第三十八話 逃がす先
第三十八話 逃がす先
右足が沈み、柄がさらに胸へ近づいた。
藍子は息を吸おうとした。
浅くしか入らない。
左肘を寄せても、脚の重さは変わらなかった。
「押し返せません!」
《朧》の刃が、東側の脚へもう一度当たる。
金属が裂けた。
『一本切りました。胴を引きます』
左腕が怪異の胴を抱え直す。
残った脚が地面を掻いた。
胴がわずかに東へ動き、柄を押していた力が緩む。
藍子は押し返しかけた。
左腕に熱さが走った。
力を止める。
脚はまだ、柄に当たっている。
離れたわけではない。
『足場へ着きました!』
窓の下から声が届いた。
『身体を支えています。帯はまだ外していません』
下りた。
けれど、そこから動けていない。
藍子は柄の向こうを見た。
脚の先端が、建物へ向いている。
先ほどは、滑るのを止めようとして押し合いになった。
このままでは、また足が沈む。
「原田さん。脚を前の地面へ落としても大丈夫ですか。私と怪異の間です」
『そこに人はいない。《朧》、刃をそちらへ出すな』
『了解。胴を引き続けます』
藍子は正面の地面を見た。
脚が削った溝がある。
建物の壁からは離れていた。
柄を少し傾ける。
押されている側を下げようとすると、左腕が震えた。
両手へ力を込めた。
指先が強張る。
稽古で重さを受けた時も、握り込むほど、手を動かせなくなった。
息を吐く。
右手の握りをわずかに緩め、柄を支える位置を直した。
刃先が傾く。
建物側へ倒れないよう、上に保つ。
怪異が胴をひねった。
金属の束が、柄に沿って建物側へ滑り始める。
「胴が戻ります!」
『引いています。もう少しだけ、その角度で』
《朧》が踏み直した。
地面に残る脚の周りで、土が盛り上がる。
胴が東へずれた。
柄に当たった脚も引かれ、先端が建物側から藍子の正面へ戻ってくる。
その動きに合わせ、左手を下げた。
押し返さず、柄を傾ける。
金属の先端が、柄に沿って下へ滑った。
まだ足元に近い。
右足は沈んだままだった。
藍子は柄を前へ差し出した。
左腕が熱くなる。
先端を足元から遠ざけたところで、金属が柄を離れた。
前方の地面へ突き刺さり、土が跳ねた。
柄を止めた。
壁には届かなかった。
「前へ落ちました!」
『確認した。救助班、二人とも階段へ戻れるか?』
原田の声が入る。
『帯を外しています。外れたら階段へ戻ります』
怪異の脚が、地面から抜け始めた。
藍子は薙刀を戻そうとした。
左手が遅れる。
刃先が下がった。
右手で支え直すと、肩まで力が入った。
「左手が、うまく戻りません。薙刀が下がりました」
『藍子、足は?』
琥珀の声だった。
右足を見る。
踵の周りまで、土に埋まっている。
「右が沈んでる。まだ抜いてない」
『原田さん。藍子を下げて』
短い声が通信へ入った。
『左手の動きも遅れてる。足が沈んだまま続けないで』
「でも、まだ二人が……」
薙刀を持ち上げようとした。
右手に重さが集まり、刃先が揺れる。
『藍子、上げなくていい』
琥珀の声が届いた。
『左手が戻らないって、言った』
手を止めた。
左の指は柄を握っている。
けれど、右手と一緒には動かなかった。
「……もう少しだけなら」
『《朧》と交代する。そこで待て』
原田が告げた。
『救助班、帯を外したら二人とも壁側へ。その場で待機』
『了解。帯は外れました。二人とも壁側にいます』
怪異の西側の脚が、地面から抜けた。
藍子は柄を前へ向ける。
また来る。
『胴を戻します』
《朧》が左腕で怪異を押した。
東側に残った脚が踏ん張る。
刃が、その付け根へ当たった。
殻が割れる。
怪異が胴を傾け、地面に刺さった脚を引き抜いた。
西側の脚も、建物から遠ざかる。
『西へ入ります』
《朧》が胴の前を回った。
持ち上がった脚へ刃を当て、《徒桜》との間へ入る。
『交代しました。後退してください』
藍子は右足を見た。
土に沈んだ踵を、そのまま引こうとした。
