第三十五話 引き受ける範囲
第三十五話 引き受ける範囲
『西側の補助に入りました。救助班は、まだ動かさないでください』
社務所の通信具から声が届いた。
藍子は図面へ置いていた指を引いた。
東側へ増援に入った巡回班の一人が、原田たちの補助へ回っていた。管理道側には残る者を置き、《朧》が怪異を押し留める間に、西の救助路を守れるか確かめている。
原田が位置を伝える。
『西角の手前までだ。欠けた通路へは下りるな』
『了解』
紙を貼る音がした。
その直後、重い衝撃が通信へ混じる。
『脚が向きました!』
《朧》の搭乗者が応じた。
『こちらで引きます。西側、退路を空けて』
刃が金属を打つ音がした。
補助に入った術者の声が続く。
『札を一枚使いました。今の攻撃は止められます』
藍子は顔を上げた。
だが、原田は救助の開始を告げなかった。
『続けて受けたら、どれほど持つ?』
『同じ位置へ来るなら、張り直す間が要ります。人が通っている時には、切り替えられません』
『分かった。そこから戻ってくれ』
足音が遠ざかった。
玄斎は報告を紙へ書き加えた。
救助班が下へ入り、二人を窓から下ろす。そのあとに、傷んだ通路と階段を戻る。
「下の人が動いている間、張り直せないんですね」
「うむ。張り直す間に守りが途切れれば、逃げ場の狭いところで攻撃を受けることになる」
藍子は椅子へ座り直した。
現地で札を運ぶ者は、安全な側で足を止め、光が戻るのを待っていた。
窓から下ろした人を運ぶ途中では、同じように待てる場所があるとは限らない。
別の通信具が鳴った。
奉術衆が応答し、玄斎へ知らせる。
「管轄支部長の伊達様です」
「つなげ」
回線が開かれた。
『現地の再配置について、報告を受けました。《朧》に救助路側を受け持たせる案も確認しましたが、その間、管理道へ向く攻撃を術者の結界だけで止め続けることはできません』
玄斎は図面の東側へ目を向けた。
「別の神機は?」
『最も早く動かせる機体でも、出撃準備に三十分以上かかります。現在の《朧》は防衛を続けられていますが、建物への被害が増える前に、救助を進めたい』
「先に討滅することは?」
『今の位置では、怪異を追い込む動きが施設側へ寄ります。搭乗者は、室内に人がいるため、建物を巻き込む攻撃を避けています』
藍子は駆動室の印を見た。
機体が来ても下りられない、としか考えていなかった。
そこに二人が残っているから、できない動きもある。
『玄斎殿。《徒桜》の支援について、協議をお願いしたい』
指先が膝の上で止まった。
琥珀はこちらを見たが、何も言わなかった。
「役目は?」
『西側の救助路を守ることです。《朧》が怪異の胴と下流側を押さえ、《徒桜》には建物の角へ向く脚と妖気へ対処してもらいます』
玄斎が図面を手元へ寄せた。
「二機が、同じ相手を挟むことになる」
『互いの攻撃と進路が重ならない位置を、現地の搭乗者と確認しています。救助班を動かすのは、その配置を取れてからです』
藍子は西角から窓へ続く道をたどった。
現地でも、角を回った先は見えなかった。
玄斎が通信具をこちらへ寄せる。
「救助を始めた時や、下の人が戻った時は、誰が私に伝えてくれるんですか?」
『原田が伝えます。現地で救助班の位置を確かめ、搭乗者へ知らせます』
「《徒桜》から窓の下が見えなくても、分かるんですね」
『はい。不明な時も、持ち場を離れず原田へ確かめてください』
道をなぞっていた指を止めた。
見えなくても、報告を聞いて守る。
玄斎が通信具を引き寄せ、伊達へ尋ねる。
「現地の陣は、大社から使えるな?」
『はい。共同接続を許可します。《朧》の帰還経路を維持し、大社側の準備が整い次第、接続を始められます。所要時間は十五分を見込んでいます』
「機体が急に動けなくなった場合は?」
