第三十六話 自分の足で
第三十六話 自分の足で
『接続完了。現地への招来を開始します』
十五分の間に何度か届いた報告が、その声で途切れた。
藍子は正面を見た。
青い光の向こうにあった柱が消える。
足元の感触が、一瞬遠くなった。
身体へ力を入れかけた時、別の声が届いた。
『《徒桜》の到着を確認。周囲の方は、陣の内側へ入らないでください』
光が薄れていく。
柱の代わりに、低い建物と道路が見えた。
旧取水施設だった。
正門の外に並んでいた車は、陣から離れた場所へ寄せられている。人の姿も、そのそばに集まっていた。
少し前まで、自分もあそこにいた。
『藍子、聞こえるか』
玄斎の声だった。
「聞こえます」
『現地に着いた。まずは原田の指示を聞け』
返事をすると、通信が切り替わった。
『正門の左にいる。こちらが見えるか?』
門の脇で、一人が腕を上げていた。
顔を確かめようとして、視線を下へ向ける。
思っていたより近い。
けれど、原田は機体の足元から距離を取って立っていた。
「見えます。左側ですね」
『そうだ。前には誰もいない。まず、正門まで進んでくれ』
門柱の間を見た。
《朧》はそこを通っていた。
自分も通れるはずだった。
右足へ意識を向ける。
機体の足が持ち上がった。
視界が揺れる。
地面へ戻すと、靴底で踏んだ時とは違う重さが返ってきた。土が沈み、身体が前へ傾く。
藍子は次の足を出さずに止まった。
『どうした?』
「一歩が、思ったより大きいです」
門柱までの距離が、急に縮まっていた。
『その位置でいい。足元を確かめてから続けてくれ』
下を見る。
踏み出した足の横には、杭を結ぶ光の線が残っていた。陣の担当者は外側に立ち、こちらを見上げている。
足を引き戻そうとして、やめた。
後ろも、機体からはまだ確かめていない。
「この位置から、そのまま前へ進めますか?」
『進める。正門までの進路は空いている』
今度は、小さく足を出した。
左足が地面へ着く。身体の傾きが収まるのを待ち、次の一歩を出した。
足元を確かめながら、正門まで進む。
右腕の先が門柱へ近づいている。
藍子は肩を引こうとして、動きを止めた。
「腕を少し寄せます」
『了解。こちらは離れている』
ゆっくり肘を曲げる。
下げられていた腕が胴へ近づいた。
門柱へ触れていないことを確かめ、足を出す。
正門を抜けた。
広場が見えた。
黒い巨体の前に、《朧》が立っている。
刃と脚の束がぶつかった。
広場に金属の音が響く。
藍子は足を止めた。
さっきまで通信で聞いていた衝突が、目の前で起きていた。
『そこで止まってくれ』
原田の指示が届く。
「止まっています」
『西角は見えるか?』
建物の左端へ目を向けた。
壁の角と、その先へ下りる階段。
階段の上には、救助班の二人がいた。どちらもまだ下りていない。
「階段と、救助班の二人が見えます。窓の下は、ここからでは見えません」
『分かった。救助班は待機中だ』
《朧》が刃を押し返した。
怪異の胴が東へ傾く。
反対側の脚が踏ん張り、削れた地面から土が跳ねた。
近くで見ると、胴の三つの膨らみは、それぞれ違う向きに動いていた。
西へ伸びた脚が、建物の角へ向く。
藍子はそちらへ身体を向けかけた。
『《徒桜》、まだその位置で待ってください』
《朧》の搭乗者が呼びかける。
刃が脚の束へ当たった。
先端が引き戻される。
「……はい」
藍子は、その場で足を止めたまま答えた。
救助班の二人も動いていなかった。
『今から、西側へ立てる位置を取ります。私が怪異を押す間に、原田の示す場所へ進んでください』
《朧》が左腕を胴へ当てる。
地面へ足を据え、押し始めた。
藍子は広場の左側を見た。
原田が救助路側へ寄り、空いた地面を腕で示している。
そこまでの進路に、人がいないことを確かめた。
「見えました。そちらへ進みます」
足を一歩、前へ出す。
示された場所で止まった。
建物の角は左後ろにある。
そこから正門へ戻る道を、自分の足で塞いでいないか確かめた。
『もう少し右へ。左足の後ろを、救助班が通る』
「はい」
足元を見て、小さく位置を変える。
原田が道の端へ下がった。
『そこでいい。機体の後ろは空いている』
藍子は正面へ目を戻した。
怪異の胴を、《朧》が押している。
