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神機巫女 -SHIKITSUNE-  作者: レイン
第三節 知ったうえで、まだ選べない

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第三十四話 窓の向こうへ

第三十四話 窓の向こうへ


『窓の下へ着きました』


 通信具から届いた声に、藍子は建物の角を見た。


 救助班の術者の姿は、ここからでは見えない。


 台の上には、まだ毛布の袋が残っていた。


『足場に新しい亀裂はありません。室内の方、物資を上げる縄をお願いします』


 駆動室から返事が届く。


 水の袋を運んだ者が、階段の上で身をかがめた。そこに残っていた術者へ袋を渡し、引き返す。


『水を送ります』


 少し間を置き、窓の下から声が続いた。


『袋をつなぎました。ゆっくり引いてください』


 何かが壁へ擦れる音がした。


『少し止めて。角へ引っかかっています』


 藍子の手が止まる。


『外れました。そのまま上げて大丈夫です』


 水音の合間に、縄を引く短い掛け声が聞こえた。


『受け取りました。お二人に渡します』


 駆動室の術者が報告する。


 琥珀が時刻を書き込んだ。


 窓の印の横へ、水を受け取ったことを記す。


「毛布も、お願いします」


 藍子が袋を示すと、支援担当は救助班へ確認してから、運搬役へ渡した。


 正門へ走っていく背中を見送る。


 通信具から、室内の声が届いた。


『瀬川さん、足はどうですか』


『座っていれば、大丈夫です』


 作業員の返事だった。


『そっちの人は、上がってこられないんですか』


『下で受ける準備をしています。降りる時の帯は、私がつけます』


 布を動かす音がした。


 藍子は、自分が運んできた背負い具を思い返した。


 あれは下へ着いたあとに使うものだった。窓から下ろす時にも、身体を支える道具が要る。


 支援担当が救助班へ尋ねる。


「下ろす準備は?」


『足を傷めた方からです。室内で帯をつけ、姿勢を確かめています。毛布の受け渡しを終えたら、降下用の縄へ切り替えます』


「了解しました」


 琥珀は、水の記録の下へ瀬川の名前を書いた。


 その先は空けておく。


 運搬役が正門から戻ってきた。


「毛布は階段の上へ渡しました」


 琥珀は、毛布の欄へ階段上と書き込んだ。室内への到着時刻は空けておく。


「届いたら、こっちに書く」


 支援担当へ記録を示すと、男が頷いた。


「お願いします。途中の位置も、このまま残してください」


 その記録を見ながら、救助班へ受け渡しの続きを確認した。


 別の通信具から声が届く。


『東側の結界へ接触しました。こちらの二人で維持しています』


 怪異が柵を押す音が、遠くから響いた。


 藍子は建物の向こうを見た。


 巨体は隠れている。見えるのは、壁の上へ突き出した黒い金属の先だけだった。


 原田の声が入る。


『増援の位置は?』


『管理道を上がっています。東側の担当と合流するよう伝えています』


『了解。救助側は、そのまま準備を続けてくれ』


 支援担当が、琥珀の記録を見て報告した。


「水は室内へ到着済み。毛布は階段の上から送っています。瀬川さんを先に下ろす予定ですが、準備完了はまだ届いていません」


『分かった』


 藍子は空の箱を台の下へ寄せた。


 その先では、搬送担当が車の後部を開け、座席を整えている。


 下りてきた人を、あそこまで運ぶ。


 窓の下へ着けば終わりではなかった。


『毛布、受け取りました』


 室内から声が届いた。


『ありがとうございます。足の下へ入れます』


 藍子は顔を上げた。


 さっきまで、自分の手の中にあった毛布だった。


 今は窓の向こうで、誰かの身体を支えている。


『物資用の縄を外しました。降下用を下ろします』