『救助の途中でも、《朧》を西側へ回します。その間、東側の術者が進行を遅らせますが、長くは持ちません。救助班の退避先と、室内へ戻す場合の手順も現地で確認します』
「退く余地を残せぬなら、下へは入れられんぞ」
『承知しています。撤収に必要な時間も、開始の判断に含めます』
玄斎は図面から顔を上げた。
藍子はその視線を受け、背筋を伸ばした。
まだ、出るかどうかは尋ねられていない。
それでも、前に答えられなかった時とは違って、図面の上に自分の立つ場所が見えた。
『検討していただけるなら、正式な要請を送ります』
「送れ。出撃の可否は、搭乗者へ確かめてから返答する」
『承知しました』
回線を保ったまま、玄斎がこちらへ向き直る。
「藍子。ほかに、確かめたいことはあるか?」
窓の下にいた救助班の術者を思い出した。
姿は見えなかった。
けれど、声が聞こえた。足場へ着いたと報告が届き、それから瀬川が正門を抜けてきた。
「あります」
図面の角へ指を置いた。
「私が退く時、下にいる人が戻るまで、どこで守ればいいんですか?」
玄斎は西角へ、鉛筆の先を置いた。
「ここから正門へ向かう道を背にして立つ。退く時は、《朧》と交代するのじゃ。
一人で正門へ走るのではないぞ」
伊達が続けた。
『通常の中断では、原田が救助班へ撤収を伝えます。《徒桜》が救助路側を受け持つ間に、《朧》が交代できる位置へ移ります。ただし、危険なら交代を先にします』
正門へ戻る者を見送ってから、自分も退く。
そう考えていた。
「まだ人がいるのに、私だけ先に離れることもあるんですか?」
『《朧》が受け持てれば、先に帰還させます。
二機が同じ場所へ残ることで、互いの動きを塞ぐ場合もあります』
「交代したあと、陣へ戻る道も決める。現地へ着いたら、自分の目で確かめてもらう」
図面の線へ目を落とした。
現地で見た道は、紙の線より狭かった。
「図面どおりに通れなかったら、伝えます」
「うむ。使えぬと分かれば変えねばならん」
『機体の動きや霊力の反応が変わった時も、早めに知らせてください。交代する時間を残すためです』
膝の上で、片手を握った。
稽古では、動きを止めてやり直せた。
怪異の前で同じ余裕があるとは限らない。
救助班から、角の通路は一列で戻るしかなく、先頭が止まれば後ろも進めないと報告が届いた。
玄斎が図面へ書き添える。
藍子は握っていた手を開いた。
「私が行っても、すぐに救助を始めるわけではないんですよね」
「そうじゃ。二機の位置を取り、お主がそこで動けることを確かめてからじゃ」
『現地の搭乗者とも、交代の動きを合わせてもらいます』
その間は、室内の二人に待ってもらう。
藍子は窓の印を見た。
待たせたくない。
けれど、確かめないまま始めれば、途中で退くことまで難しくなる。
『管轄支部長・伊達の名で、四季狐大社へ《徒桜》の出撃を正式に要請します』
玄斎が通信具へ向き直った。
「受け取った。可否は、こちらから返答する」
『承知しました。現地の配置確認は続けます』
回線が保留に切り替えられた。
現地からの報告だけが、社務所へ流れる。
「引き受ける役目は分かったか?」
「はい」
「では、お主の方で、先に伝えておきたいことはあるか?」
膝の上で、指を揃えた。
霊力を通しすぎた薙刀の柄が、青く揺れたことを思い出す。
抑えようとすると、今度は光が弱くなった。
「あります」
玄斎の目を見た。
「《徒桜》で力を加減する稽古はしました。でも、攻撃が続いても同じように動かせるかは、まだ分かりません」
玄斎は鉛筆を置いた。
「そのことも現地へ伝える。稽古でできたからといって、機体でもできると見込んではならん」
藍子は頷いた。
隣で、琥珀が膝へ手を置いていた。
現地で札を支えていた手だった。
「琥珀も、途中で代わってもらったよね」
「ん」
「言う時、迷わなかった?」
少し考えてから、首を振った。