地面に食い込んだ脚が抜け、巨体がわずかに東へずれた。だが、西へ伸びる脚の先は、まだ建物の角を向いていた。
『こちらで胴を受け持ちます。薙刀を構えられますか』
「やってみます」
右手を開いた。
薙刀を思い浮かべる。
青い光が伸び、柄の重さが手へ返ってきた。
左手を添え、持ち上げる。
刃が視界の上へ出た。
藍子は動きを止めた。
稽古場なら、構えた先まで見えた。今は、柄を握る手から刃までが遠い。
「薙刀は出せました。まだ、振っていません」
『建物側へ刃を向けないでください。こちらも、その前へ入らないようにします』
《朧》が怪異を押したまま、足の位置を変えた。
藍子は刃を広場側へ傾ける。
両手で柄を身体へ引き寄せようとした。
思った以上に、刃先が下がる。
慌てて持ち上げると、今度は柄の端が後ろへ振れた。
背後には救助路がある。
両手へ力を入れ、止めた。
「柄の後ろも動きました。まだ、人を通さないでください」
『了解。救助班は待機を続ける』
原田の返事が届いた。
藍子は息を吐く。
柄を少しずつ正面へ戻した。
足は動かさず、両手で支える。
『その構えで、一度止めてください』
《朧》の搭乗者が告げた。
その時、怪異の反対側から、別の脚が管理道へ伸びた。
『東側、脚が柵へ向かっています!』
監視担当の声が入る。
『右へ動きます。《徒桜》は、その位置で待って』
《朧》が胴を押していた腕を離し、東側の脚へ刃を向けた。
怪異の身体が戻る。
西側の脚が、建物の角から《徒桜》へ向きを変えた。
黒い脚がこちらへ伸びながら持ち上がる。
固まった金属の先が、構えた薙刀の上まで迫っていた。
身体が強張った。
薙刀を握り直す。
『来ます。柄で受けて』
脚が振り下ろされた。
藍子は両腕を上げた。
柄へ金属がぶつかる。
腕が押し下げられ、視界が傾いた。
足元から土が飛ぶ。
押し返そうとしたところで、左手がさらに沈んだ。
「左が、下がります!」
東側の脚を払った《朧》が、こちらへ向き直った。
刃が、薙刀へ押しつけられた脚の付け根を打つ。
重さが抜けた。
藍子は薙刀を持ち上げかけ、止める。
脚の先が引き戻されると、その向こうに《朧》の腕が見えた。
『そのまま。こちらが離れるまで振らないでください』
「はい」
息が浅くなっていた。
柄を支え直す。
左足は、最初に置いた場所からずれていた。
背後の道へ近づいている。
「原田さん。足がずれました」
『見えている。まだ道は塞いでいない。その位置で待て』
《朧》が胴へ左腕を当て、怪異を押し戻した。
もう一本の脚が地面を掻く。
藍子は薙刀の向こうを見た。
一撃を受けた。
だが、《朧》が外してくれなければ、構えを保てなかった。
『痛みや、身体の重さは?』
玄斎の声が届いた。
「痛みはありません。腕は動きます。でも、受けた時、左を支えきれませんでした」
『分かった。現地の指示を聞け』
藍子は左手へ意識を向けた。
柄はまだ握れている。
少し持ち上げると、機体の腕も動いた。
『柄の角度はそのままで、左肘を身体へ寄せられますか』
《朧》の搭乗者が言った。
『腕を伸ばしたままでは、押された時に支えにくい。私が胴を押さえている間に直しましょう』
「はい」
柄の角度を保ち、左肘をゆっくり曲げる。
右手も動かし、刃先が下がらないように支えた。
柄の後ろを確かめてから、原田の指示を聞く。
左足を小さく動かすと、背後の道との間隔が戻った。
『救助班、まだ待機だ』
通信へ届いた指示を聞きながら、藍子は柄を支えた。
刃先を見る。
先ほどより低いが、怪異へ向いている。柄の後ろも、救助路へ突き出してはいなかった。
「この構えなら、保てています」
『確認しました。こちらも位置を保ちます』
《朧》の搭乗者が答えた。
怪異の胴を押していた左腕が離れる。
機体はすぐそばに留まり、右手の刃を胴へ向けていた。
黒い脚が、地面から抜けた。
藍子は薙刀を持ち上げかけた。
だが、脚は上から来なかった。
先端が地面を擦り、右足へ向かってくる。
「足元へ来ます!」
柄を下げた。
刃の付け根へ、金属の束がぶつかる。
腕に重さが返った。
左肘が身体へ近づき、柄が胸の前まで押される。
藍子は歯を食いしばった。
押し返そうとすると、肩まで動きそうになった。
『追い返そうとしないで。足を残して』