 琥珀が次の報告を待つ。


 階段の上に残った術者から、足場のそばまで縄が延びたことが伝えられた。


 続いて、窓の下から声が届く。


『縄の端を受け取りました。こちらは受けられます』


『室内も準備できました』


 原田が東側へ怪異の位置を確認した。


 まだ結界の前にいる。


『一人目を下ろせ。救助側、動きが変わったら知らせる』


 琥珀が瀬川の名前の横へ、降下開始の時刻を書く。


 通信具から、作業員の声が聞こえた。


『下を見ない方が、いいですか』


『怖ければ、こちらを見ていてください。身体を支えるので、ゆっくり窓へ寄りましょう』


 藍子は台へ手を置いた。


 窓の下を想像する。


 狭い足場。その横を流れる水。


 足を痛めたまま、あの高さから出る。


『今、足が外へ出ます』


 室内の術者が告げた。


『そのままで。縄を送ります』


 短い息が聞こえた。


『待って、足が――』


『止めます』


 返事はすぐだった。


 藍子は身を乗り出しかけた。


 ここからでは、窓は見えない。


『壁に触れています。下で向きを直します』


 救助班の術者の声が続いた。


『瀬川さん、脚は動かさずに。そのままで大丈夫です』


 琥珀の筆が止まっていた。


 誰も、次の記録へ進まない。


 水の音だけが届く。


『離れました。少しずつ下ろしてください』


 藍子は台の縁を握った。


『あと少しです。下で支えています』


 縄の擦れる音が止まる。


『足場へ着きました』


 下で受け止めた術者が報告した。


『身体を支えています。背負い具へ移します』


 藍子は息を吐いた。


 琥珀が図面の窓から、一人分の印を下の足場へ移した。


 支援担当が、その位置を確かめる。


「一名、降下完了。まだ通路上ですね」


「ん」


 琥珀が頷く。


 車のそばでは、搬送担当がこちらを見ていた。


 藍子はまだ、手を上げなかった。


 窓から下りた瀬川を、今度は階段まで運ばなければならない。


『室内の二名は、そのまま待機してください。下の方を先に運びます』


 救助班の術者の声に、短い返事が続いた。


『背負い具を固定しました。階段へ戻ります』


 窓の下から声が届いた。


 藍子は車の方を見た。


 搬送担当が頷き、救助路の出口へ向かう。支援担当も、正門を通る者へ道を空けるよう伝えた。


 階段の上にいた術者が下へ移る。


 瀬川を背負った者の横につき、足元を確かめながら進んだ。


『ここから上がります。揺れるので、身体を起こさないでください』


『はい』


 作業員の返事に、荒い息が重なった。


 藍子は搬送担当に呼ばれ、車から毛布を一枚取った。扉の前で待つ。


 建物の角から、救助班の二人が現れた。


 一人の背へ、作業服の男が身体を預けている。もう一人は脇に手を添え、足を引きずらないよう支えていた。


 正門を抜けたところで、搬送担当が近づく。


「車はこちらです。背負ったまま、この踏み台へ上がれますか」


「大丈夫です」


 瀬川を背負った術者は足を止め、呼吸を整えた。


 瀬川の顔が、肩の上から見える。


 白い息を吐き、車の扉へ目を向けていた。


 藍子は毛布を広げた。


 搬送担当が背負い具の留め具を外し、もう一人と身体を支えて座席へ移す。藍子はその手が離れてから、膝へ毛布を掛けた。


「痛いところに触っていませんか?」


「……平気です。ありがとう」


 瀬川が毛布の端をつかむ。


「ほかの四人は?」


「正門の外へ出ています。けがもないと聞いています」


 搬送担当が答えた。


 瀬川は目を閉じ、座席へ背を預ける。


 背負っていた術者が腰を伸ばした。片方の肩へ手を当て、腕を回している。


「一人、支援地点へ戻りました」


 支援担当の報告を聞き、琥珀が瀬川の印を移した。


 残る二つは、窓のそばにあった。


 救助班は背負い具を外し、再び建物へ向かう。


