第三十七話 守る位置
第三十七話 守る位置
黒い波が、左腕へぶつかった。
息が詰まる。
装甲を擦る音が響く。
腕を押され、肘が胸へ近づいた。右手で支えた薙刀まで、身体と一緒に傾く。
正面が黒く塞がれた。
地面を踏んでいる感覚だけが残る。
足を引けば、楽になる気がした。
けれど、後ろには救助路がある。
「押されています!」
左足が滑る。
土が削れ、身体が後ろへ傾いた。
右膝を曲げ、もう一度踏ん張る。
左腕の外側から、熱さが伝わってくる。
『《徒桜》、こちらを向かないで。そのまま受けてください』
《朧》の声だ。
返事をしようとして、息が漏れた。
黒い波の端から、建物の角が見える。
腕に当たった妖気が左右へ広がり、その一部が地面を削っていた。
救助路側にも、黒い筋が走る。
『角の壁に当たっています!』
階段の上から声が届く。
腕を広げようとしても、押された肘が動かない。
『救助側、被害は?』
原田が呼びかける。
『下の足場に細かい破片が落ちました。壁側に寄っています。身体には当たっていません』
『室内は?』
『二人とも窓から離れています。無事です』
返事を聞き、藍子は歯を食いしばった。
黒い波の向こうで、金属が裂ける音がする。
波の端から、《朧》の姿が見えた。右腕へ絡んだ脚を刃で切り払い、怪異の胴へ肩からぶつかる。
背の突起が、こちらから外れる。
黒い波が、建物から離れた広場の右側へ流れた。
左腕の重さが抜ける。
身体を起こしかけ、足元を見る。
左足が、最初の位置から後ろへずれていた。
それ以上動かず、息を吐く。
「攻撃が外れました。左腕が熱いです」
『指は動くか?』
玄斎の声が届いた。
左手を開く。
指は動く。だが、握り直すと腕の熱さが強くなった。
「動きます。でも、握ると熱くなります」
『左腕を使う動きは止めよ』
原田が《朧》へ呼びかける。
『西側へ戻れるか?』
『今、胴をこちらへ向けています。戻れます』
刃が怪異の背へ当たった。
突起の根元から、黒い欠片が落ちる。
怪異が身体をひねると、《朧》もその前へ踏み直した。
『西側へ入ります。《徒桜》は、薙刀を振らずに待って』
「はい」
右手で柄を支える。
刃先が下がっていた。
持ち上げようとすると、手元へ重さが集まる。
「薙刀も、片手では保ちにくいです」
『正面の地面へ刃先を下ろして支えろ。後ろには倒すな』
前方の地面を確かめる。
人はいない。
柄をゆっくり傾け、刃先を土へつけた。
そこで支えると、右手の重さが少し減る。
《朧》が前へ入った。
『交代しました』
藍子は左足を見る。
削れた跡が、救助路へ近づいている。
「足も後ろへずれています」
『見えている。まだ道は塞いでいない。まず姿勢を戻してくれ』
右足へ重さを移し、身体を起こした。
薙刀の先は地面につけたままにする。
怪異の脚を、《朧》が払う。
その間に、原田が救助班へ通路の状態を確かめた。
『階段へ戻る道に、小さな破片があります。上から届く分は、こちらで除けます』
階段の上に残った者が答える。
窓の下からも、声が続いた。
『張り出しに新しい亀裂はありません。縄も受け取ったままです』
藍子は建物の角へ目を向ける。
壁へ当たった音が、まだ耳に残っていた。
「原田さん。腕で受けても、妖気が横へ抜けました。私だけでは、道まで守りきれません」
『分かった。受け方を変える。今は《朧》に任せてくれ』
頷き、左腕を下げる。
熱さは残っている。
指を開いたまま、力を抜いた。
前では、《朧》が怪異の背へ刃を向けていた。
『突起の根元に傷が入りました。次に持ち上げる時、こちらで狙います』
搭乗者の声が届く。
『原田さん、東側へ戻るまで、そちらの監視をお願いします』