「持ってても、光を保てなかったから」
藍子は机へ目を戻した。
「私も、保てなくなったら言う」
「何が起きてるか、分からなくなった時も」
玄斎が二人を見た。
「詳しく説明できずともよい。知らせるのが遅れては困る」
通信具から、現地の声が届いた。
『妖殻の一部は削れました。ただ、脚の動きは変わっていません。
西側の救助路は、引き続き待機です』
《朧》の搭乗者だった。
玄斎が応答し、鉛筆を取り直して報告を紙へ書き加える。
藍子は、瀬川を背負って戻ってきた術者を思い出した。
角を曲がってからも、足元を確かめて進んでいた。
車へ着いたあとには肩を押さえ、痛むことを担当者へ伝えていた。
道を通り終えるまで、自分も持ち場を守ることになる。
「怖いです」
玄斎の鉛筆が止まった。
「うむ」
「《徒桜》を動かした時のこと、まだ覚えてます。
重くなって、離れようと思っても、すぐには動けなかった」
調整池で受けた衝撃が、身体の奥に残っている気がした。
「今度も、同じようになるかもしれません」
玄斎は遮らずに聞いていた。
窓の印へ目を向けた。
中にいる二人の顔は、知らない。
けれど、水を飲んだという声も、下りられるようになったら教えてほしいという声も聞いていた。
「救助をする人が、あの道を通れるようにしたいです」
「途中で中断すると決まったら、どうする?」
藍子はすぐには答えられなかった。
窓の二人を残したままになるかもしれない。
「……悔しいと思います」
「うむ」
「でも、続けられるかどうかは、私の気持ちだけじゃ決められないから。指示を聞きます」
琥珀がこちらを見た。
「まだできるって、思ってても?」
「うん。今どうなってるか、私からも伝える」
藍子は顔を上げた。
「乗るか?」
「乗ります」
琥珀が小さく息を吐いた。
藍子は図面の西角へ指を置いた。
「西側の道を守ります」
玄斎が通信具を引き寄せた。
保留にしていた回線を開き、伊達を呼ぶ。
「藍子が引き受ける」
『ありがとうございます。現地へ伝えます』
「ただし、実戦でも稽古と同じように動けるとは見込むな。そのつもりで配置を決めてくれ」
『承知しました。現地の搭乗者と原田へ共有します』
藍子は椅子から立ち上がり、通信具の前へ進んだ。
胸の奥は、まだ落ち着かなかった。
「よろしくお願いします」
『こちらこそ。到着前に、原田から配置を伝えます』
玄斎が地下の準備を指示すると、社務所の奥にいた奉術衆が廊下へ出ていった。
その足音を聞きながら、藍子は椅子のそばへ戻る。
鞄の持ち手を取ったところで、声をかけられた。
「それは、ここへ置いておけるぞ」
「あ……はい」
机の下へ寄せると、琥珀も隣へ鞄を置いた。
「琥珀も来るの?」
「地下まで」
短い返事のあとで、こちらを見た。
「鞄は持っていかない」
「私も、もう置いたよ」
持ち手から手を離す。
通信具から、原田の声が届いた。
『出撃の件、受け取りました。西側の配置を確認しています』
玄斎が図面を持ち上げた。
「こちらも準備に入る。以後の報告は地下へつないでくれ」
『了解』
図面を連絡担当へ渡し、藍子の母親にも出撃の件を伝えるよう頼む。
藍子は、その奉術衆へ声をかけた。
「帰ったら、私からも話します」
「そのようにお伝えします」
頷いて、玄斎のあとを追った。
社務所の奥には、御神鏡を据えた祭壇がある。
その前で、琥珀へ顔を向けた。
「手、もう平気?」
「ん。今日は、もう札は持たない」
「そっか」
玄斎が御神鏡へ指先を触れ、短い祝詞を唱える。
鏡面に青白い文字が浮かぶと、床が開いた。
地下から冷たい空気が流れてくる。
玄斎が先に下り、階段の途中で振り返った。
「足元に気をつけよ」
「はい」
一段目へ足を置く。
下から、低い音が響いてきた。
階段を下りるにつれ、壁へ反射する青い光が濃くなる。