 その前に、原田から呼び止める声が届いた。


『救助側、角で待て。怪異が戻る』


 藍子は車から振り返った。


 建物の向こうにあった黒い突起が、ゆっくり移動している。


 東側の通信から声が入った。


『巡回班と合流しました。結界を補強していますが、対象は引き返しています』


『西へ向いた脚を見失うな』


 原田が答える。


 広場を囲む柵の向こうから、巨体が戻ってきた。


 胴の三つの塊が、黒い殻に覆われている。脚の間に絡んでいた細い金属も、身体へ沿うように固まっていた。


 怪異は結界へ近づくと、背の突起を持ち上げた。


 藍子は瀬川の座席から離れ、搬送担当の指示で扉を閉める。


『西角、下がれ!』


 原田の声が響いた。


 黒い波が、光の壁へぶつかった。


 西角に貼られた札が、白く燃える。


 そこにいた術者が手を引き、壁から離れた。


 光の端が揺らぐ。


 怪異の脚が、その薄いところへ向いた。


『救助班、角から戻れ!』


 二人が正門へ走り始めた。


 藍子も支援担当のそばへ戻る。


 図面を抱えた琥珀が、通信具へ手を伸ばした。


「救助班の二人は、こちらへ戻る。室内の二人は、待機でいい?」


 支援担当が原田へ確認する。


『室内は待機。駆動室の術者には、窓を閉めたままにさせてくれ。救助班は正門まで戻す』


「分かりました」


 男が駆動室へ連絡する間、琥珀は救助班の印を正門へ移した。


 窓の二つは動かさない。


『縄も、引き上げますか?』


 駆動室から問いが届いた。


 支援担当が救助班へ尋ねる。


『降下用は、端を室内へ戻してください。外へ垂らしたままだと、怪異に引かれるおそれがあります』


 指示が伝わる。


 通信の向こうで、縄を引く音が始まった。


 西角を離れた術者が、広場側へ新しい札を打った。原田ともう一人が光を支え、その札へ結界の端をつなぎ直す。


 救助班が使っていた道の一部が、光の向こうに残る。


 藍子は二人が正門を抜けるのを見た。


 支援担当が手を上げ、こちらへ呼ぶ。


「二人とも戻りました」


 琥珀が顔を確かめ、記録へ書き加えた。


 救助班の術者の一人が、膝へ手をつく。


 もう一人は建物を振り返った。


「あと二人です」


「分かっている」


 支援担当は通信具を握った。


「まず、原田さんから道の状態を聞きます」


 その返事を待つ間、藍子は二人へ水を渡した。


 瀬川を背負ってきた者が、容器を持つ手を替える。


「ありがとうございます」


 蓋を開け、一口飲んだ。


 藍子は空いた手が、また肩へ向かうのを見た。


「肩、痛みますか?」


「少し。動かせます」


 腕を上げてみせ、肩の痛みを支援担当にも伝えた。


 男が頷き、階段に残る者と下へ入る者の担当を交代できるか、救助班と相談を始める。


 琥珀は図面へ新しい結界の線を引いた。


 先ほどまで守られていた西角が、その外へ出ている。


 窓から下ろす場所は残っていても、そこへ向かう道が使えなくなった。


 駆動室から声が届いた。


『縄を戻しました。二人とも窓から離れています』


 支援担当が応じる。


 その後ろで、作業員が尋ねた。


『瀬川さんは、出られましたか』


 男は琥珀の記録を見た。


 足場へ着いた時刻。


 支援地点へ戻った時刻。


「瀬川さんは車へ乗っています。こちらで足を診てもらっています」


『そうですか』


 短い返事のあと、しばらく声が途切れた。


 藍子は建物の角を見た。


 さっき瀬川を背負った二人が歩いてきた場所だった。


 今は、怪異の脚の影がそこへ伸びている。


 通信具から、作業員の声が戻ってきた。


『私たちは、ここにいます。下りられるようになったら、教えてください』


 救助班が使っていた道へ、黒い脚が伸びた。


 爪のように固まった先端が、建物の角を削る。


 藍子は車のそばにいる瀬川を見た。


 もう少し遅ければ、あの道を通れなかった。