『了解。東側、脚が管理道へ向いたら知らせろ』
返事に重なり、駆動室から報告が入った。
『降りる帯の確認を終えました。作業員の方から下ろせます』
原田が応じる。
『準備完了は受け取った。降下はまだ待ってくれ』
藍子は右手で柄を握り直した。
『藍子、少し休ませてから、左手の状態を知らせてくれ』
玄斎の声に返事をする。
地面につけた刃の横で、黒い妖気が薄れていった。
指を開いたまま待つと、左腕の熱さが少しずつ薄れてきた。
藍子はゆっくり手を握る。
先ほどのように、熱さが強くなることはない。
「玄斎様。指は握れます。熱さも、さっきより弱くなりました」
『肘はどうじゃ?』
腕を少し曲げる。
動いた。
だが、薙刀へ添えるには、まだためらいがあった。
「曲げられます。力を入れて支えられるかは、まだ分かりません」
『まず、柄へ添えるだけにせよ』
右手で支えた薙刀へ、左手を戻す。
刃先は地面につけたままにした。
前で、《朧》が怪異の脚を払っている。
脚が地面へ落ちると、背の突起が持ち上がった。
『背を狙います』
機体が胴の脇へ踏み込む。
刃が突起の根元へ食い込んだ。
硬い音が響く。
一度では切れなかった。
怪異が身体をひねり、突起を《朧》へ向ける。
根元に、黒いものが集まり始めた。
「突起が、そちらを向いています!」
《朧》は刃を抜かず、左腕を胴へ当てた。
押さえたまま、食い込んだ刃を根元に沿って引く。
傷が広がった。
突起が傾く。
黒い流れが、その裂け目から噴き出した。
《朧》が身体をずらす。
流れは機体の肩を擦り、東寄りの地面へ落ちた。
折れた突起が、広場へ転がる。
『突起を落としました。残った根元は、引き続き見ます』
怪異の脚が、《朧》へ集まった。
刃が一本を払い、左腕が別の一本を押す。
藍子は左手へ少し力を入れる。
柄を支えた。
熱さは残っているが、握っても強くはならない。
「両手で持てます」
『刃先を上げてみよ。無理なら、そのまま下ろせ』
地面から離す。
柄の重さが両腕へ戻った。
左肘を身体へ寄せ、支える。
「原田さん。薙刀を上げられました。今のところ、左腕の熱さは変わりません」
返事のあと、原田が《朧》へ確かめた。
『西側へ向く脚は?』
『今は、こちらへ集まっています。《徒桜》と交代できます』
『藍子は元の位置へ。まず構えを確かめろ』
「はい」
原田の示す場所へ足を戻す。
薙刀の刃を広場側へ向け、柄の後ろを確かめた。
「構えました」
『救助路も空いている』
原田が告げる。
『確認しました。東側へ移ります』
《朧》が西側の脚を払ってから、東へ踏み直した。
藍子の正面に、怪異の胴が見える。
折れた突起の根元からは、細い妖気が漏れていた。
先ほどの黒い波は出ていない。
『こちらで胴を押さえます』
《朧》が左腕を当てる。
怪異が踏ん張ると、西側の脚も地面へ食い込んだ。
原田が救助班へ呼びかける。
『救助班、下で受けられるか?』
『受けられます』
室内の術者も応じた。
『こちらも帯の固定を終えました。下ろせます』
『作業員を下ろせ。途中で止める必要があれば、すぐ知らせろ』
藍子は薙刀を支えた。
通信へ、作業員の声が届く。
『瀬川と、同じように下りればいいんですね』
『はい。帯へ身体を預けてください。縄はこちらで送ります』
駆動室の術者が答えた。
布の擦れる音がする。
『足が外へ出ます』
藍子は怪異の脚から目を離さなかった。
下りる人の姿は見えない。
西側の一本が、地面から浮く。
「西の脚、動きます」
『胴を引きます』
《朧》が左腕を胴へ回し、自分の側へ引いた。
怪異が踏ん張り、浮いた脚の先が藍子の右側へ振れる。
柄を、その前へ差し出した。
金属が当たる。