身体が傾く。
慌てて止めた。
「右足が、抜けません」
『引きずるな。左足の下は沈んでいないか?』
原田が聞く。
左足の下を確かめる。
「沈んでいません」
『薙刀は前へ下ろしていい。救助班はまだ動かさない』
右手で柄を支え、刃先を地面へつける。
左手を離した。
腕を下げると、肩の力が少し抜けた。
左足へゆっくり重さを移す。
地面は沈まなかった。
右膝を上げようとして、息が止まる。
足元の土が崩れた。
踵が浮いた。
「抜けました」
『右足を置く場所は見えるか?』
少し後ろに、削れていない地面があった。
「見えます。今の穴の後ろです」
『そこへ置け。救助路には出ていない』
右足を下ろした。
身体の揺れが収まる。
藍子は息を吐いた。
前では、《朧》が怪異の脚を払っている。
窓の下へ向く一本を、左腕で押し戻した。
『後退を続けてください』
右手に残った柄を見た。
刃先は地面についたままだった。
「薙刀を片手で運ぶのは、難しいです」
『なら、ここで消せ。無理に運ばんでよい』
玄斎の声だった。
青い光が、握った手の先まで伸びている。
薙刀を消す。
右手が軽くなった。
正門へ続く道を確かめ、一歩下がる。
もう一歩。
《朧》と怪異が、少し遠くなった。
『そこで止まれ』
原田が告げた。
『救助班、階段へ戻れ。上まで戻ったら知らせてくれ』
『了解。これから角を通ります』
藍子は腕を下げたまま、正面を見た。
怪異の胴が動く。
《朧》が刃を当て、その向きを止めた。
浅くなっていた呼吸が、少し落ち着いた。
『藍子、左腕へ流す力を減らせるか?』
玄斎が聞いた。
左手へ意識を向ける。
動かすのをやめても、腕へ流れる力は止まっていなかった。
「まだ、流しています」
『少しずつ減らせ。腕は下げたままでよい』
息を吐き、流れを細くする。
指が開いた。
熱さは残っている。
握り直そうとして、やめた。
『角を通過しました。階段へ向かいます』
救助班から報告が届く。
「琥珀」
『ん』
「下がったよ」
『聞いてた』
短い返事のあと、声が続いた。
『左手は、まだ休ませて』
藍子は開いた指を見た。
「……うん」
左腕を下げたまま待った。
前で金属がぶつかるたび、肩に力が入る。
そのたびに息を吐いた。
《朧》の刃が、西側へ伸びる脚を払う。
胴が傾き、欠けた殻が落ちた。
自分が受けていた場所に、別の機体が立っている。
次の脚が、その左腕へ向かった。
薙刀を出そうと、右手を開く。
《朧》が刃を返し、脚を地面へ叩き落とした。
開いた手を下げた。
下がると言ったのに、目の前で攻撃を受ける姿を見ると、じっとしていられなかった。
左手はまだ熱い。
今、戻っても。
通信の向こうで、靴底が擦れた。
『次の段へ。手すりは、こちらを使ってください』
救助班の術者が呼びかける。
息を継ぐ音がして、足音がまた続いた。
藍子はその音を聞きながら、肩を下げた。
まだ上がれている。
止まっていない。
左手の指をゆっくり曲げた。
握れる。
開くこともできる。
肘を上げようとすると、腕の外側が熱くなった。
そこで止め、下ろした。
『階段の上まで戻りました。二人とも歩けます』
建物の角へ目を向ける。
階段の上に、人の姿が見えた。
一人は壁へ手をついている。
付き添う術者が、正門へ続く道を指した。
『そこで待機。救助路を空ける』
原田が告げた。
《朧》は西側で怪異を押さえている。
脚を一本払うと、別の一本が腕へ絡んだ。
刃が胴から離れる。
背の根元から、細い黒い流れが噴き出した。
《朧》の肩に当たり、装甲の上で散る。
「玄斎様。指は動きます。でも、肘を上げると、まだ熱いです」
『強く支える使い方は避けよ。現地へも伝えろ』
「原田さん。左腕は、まだ強く使えません」
『分かった。その位置で待て』
《朧》が絡んだ脚へ刃を当てた。
金属がほどける。
『東側、管理道へ一本向いています』
監視担当の声が入った。