『西側から離れさせられません。救助の再開は待ってください』


 原田の報告に、支援担当が応じる。


 琥珀は図面へ、救助路を横切る線を引いた。


 窓の二つの印は、そのまま残す。


 神機陣の担当者が、支援側へ声をかけた。


「外周の補強に、二人お願いします。西側から妖気が流れてきています」


 杭に貼った札が震えていた。


 原田たちの結界が下がり、広場から流れる妖気が正門の外にも届き始めている。


 陣の内側にいる術者は、霊力経路へ手を添えたまま動かなかった。


 もう一人が外周を回り、西側の二本の杭を確かめる。


「接続は?」


 支援担当が尋ねた。


「乱れてはいません。ただ、西の端へ負荷が偏っています。中央側にも分けたい」


 同行した奉術衆が、台のそばへ来た。


「私が受けます」


「私もできる」


 琥珀が顔を上げた。


 担当者は支援担当へ確かめ、補助札を二枚、台へ置いた。


 杭に貼られた札とのつながりを確かめてから、一枚ずつ指した。


「こちらは西端、こちらはその隣です。量は私が指示します。二人で合わせ続ける必要はありません」


 奉術衆が西端の札を取る。


 琥珀は図面を支援担当へ渡した。


「窓に二人。救助班は、こっちへ戻ってる」


「引き継ぎます」


 返事を聞いてから、もう一枚の札へ手を添えた。


 白い光が紙へ広がる。


 担当者が外周の杭を見た。


「西端を少し抑えてください。隣は、今のまま」


 奉術衆の指先から出ていた光が薄れる。


 琥珀は自分の札を見た。こちらの光まで弱めかけ、手を止める。


 担当者が顔を向けた。


「琥珀さんは、変えなくて大丈夫です」


「ん」


 紙の上の光を保つ。


 西端で細かく揺れていた結界が、隣の杭へ向けて張り直されていく。


 白い筋が二本の間に広がった。


 原田から、また攻撃を受けたという報告が届く。


 琥珀の札が震えた。


 光を強めようとして、指先から出る量が揺れる。


「今、光を保てなくなった」


 担当者がすぐに手を添えた。


「こちらで受けます。霊力を止めてください」


 琥珀は指先の光を抑えた。


 札の震えは、担当者の手の中で収まった。


 外周の結界は保たれている。


 奉術衆が西端の補助を続ける間に、担当者が隣の杭へ霊力を送った。


「一度、休んでください。必要になったら声をかけます」


「ん」


 藍子が椅子を引くと、琥珀は腰を下ろした。


 指を開き、膝へ置く。


「水、飲む?」


「少し」


 藍子は容器を渡した。


 台では、支援担当が新しい報告を書き加えている。


 琥珀はそちらへ顔を向けたが、図面へ手は伸ばさなかった。


 接続を維持する術者が、管轄支部へ確認を求めた。


『接続は安定しています。このまま続けてください』


 返事を聞き、藍子は陣の中央を見た。


 まだ、機体の姿はない。


 その場所へ届く光を、琥珀も支えていた。


 救助班の一人が、支援担当へ近づいてきた。


「残る二人には、水と毛布が届いています。室内の術者が扉へ札を貼っていますが、建物の揺れは続いています」


「救助路は?」


「今の位置からでは入れません。《朧》が怪異を離してくれれば、もう一度、足場を見に行けます」


 男は図面へ指を置いた。


「ただ、さっきの脚で、角の通路にも欠けたところができています。残る二人が安全に通れるか、先に確かめたい」


 支援担当が、その場所を記す。


 瀬川を背負っていた術者は、隣で肩を休めていた。次に下へ入る者へ、階段の足場を説明している。


 藍子は二人を見た。


 下へ入る者を替えても、道の方は直らない。


 支援担当が原田と支部へ、再調査が必要なことを伝えた。


 返事を待つ間、駆動室へも呼びかける。


『聞こえます。二人とも、室内にいます』


「変わったことはありますか?」


『扉は閉めています。今のところ、こちらへ怪異は来ていません』