腕へ重さが返った。
左肘を寄せたまま、足を据える。
「受けています!」
《朧》が胴をさらに引き、脚が離れた。
柄を戻す。
左腕の熱さは、少し強くなっていた。
「脚は離れました。左腕は、また熱くなっています。構えは保てています」
『分かった。次も変わったら知らせてくれ』
原田の返事に重なり、窓の下から声が届く。
『あと少しです。こちらで支えます』
縄を送る声が止まった。
『足場へ着きました。一名、降下完了です』
藍子は息を吐く。
救助班の術者が続けた。
『帯を外したら、階段へ戻ります。室内の術者は待機してください』
窓に残るのは、あと一人だった。
『帯を外しました。階段へ戻ります』
窓の下から声が届いた。
『壁へ手を添えてください。欠けた縁には足を置かないで』
『はい』
作業員の返事に、靴底が擦れる音が重なる。
藍子は正面を見ていた。
怪異の背には、折れた突起の根元が残っている。《朧》の刃が、その近くへ向けられていた。
西側の脚が一本、地面を掻く。
先端が浮いた。
薙刀を構える。
脚はこちらへ来ず、胴の下へ折り込まれた。
別の脚が東へ伸び、《朧》の足元を狙う。
刃が振り下ろされた。
金属の束が地面へ押しつけられる。
その間に、西側の脚が建物へ向いた。
「西の脚、角へ向きます」
『その一本を止めてください。胴を戻します』
柄で脚を受けると、《朧》が胴を引いた。
金属が離れるまで支え、薙刀を正面へ戻す。
左腕は熱いが、握る力を少し緩めても構えは保てた。
『階段へ着きました。ここから上がります』
救助班の術者の声が届く。
藍子は、建物の角へ目を向けかけた。
怪異の胴が動く。
視線を戻した。
背の根元から、黒いものが漏れ始めている。
「根元に妖気が集まっています」
《朧》が刃を当てた。
根元の殻が割れ、黒い流れが細く散る。
機体は胴から離れず、その場で次の脚を払った。
『上まで戻りました』
階段の上から声が届く。
視界の端に、人の姿が現れた。
一人は作業服を着ている。
付き添う術者が、道の欠けたところを指していた。
原田が道の端から手を上げる。
『そのまま正門へ。機体の後ろを通ってくれ』
藍子は薙刀の後端を確かめた。
道へ出ていない。
左足も、先ほどの位置にある。
「後ろは空いています」
『確認した』
作業員が歩き始めた。
藍子は顔だけを左へ向ける。
自分が立っている場所の後ろを、二人が通っていた。
作業員が一度、《徒桜》を見上げる。
口が動いたが、声は聞こえなかった。
術者が正門を指す。
二人は足を止めずに進んだ。
藍子も正面へ目を戻す。
《朧》の刃と、怪異の脚がぶつかった。
土が跳ねる。
薙刀を両手で支えたまま待った。
『作業員一名、正門の外へ出ました』
支援地点から報告が届いた。
『歩いて車まで移動しています』
原田が応じる。
『作業員六名、全員外へ出た。施設内に残るのは、小隊員一名だ』
藍子は息を吐いた。
瀬川に帯をつけ、もう一人の作業員を下ろした術者が、まだ駆動室にいる。
『駆動室、聞こえるか?』
『聞こえます』
『作業員は二人とも外へ出た。次はお前を下ろす』
『了解。こちらの準備に入ります』
通信の向こうで、布を動かす音がした。
救助班の術者が正門から戻ってくる。
原田のそばで一度止まり、建物の角を見た。
『下へ戻れます』
『藍子、左腕は?』
握った指を少し動かした。
「熱さは残っています。柄は支えられています」
『《朧》、西側へ戻る必要はあるか?』
『今の位置で続けられます。脚の向きが変わったら知らせます』
『では一人、窓の下へ。階段の担当はそのまま残れ』
術者が角へ向かった。
藍子は薙刀を支える位置を直す。
西側の脚は地面へ食い込んでいる。
