服の感触が戻ってくる。
左腕は、自分の身体の横にあった。
熱い。
大きな装甲はもう見えないのに、重さだけが残っている気がした。
搭乗口が開く。
外の明かりが入った。
藍子は顔を上げる。
担当者が縁のそばで待っていた。
「降りられますか」
「はい」
答えてから、右手を縁へ伸ばす。
指が滑り、握り直した。
身体を起こすと、脚にも力が入りにくい。
「……少し、支えてください」
「分かりました。左腕は使わなくていいです」
右側から支えられ、足を出した。
足場を踏む。
自分の足だった。
土は沈まない。
それでも、膝が少し震えた。
担当者の腕につかまり、機体から離れる。
広間の端に椅子が置かれていた。
腰を下ろすと、背もたれへ身体が寄りかかる。
深く息を吸った。
途中で止まらず、胸まで入った。
「藍子」
顔を上げる。
琥珀が、少し離れたところに立っていた。
搭乗口が閉じる前に見た、白い髪と耳。
いつもの顔だった。
何か言おうとした。
声にならず、喉が詰まる。
琥珀が近づき、隣の椅子へ座った。
「おかえり」
藍子は口元を押さえかけた。
左腕が熱くなり、膝へ戻す。
右手で、袖の端をつまんだ。
「……ただいま」
琥珀が頷く。
それきり、急かさずに待っていた。
玄斎が担当者へ左腕の状態を伝えている。
現地の通信も、まだ聞こえていた。
残った金属を調べる声。
《朧》の帰還を準備する声。
藍子はそちらへ顔を向ける。
「終わったんだよね」
「三つ、壊した」
「うん」
「みんな、外へ出た」
頷こうとして、目の前が滲んだ。
腕で受けた黒い波が、まだ胸の奥に残っている。
脚が壁へ届くと思った。
左手が戻らず、下がれと言われても、すぐには動けなかった。
最後に刃を送る時も、怖くなくなったわけではない。
「怖かった」
声が小さくなる。
「ん」
「最後も、手に力が入って……また、戻せなくなるかと思った」
膝に置いた左手を見る。
指は少し曲がったままだった。
琥珀も、その手へ目を向けた。
「戻ってきた」
藍子は黙っていた。
椅子の背へ身体を預ける。
隣から、小さく衣擦れの音がした。
琥珀が右手を差し出している。
藍子も右手を伸ばした。
指先が触れ、ゆっくり握る。
温かかった。
「……待っててくれて、ありがとう」
「ここで待つって、言った」
搭乗する前の声を思い出す。
地下まで。
ここで待ってる。
藍子は握った手を見た。
左腕の熱さも、身体の重さも消えてはいない。
けれど、もう柄を支えなくてよかった。
誰かが通り終えるまで、足を据えていなくてもよかった。
琥珀の手を握ったまま、背もたれへ肩を預けた。