 その後ろで、作業員の声がした。


『水、飲みました。毛布も、使っています』


 藍子は小さく頷いた。


 支援担当が返事をして、記録へ書き添える。


 管轄支部から、連絡が入った。


『《朧》の到着後は、正門から広場へ進ませます。機体の通る場所を空けてください』


 支援担当が図面と神機陣を見比べた。


 台は陣の外にあるが、そこから正門へ向かう道には、資材の箱が並んでいる。


「残りの資材を車側へ寄せます。搬送する方を先に出し、正門までの動線を空けます」


『お願いします』


 男が搬送担当を呼んだ。


「瀬川さんを乗せた車を出せますか?」


「出せます。足も固定できました」


「では先にお願いします。現地を出る時、門の担当へ知らせてください」


 返事を聞き、今度は藍子たちへ顔を向けた。


「二人も、いったん車へ。台はこちらで移します。通信は引き継いでいます」


 琥珀が椅子から立ち上がる。


 藍子は足元の箱へ手を伸ばしかけたが、男が先に持ち上げた。


「資材は私たちが運びます。まず、道を空けてください」


「はい」


 椅子を台の脇へ寄せ、琥珀と車へ向かった。


 瀬川を乗せた車の扉が閉まる。


 正門へ走る者は立ち止まり、車が道路へ出るのを待っていた。


 藍子は後部座席へ乗り込み、窓から台の方を見た。


 図面を挟んだ板も、通信具も、担当者たちの手で車側へ運ばれていく。


 建物の窓は、ここからでは見えない。


 琥珀も隣へ座った。


 二人の前を、瀬川の車が通り過ぎる。


 支援担当が移した通信具から、救助班への指示が聞こえた。


『機体が前へ出たら、まず角までの道を確認してください。通路へ下りる前に、こちらへ報告をお願いします』


 車の後部へ、札の箱が積み直された。


 同行した奉術衆が、現地に残す資材を支援担当へ渡している。


 台は神機陣から正門へ向かう道の外側へ移されていた。担当者たちは、その場所で通信と記録を続けている。


 藍子は窓越しに、図面を挟んだ板を見た。


 琥珀の書いた文字の横へ、別の筆が動いていた。


 支援担当が車へ近づき、窓のそばに立った。


 琥珀は台に残した図面へ目を向けた。


「窓の二人が戻ったら、教えて」


「分かりました。大社へ連絡します」


 男が台へ戻る。


 運転席の扉が開いた。


 同行してきた奉術衆が座り、通信具を置く。


「現地の担当へ引き継ぎました。玄斎様からも、二人を大社へ戻すよう指示が来ています」


 藍子は顔を上げた。


「私たちも、戻るんですか?」


「はい。ここから先は、機体を迎えるために人と車の動きを制限します。二人に頼んだ仕事は、引き継げています」


 通信具から、管轄支部の声が届いた。


『接続完了まで、あと三分の見込みです。招来位置と、正門までの進路を空けてください』


 窓の外で、運搬役が空の袋を畳んでいた。


 藍子は膝へ手を置く。


「……分かりました」


「救助の報告は、移動中も受けます」


 その言葉に、小さく頷いた。


 琥珀は鞄を足元へ寄せた。


 神機陣のそばにいる術者が手を上げる。門の担当者が、車の進む先を確かめてから通す合図を出した。


 車が動き始めた。


 正門が窓の端へ流れる。


 藍子は建物を見続けていたが、道を曲がると、木々に遮られた。


 通信具から声が届く。


『西側の角は待機のままです。室内の二名とも、連絡が取れています』


 運転している奉術衆が応答した。


 琥珀も、その返事を聞いていた。


 車内へ暖かい風が流れてくる。


 藍子は指先をこすった。


 台の縁を握っていた時には、冷たくなっていることにも気づかなかった。


「寒い?」


 琥珀が尋ねる。


「少し。琥珀は?」


「足が」


 藍子は座席に置かれていた毛布を取った。


 半分を自分の膝へ掛け、残りを隣へ渡す。


 琥珀が端を引いた。


 藍子の膝が出る。


「ちょっと。全部そっちへ持っていかないで」