《朧》の声が届く。
藍子は踏み出しかけた足を止めた。
脚の先が、刃の付け根を滑る。
束から突き出た金属が、そこへ引っかかった。
外れないまま脚が右側の地面へ食い込み、薙刀も引かれる。
足には届いていない。
柄を正面へ戻そうと、手に力を込めた。
だが、引っかかった金属は外れなかった。
『引かれています。無理に戻さないでください』
《朧》が一歩寄り、絡んだ金属へ刃を当てた。
束がほどける。
薙刀が軽くなった。
藍子は両手を止めた。
今度は、重さが抜けた勢いで持ち上げずに済んだ。
刃を正面へ戻す。
「足は動いていません。薙刀も戻せました」
怪異は右側へ突き立てた脚を引き抜く。
薙刀の届くところに、その先端があった。
藍子は目で追った。
今なら、打てるかもしれない。
左手を動かしかけ、顔だけを左へ向けた。
背後へ続く救助路が見える。身体をひねれば、柄の後ろもそちらへ振れる。
正面へ目を戻し、構えを保った。
《朧》が胴へ刃を打ちつける。
黒い殻の欠片が落ちた。
怪異が向きを変え、西側の脚も遠ざかる。
「今、脚が離れました」
『見えている。救助班はまだ待機だ』
藍子は息を吐いた。
足元の土には、脚が削った溝が残っていた。
「柄を持っていかれそうになりました。自分では外せませんでした」
『金属が刃の根元へ絡んでいました。こちらから外せる間は、無理に引き合わないでください』
搭乗者が答える。
『ただ、私が離れている時には、同じ助け方はできません』
「はい」
藍子は両手の間隔を確かめた。
握れている。
腕も動く。
通信へ、原田の声が入る。
『二機の交代を確かめる。救助班は動かさない』
《朧》が応じた。
『了解。次に怪異を押し戻したところで、西側へ入ります』
『《徒桜》は、交代後に正門へ下がる道を確かめてくれ。陣までは戻らなくていい』
正門へ目を向ける。
ここへ来る時に通った場所だった。
だが、今は薙刀を持っている。
刃をどちらへ向け、どこまで下げれば通れるか。
帰る時にも、確かめることが残っていた。
「分かりました。交代の合図を待ちます」
正面へ視線を戻した。
《朧》が左腕を怪異の胴へ当てる。
藍子は足を据え、薙刀を支えた。
『東側、交代の確認に入る。管理道へ向いた脚があれば知らせてくれ』
原田の呼びかけに、監視担当が応じた。
『了解。結界は維持しています』
《朧》が怪異の胴を押した。
踏ん張っていた脚が地面を削り、巨体が東へずれる。
『西側へ入ります』
左腕を離し、機体が胴の前を回った。
怪異の脚が一本、持ち上がる。
藍子は薙刀を構えたまま待った。
《朧》の刃が、その脚を横から打つ。
先端が広場へ落ちた。
機体が《徒桜》と怪異の間へ入る。
『交代しました。下がってください』
藍子はすぐには足を動かせなかった。
背後の道へ目を向ける。
原田が腕を上げていた。
『正門までの道は空いている。まず一歩、後ろへ』
左足を引こうとした。
薙刀の柄も、一緒に後ろへ動きかける。
手を止めた。
「薙刀を立てます。後ろへ出さないように」
『了解。近くの者は離れろ』
原田が道の端へ寄った。
刃先を上げる。
柄の下端を足の前へ収め、両手で支えた。
顔を左へ向けると、正門までの地面が見えた。
欠けたコンクリート片が落ちている。
その手前へ、左足を置く。
右足を引き、止まった。
怪異が《朧》へ身体を押しつけた。
黒い脚が機体の脇へ回り込む。
藍子は正面へ目を戻した。
薙刀を傾けかける。
『こちらで受けます。後退を続けてください』
《朧》が左腕で脚を押し、刃を胴へ当てた。
原田の声が続く。
『藍子、今は《朧》が受け持っている。正門へ』
「はい」
薙刀を立て直す。
足を置く先を見て、もう一歩下がった。
門柱が近づく。
刃は上にある。
下の柄は、足の前に収まっている。
門柱と薙刀の間に余裕があることを確かめ、門の内側で止まった。
「正門まで下がりました」
『確認した。そこで待て』
通信へ、東側の声が入る。
『一本、管理道へ向いています。まだ柵には届いていません』
『分かった。二機を元の位置へ戻す』
原田が答えた。
《朧》は怪異を押さえたまま、こちらを見た。
『戻れますか?』
藍子は両手を確かめた。
柄を握る指に力が入っている。
少し緩めると、薙刀が傾いた。