背の根元へは、《朧》が刃を向けていた。
『室内の準備ができました』
術者の声が届く。
『窓の下へ戻りました。こちらも受けられます』
原田が二機へ呼びかけた。
『最後の一名を下ろす。途中で交代が必要になりそうなら、今知らせてくれ』
藍子は左肘を曲げた。
動く。
柄の重さも支えられている。
だが、熱さが消えたわけではない。
「今は保てています。強く押されたら、すぐ伝えます」
『了解』
《朧》も応じた。
通信具から、窓を開ける報告が届く。
藍子は怪異へ向き直り、脚の先を見た。
『梁へ掛けた縄を確かめました。自分で縄を送りながら降ります』
駆動室の術者が告げた。
『下は空いています。ゆっくり来てください』
布が擦れ、短く息を吐く音がした。
藍子は薙刀を支えた。
怪異の背から、細い妖気が漏れている。
《朧》が刃を近づけると、東側の脚が持ち上がった。
「東の脚、上がっています」
『見えています』
刃が脚を払い、先端が広場へ落ちた。
『窓の外へ出ました』
術者の声が届く。
左手の握りが強くなった。
柄を身体へ引き寄せたところで、西側の脚が地面から抜ける。
先端がこちらへ伸びてきた。
「西から来ます!」
柄を差し出した。
金属の束が当たり、左肘が押される。
足を据えた。
だが、脚の先端は柄に沿って左へ滑った。
建物の方へ。
左手を前へ押し、右手を引く。
柄の角度を変えると、先端の滑りが止まった。その分、両腕へ重さがかかる。
右足の下で土が沈んだ。
「建物側へ滑りかけました。今は止めています!」
『胴を引きます』
《朧》が左腕を回した。
怪異の胴が東へ引かれ、柄から金属が離れる。
藍子は薙刀を正面へ戻した。
「左腕の熱さが強くなりました。構えは保てますが、右足の下も沈んでいます」
『交代できるか?』
原田が《朧》へ聞いた。
『胴を押さえています。脚が離れたところで、西側へ入ります』
『降下中の一名は?』
『まだ足場には着いていません。窓の下で受けます』
縄の擦れる音が続いていた。
藍子は足元を見た。
右の踵の外側で、土が崩れている。
次に押されたら、同じ場所では支えきれない。
足を置き直す前に、正面を確かめた。
怪異の胴が低くなる。
東側の脚が二本、地面へ食い込んだ。
足を動かしかけて止め、薙刀を構え直した。
《朧》が胴を引いた。
脚は抜けず、金属の胴が軋んだ。
『踏ん張られています』
胴へ左腕を当て直し、刃を地面に刺さった脚へ向ける。
その時、西側の一本が浮いた。
藍子は柄を持ち上げた。
先端はこちらへ向かってこない。
《徒桜》の左脇を通り、建物の角へ伸びていく。
「西の脚、私の左を通ります!」
薙刀を横へ向けかけた。
刃の先に、壁が見える。
振れば、そこへ当たる。
両手を動かし、刃先を上げた。斜めに立てた柄を、伸びてくる脚の前へ差し出す。
金属がぶつかった。
柄を押したまま、脚が壁へ進んでくる。
両腕が胸へ近づき、息が詰まる。
右足の下で土が崩れた。
「受けました。でも、足が沈んでいます!」
『東の脚を切ります。まだ西へ回れません』
《朧》の刃が、地面へ食い込んだ脚を打った。
殻が欠ける。
胴はまだ動かなかった。
藍子は左肘を寄せた。
熱い。
柄を押し戻そうとしても、腕が震えるだけだった。
『あと少しです。足を壁へつけて、そのまま下へ』
救助班の術者の声が届く。
足を引きかけた。
けれど、柄を外せば、この脚は壁まで抜けていく。
まだ下りている人がいる。
その下で、受けようと待っている人も。
足を止めた。
『脚がこちらへ向いています!』
窓の下から声が上がった。
柄を握り直す。
金属の先端は、柄に遮られたまま、窓の下へ迫っていた。