怪異の脚が、胴の向こうへ伸びていた。
『《徒桜》、西側へ戻れますか。こちらで胴を押してから、東を止めます』
藍子は右足を抜いた穴を見た。
その横には、崩れていない地面がある。
「足場を変えれば戻れます。でも、脚を押さえ続けることはできません」
『こちらで胴を引きます。脚が建物から離れてから、柄を添えてください。重くなったら、すぐ知らせて』
原田が救助班へ告げた。
『二人はまだ待機。藍子、道を塞がない位置へ進め』
薙刀を出し、右手で重さを支えた。
左手を添える。
刃を持ち上げようとすると、両腕へ流れる力が強くなった。
肘を上げる前に動きを止める。
息を吐き、増やしかけた流れを少しずつ戻した。
刃先が下がる。
右手を身体へ寄せ、低い位置で支えた。
左手は柄の向きを合わせるだけにする。
熱さは残るが、強くはならない。
そのまま柄をわずかに傾ける。
左手も、今度は遅れずについてきた。
「低く構えるなら、動かせます」
原田の示す場所へ進み、穴を避けて足を据えた。
右足へ少し重さを移す。
地面は沈まなかった。
柄の後端が救助路へ出ていないことを確かめる。
「位置につきました」
《朧》が怪異の胴を押した。
西側の脚が地面を擦り、建物から離れる。
『東へ移ります』
機体が胴の前を回った。
怪異の脚が、その後を追う。
藍子は薙刀を低く構えた。
『救助班、正門へ』
原田の指示で、階段の上の二人が歩き始めた。
残っていた階段担当も、その後につく。
視界の端で、三人が角を曲がる。
怪異の西側の脚が浮いた。
先端が建物へ向く。
「西の脚、動きます」
『まだ受けないで。胴を引きます』
《朧》が東側から腕を回した。
怪異が踏ん張る。
藍子は柄を出さずに待った。
先端を追って手を動かしかけ、止める。
先端は、まだ建物側へ伸びていた。
《朧》の足元から土が跳ねた。
胴が東へずれ、脚の先端が広場側へ戻ってくる。
その進路へ、柄を斜めに差し出した。
金属が擦れた。
押し返さず、傾きを保つ。
先端が下へ滑り始めたところで、左手へ重さがかかった。
反射的に握り込み、肘を上げかけた。
腕の外側が熱くなる。
そこで止めた。
また、柄を戻せなくなるかもしれない。
「重くなっています!」
『引き続けます』
《朧》がもう一歩、東へ下がった。
藍子は柄を押し出さずに待った。
脚が引かれ、金属が離れる。
先端は正面の地面へ落ちた。
左手の重さが抜ける。
薙刀を低い位置へ戻した。
腕は熱い。
けれど、足は沈んでいなかった。
『《徒桜》の後ろを通ります』
付き添う術者の声が届く。
藍子は顔だけを左へ向けた。
三人が、道を正門へ進んでいる。
小隊員の歩幅は、付き添う二人より小さかった。
隣の術者が速度を落とす。
最後尾の一人も、それに合わせた。
怪異が地面を掻いた。
正面へ目を戻す。
《朧》の刃が、持ち上がる脚を打った。
先端が落ちる。
背の根元から妖気が漏れ、刃がそちらへ向いた。
藍子は柄を支えたまま、西側の脚を見ていた。
後ろから、足音は届かない。
正門の外へ出る報告も、まだなかった。
左手の力を少し緩める。
柄は傾かない。
息を吐き、脚の先端を追った。
『三名、正門の外へ出ました』
支援地点から報告が入る。
琥珀の声が続いた。
『残っていた小隊員も確認した。取り残されていた人は、全員外にいる』
藍子は肩を下げた。
もう一度左へ目を向ける。
正門へ続く道には、人がいなかった。
その時、怪異の胴が傾いた。
東側で踏ん張っていた脚の付け根から、殻が落ちる。
《朧》が左腕を当てた。
胴の表面が崩れ、押さえていた腕が滑った。
『胴が崩れています!』
切られた脚の残った部分を引きずり、怪異が東へ身体を回す。
残る脚が管理道の柵へ伸びた。
金属が軋む。
柵の支柱が曲がった。
『管理道へ出ます!』
藍子は正面へ向き直った。
薙刀を低く保ち、怪異の向きを追う。
柵の先には、下流へ続く道があった。