慌てて握り直す。
「戻れます。でも、立てたままだと、手に力が入ります」
『こちらの後ろまで戻ってから、先ほどの構えへ下ろしてください。私が離れる前に、位置を合わせます』
「分かりました」
正門から広場まで、通った地面を見た。
コンクリート片は左側にある。
それを避け、足を前へ出した。
《朧》の後ろまで進み、止まる。
薙刀を広場側へ下ろした。
左肘を寄せる。
原田が救助路との間隔を確かめた。
『もう半歩、右へ。そこからなら、戻る時も同じ道を使える』
足を動かす。
「ここですね」
『そうだ』
藍子は薙刀を支えた。
怪異の脚が、こちらへ向いている。
足元へ来るか、上から来るか。
先端を見ながら、声を出した。
「構えました。西側、受け持ちます」
『確認しました。東側へ移ります』
《朧》が胴の東側へ回る。
原田から救助班への指示が届いた。
『二機の位置は取れた。これから通路を再確認する。窓の二人は、まだ下ろすな』
藍子は建物の角へ目を向けた。
救助班の術者の一人が、階段の上で縄を確かめていた。
『救助側、一人下へ。角の欠けたところを確かめてから、窓へ進め』
階段の上にいた一人が応じ、身をかがめる。
もう一人は、その縄を持って残った。
藍子は正面へ目を戻した。
怪異の脚が地面を掻いている。
《朧》が東側から胴へ刃を当てた。巨体が傾き、西側の脚が持ち上がる。
薙刀を構え直した。
怪異の脚の先端は、こちらではなく建物の角へ伸びていた。
「西の脚、角へ向いています」
『胴を引きます』
《朧》が左腕を胴へ回し、自分の側へ引き寄せた。
脚の先が角の手前で止まり、地面へ落ちる。
建物には届かなかった。
『角を通過しました』
救助班の術者の声が届いた。
『縁は欠けていますが、壁側を使えます。これから窓の下へ』
藍子は刃の向こうを見た。
その人はもう、階段の上にはいない。
怪異が胴をひねった。
地面に置かれていた西側の脚が浮き、《徒桜》の脇を抜けようとする。
藍子は薙刀を横へ振りかけた。
建物の角が目に入る。
刃を止め、柄を脚の進路へ差し出した。
金属の束がぶつかる。
左肘へ重さが返った。
柄を胸へ近づけ、足を据える。
脚は柄に沿って滑ったが、刃の付け根までは来ていなかった。
押し合ったまま、腕が震える。
「西の脚を受けています。長くは持てません」
『今、胴を引き戻します』
《朧》が左腕で胴を抱え直し、東へ一歩下がった。
脚が引かれる。
藍子は柄を追わせず、その場で支えた。
金属が離れた。
「離れました」
『確認した。その位置を保て』
原田の声に頷く。
腕を少し下げ、息を吐いた。
『窓の下へ着きました。張り出しに新しい亀裂はありません』
救助班の術者が報告した。
『戻る道も、一人ずつなら通れます。室内の方、こちらが見えますか』
『見えます。窓を少し開けます』
駆動室の術者が答える。
通信へ風の音が混じった。
『縄を下ろしてください。先に下の準備をします』
短い返事のあと、縄を送る声が届く。
原田が《朧》へ呼びかけた。
『救助側、足場の確認は取れた。今の位置で続けられるか?』
『胴と管理道側を受け持ちます。西側へ回る時は知らせます』
『藍子、状態は?』
「腕は動きます。さっきは脚が離れるまで、足を動かさずに受けられました」
『分かった。変わったら知らせてくれ』
返事をし、左手の位置を直す。
まだ柄を支えられる。
けれど、次も同じ向きから来るとは限らない。
『縄の端を受け取りました』
窓の下から声が届いた。
『室内の方は、降りる帯を確かめてください。下ろす指示は、こちらから伝えます』
藍子は怪異の脚を見た。
地面へ食い込んだものは動かない。
背の突起が、ゆっくり持ち上がる。
札の壁を白く濁らせた攻撃だった。
「背の突起が上がっています」
《朧》が刃を当てようとした。
東側の脚が、その腕へ巻きつく。
刃の向きが変わった。
『妖気が来ます。《徒桜》へ向いています!』
藍子は薙刀を身体へ寄せた。
原田が救助班へ告げる。
『降下は待て。下の者は窓の下から動くな。壁側へ寄って、身を低くしろ』
『了解。窓の下で待機します』
救助班の術者の返事が届いた。
藍子は左手を柄から離した。
右手で薙刀を支え、左腕を前へ出す。
怪異の突起が、こちらを向いた。