「半分」


「今、半分より多かったよ」


 琥珀は毛布を見下ろした。


 少しだけ戻す。


「これで?」


「うん」


 端を二人の間へ折り込み、足元まで掛け直す。


 琥珀はしばらく黙ってから、膝の上へ手を置いた。


「こっちも冷たい」


「手も入れていいんだよ」


「ん」


 毛布の下へ両手が消えた。


 藍子も指先を入れる。


 冷えた手が、布に触れたところから少しずつ緩んだ。


 車が橋を渡る。


 下には、施設の方から続く水が流れていた。


「瀬川さんに掛けたのも、温まってるといいね」


「車に乗った」


「うん」


「窓の人も、使ってる」


 藍子は頷いた。


 手渡した時には聞けなかった声が、あとから通信で届いた。


 水を飲んだ。


 毛布を使っている。


 膝の上の布へ目を落とし、隣へ寄りすぎていた端を少し戻した。


 琥珀は引き直さず、座席へ背を預けた。


 筆も紙も、今は出さない。


 車の外で、通学帰りの生徒が歩道を歩いていた。自転車を押す二人が立ち止まり、片方が笑っている。


 藍子はその姿が後ろへ流れるまで見ていた。


 学校を出た時には、自分たちも同じ道を歩いていた。


 毛布の下で、指を開く。


 感覚が戻ってきている。


 車内が静かになった頃、通信具から呼び出し音がした。


『接続完了。これより《朧》を招来します』


 藍子は前の座席へ顔を向けた。


 琥珀も身体を起こす。


 運転している奉術衆が応答すると、現地の声が続いた。


『受入陣、維持しています。正門までの進路に人はいません』


 藍子は毛布の端を握った。


 さっきまで見ていた空き地に、《朧》が来る。


 救助班が待っている角も、室内に残る二人も、その先にいる。


 窓の外では、橋が遠ざかっていた。


     ◇


 神機陣の中央で、空間が揺らいだ。


 光の中から頭部と肩が現れ、続いて胴と両腕が形を得る。


 原田は広場から、その姿を確かめた。


『現地到着。正門から前へ出ます』


 搭乗者の声が通信へ流れる。


「西側に救助班がいる。機体の進路は空けてある」


『確認しました。結界の担当は、私が間へ入ってから下がってください』


 《朧》が正門を抜けた。


 怪異は広場の東寄りにいる。


 地面へ突き立てていた脚を引き抜き、近づく機体へ身体を向けた。


 背の突起が持ち上がる。


「来るぞ!」


 《朧》はその正面へ走らず、広場の東側へ踏み込んだ。


 突起の向きが変わる。


 結界から、怪異の狙いが外れた。


 黒い波が放たれる。


 《朧》は左腕を前へ出し、機体を傾けて受けた。装甲を擦る音とともに、足元の土が押し流される。


 それでも、正門へ続く道には踏み出さなかった。


『結界の担当、後退を』


「下がれ!」


 二人を先に退かせ、結界へ送っていた霊力を止めた。


 光の壁が消える。


 《朧》が右手の刃を振るった。


 胴を覆う妖殻に当たり、硬い音が響く。浅く刻まれた傷から刃を引くと、足元へ伸びた脚を払い、怪異の向きを東へ押し戻した。


 西側の角から、救助班が顔を出す。


「まず、角までの道を確かめてくれ。下りる前に報告を」


「了解」


 二人が道の縁を見ながら進む。


 原田は正門側へ下がり、息を継いだ。


 護符へ添えていた指が、すぐには開かなかった。


『足場を見ます。一人、階段へ』


 救助班の報告が届く。


 《朧》は西へ伸びかけた脚を刃で打ち、左腕を怪異の胴へ当てた。


 機体が踏み込む。


 巨体が東へ傾いた。


 だが、反対側の脚が地面をえぐり、止まる。


 三つの塊が、押された胴の内側でずれた。


 一方の脚は踏ん張ったまま、別の脚が《朧》の左腕へ巻きつこうとする。


 機体は腕を引き、刃でその先を払った。


 押さえていた胴が戻る。


 西へ伸びた脚が、建物の角の陰へ入った。


「救助側、止まれ!」