広間へ出ると、《徒桜》がそこに立っていた。
藍子は足を止めた。
見上げた肩は、記憶の中より高く感じられた。両腕は下げられ、まだ動いていない。
あの腕で、怪異を受ける。
あの足で、帰る道を通る。
機体の前にいた奉術衆が、玄斎へ報告した。
「母陣の確認に入っています。現地の受入陣との連絡も取れました」
「共同使用の確認は?」
「支部と現地の陣の担当者へ確認しています。接続を始められる状態になったら、お知らせします」
玄斎が頷く。
藍子は機体から目を離さずに尋ねた。
「私は、先に乗っていていいですか?」
「うむ。搭乗して、通信を確かめるところまで進めよう」
担当者が搭乗の準備へ移った。
やがて搭乗口が開く。
背後で、琥珀が足を止める。
「ここで待ってる」
「うん」
振り返ると、いつもの顔があった。
藍子は担当者のそばへ進み、搭乗口をのぞいた。
中は暗かった。
縁へ手を添えると、指先の下で青い光が広がる。
初めて乗った時も、この色を見た。
あの時は、上から扉を壊す音が届いていた。今は広間で準備を進める声と、通信の返事が聞こえる。
「足元を確かめてから入ってください」
担当者に頷き、片足を入れた。
身体を中へ移し、腰を落ち着ける。
外に立つ琥珀が見えた。
少し離れたところで、玄斎が通信具を受け取っている。
「藍子、聞こえるか?」
声が、すぐそばから届いたように感じられた。
「はい」
「こちらにも届いておる」
玄斎は担当者へ頷いてから、搭乗口を見た。
「閉じるぞ」
「お願いします」
外の光が細くなる。
琥珀の姿が隠れたところで、思わず息を止めた。
閉じきったあと、青い光が視界へ広がる。
やがて、広間の柱が見えた。
先ほどより高い位置から見下ろしている。機体の前にいる担当者も、床の線も小さかった。
藍子は息を吐いた。
「玄斎様」
「どうした?」
「外は見えます。でも、まだ距離がつかみにくいです」
「そのまま動かずに待て。今、前にいる者を離す」
担当者が顔を上げ、機体のそばから下がった。
玄斎と琥珀も、広間の端へ移る。
視線を下へ向けると、下げられた《徒桜》の腕が見えた。
自分の手は、膝に触れている。
見えている腕の大きさと、指先で感じる服の柔らかさが、うまく結びつかなかった。
『《徒桜》、聞こえますか』
別の声が入った。
『現地の《朧》です』
「聞こえます。九條藍子です。よろしくお願いします」
『よろしくお願いします。こちらは今、怪異を広場で押さえています』
「分かりました」
返事の直後、金属のぶつかる音がした。
続いて、搭乗者が現地の誰かへ呼びかける声が届く。
藍子は口を閉じ、そのやり取りが終わるのを待った。
回線が切り替わり、玄斎の声が戻る。
「身体に変わったところはあるか?」
「今のところ、ありません。まだ、動かしてはいません」
「うむ。続いて、原田から到着後の位置を伝える」
図面を広げる音がした。
『正門から入ったあと、まず広場の手前で止まってもらう。そこから西角を確かめてくれ』
車で通った正門を思い浮かべた。
その先は、機体から見たことがない。
「正門を抜けたら、広場の手前で止まります」
『そうだ。こちらから位置を示す。着いたら、見えているものを教えてくれ』
「分かりました」
広間の端で、母陣の担当者が手を上げた。
「共同使用の確認が取れました。現地の担当者も、接続を始められます」
「では進めよ」
床の線へ光が走った。
一本ずつつながり、機体の周囲へ広がっていく。
『大社の母陣を確認しました。《朧》の帰還経路は維持しています』
現地から返事が届いた。
「接続完了まで、十五分を見込んでいます」
藍子は正面を見た。
柱の間に、玄斎と琥珀がいる。
その先にあった広間の輪郭が、流れる光の中でかすんだ。
『これより《徒桜》の接続を開始します』
膝に触れていた手を、そのままにして待った。