 原田は通信へ叫んだ。


 階段を下りかけていた者が足を止める。


 《朧》が西へ踏み直し、脚の付け根へ刃を当てた。


 金属の束が引かれる。


 角の陰から、先端が戻ってきた。


 その時、東側の監視担当から声が入った。


『反対側の脚が、管理道へ伸びています!』


 怪異の胴は、《朧》と建物の間にある。


 その向こうで、柵の柱が曲がった。


 《朧》は怪異の前を回り、東側へ入った。


 刃が脚の束へ当たる。


 引かれた脚とともに、胴が回った。


 背の突起が、西を向く。


 建物の角には、まだ救助班がいる。


 《朧》は足を踏み替え、再び西側へ戻った。突起へ刃を当て、持ち上がった先を外へそらす。


 黒い波が、建物から離れた地面を削った。


『西側、いったん戻ってください』


 搭乗者の声が届いた。


『東へ寄ると、角の陰へ入った脚に届きません。西へ寄れば、反対側が管理道へ出ます』


「了解。救助班は階段の上へ」


 原田は救助班の術者が戻るのを確かめた。


 《朧》は怪異を広場へ押し留めている。


 だが、救助班が下へ入り、人を運んで戻る間、機体を西側へ留めておくことはできなかった。


「支部へ。機体と現地班で配置を組み直す。救助路を守る者が、途中で離れずに済む形が必要だ」


 返事を聞きながら、図面を広げた。


 そこへ、救助班が調べた通路の状態が加えられていく。


     ◇


 大社へ着くと、藍子は琥珀とともに社務所へ入った。


 玄斎は通信具の前に座っていた。


 机には、現地で使っていたものと同じ図面が広げられている。


「戻ったか。二人とも座れ」


 椅子へ腰を下ろすと、琥珀も隣へ座った。


「《朧》は?」


「現地へ着いた。原田たちの防衛を引き継いでおる」


「窓の二人は、下りられますか?」


 玄斎が通信へ目を向けた。


 救助班からの報告が届く。


『二つ目の窓の下は残っています。角の通路は、縁が欠けています。通る位置を確かめれば使えますが、一人ずつ、足元を見て進む必要があります』


「怪異を離せれば、通れるのじゃな?」


『はい。ただ、急いで戻れる幅はありません』


 藍子は図面の角へ目を落とした。


 瀬川を背負った者も、ゆっくり歩いていた。


 あの道がさらに狭くなっている。


 琥珀が隣から図面を見る。


「下に入ったら、すぐには退けない」


「うむ。下へ入ってから戻るまで、道を守り続けねばならん」


 通信へ問いかけると、救助班はまだ階段の上で待機していると返事が届いた。


 藍子は膝へ置いていた手を開いた。


「《朧》が来ても、まだ……」


「現地の者を、結界へ張りつかせずに済んでおる。その者たちが次に何を受け持てるかも、支部で確かめているところじゃ」


 通信の向こうで、原田が各担当へ状態を尋ねていた。


 防衛を続けられるか。


 救助へ回れる者はいるか。


 帰還用の陣を維持する者は、どこまで動けるか。



 自分たちが離れたあとも、現地では役目が変わり続けている。


 玄斎が机の端へ新しい紙を置いた。


「二人に、もう一つ聞く。現地で、図面と違っていたところはあったか?」


 琥珀が正門の外を指した。


「台は、ここへ移した。機体の道を空けるために」


「資材も車側へ寄せました。人が通る場所と、陣の周りは分けています」


 藍子も、覚えている位置へ指を置いた。


 玄斎が書き加え、連絡を担当する奉術衆へ渡す。


「現地へ確認してから、支部へ伝えよ」


「承知しました」


 その間にも、駆動室から声が届いた。


『室内の二名、無事です。救助の指示を待っています』


 小さく息を吐いた。


 藍子は図面の西角へ指を置いた。


 瀬川を背負った二人が通った道を、正門までたどる。


 あの角から、あと二人が戻ってくる。


 窓の印へ指を戻した。




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