第三十三話 退くために守る
第四節怖さを抱えたまま、護る
第三十三話 退くために守る
鉄の扉が、内側から膨らんだ。
「下がれ!」
原田の声に、扉へ護符を貼っていた術者が飛び退く。
直後、蝶番が弾けた。
倒れた扉がコンクリートを削り、その上へ黒い塊が這い出してくる。
背には曲がった金属片が突き出し、腹の下では何本もの細い脚が動いていた。
原田は横へ踏み込み、先頭の脚を刀で払った。
硬い手応えが腕へ返る。
脚は切れなかった。それでも、塊の身体が傾き、開いた扉の枠へぶつかった。
「今のうちに通せ!」
背後で、作業服の男たちが動き始めた。
一月下旬。山裾にある旧取水施設には、昼過ぎから原田率いる陰陽連盟の小隊が入っていた。
点検中の設備から、異常な妖気が確認されたためだった。作業は中止させ、施設内にいた者を集めている途中で、保管庫の器物が動き出した。
最初の一体は祓えた。
だが、奥にはまだ反応がある。
「手すりを持ってください。階段を下りたら、左です!」
出口側にいた術者が、作業員を誘導する。
四人が順に踊り場へ入った。最後の男は振り返り、原田の向こうにある廊下を見た。
「二人、まだ上にいます。水門の駆動室です」
「連絡は取れるか?」
「さっきは取れました。西の階段へ向かうように言ってあります」
男が廊下へ戻ろうとした。
「俺が呼んできます。場所は分かりますから」
「名前を教えてくれ。こちらから迎えに行く」
二人の名を聞き、原田は小隊の一人へ目を向けた。
「西階段から駆動室へ上がれ。二人と合流したら、ここへ戻さず、そのまま外へ出せ」
「了解!」
術者が階段を駆け下り、反対側の通路へ消えた。
原田は作業員へ顔を戻す。
「外へ出たら、二人がまだ上にいると伝えてくれ。迎えが向かったことも」
男は廊下を一度見てから、頷いた。
残る二人のうち、一人は作業員の避難を続けている。もう一人が、原田の横で護符を構えた。
怪異が身体を起こす。
潰れた缶を引き延ばすような音がした。
細い脚が二本、床へ食い込む。背の金属片が持ち上がり、その先が階段へ向いた。
「脚を浮かせろ!」
横の術者が護符を投げた。
床に触れた札から光が走り、怪異の脚へ巻きつく。塊が引かれ、片側が持ち上がった。
原田はその下へ刀を差し入れた。
腹を覆う黒い膜が裂ける。
奥に見えた小さな霊核へ刃を届かせると、金属片がばらばらに落ちた。まとわりついていた妖気が薄れ、床には錆びた工具と折れた棚の部材が残る。
階段へ転がりかけていた一本を、靴底で踏み止めた。
「二体目、祓った。避難は?」
「四人とも下りました。正門側へ向かっています」
「外の搬送担当へ引き継げ。戻ったら、階段に結界を張る」
通信具へ手を当てた。
「西側、状況を」
『二人と合流しました。一人が足を捻っています。肩を貸して下ろします』
「階段は使えるか?」
『踊り場に亀裂があります。通れる幅を確かめます』
床に散った金属片が、かすかに震えた。
隣の術者が刀を向ける。
「まだ残っていますか?」
「核は祓った。触るな」
廊下の奥から、重いものを引きずる音がした。
一つではない。
原田は護符を二枚、通路の両側へ貼った。横の術者が霊力を送り、薄い光の壁を張る。
「管轄支部へ。二体を祓いましたが、奥に少なくとも三体分の反応があります。妖気が上がっています。神機の出動準備をお願いします」
『了解。受入陣を置ける場所はありますか?』
「正門の外に、広い空き地があります。確認する者を――」
言い終える前に、床が鳴った。
散っていた金属片が、廊下の奥へ滑り始める。
壁際の棚も揺れていた。工具が落ち、床を擦りながら同じ方へ引かれていく。
曲がり角の向こうに、黒い脚が見えた。
その後ろから、別の怪異が近づいている。
先頭の個体が振り向く。
後ろにいたものの輪郭が崩れ、黒い流れとなって、その身体へ入り始めた。
「融合だ。距離を取れ!」
術者とともに、光の壁の後ろへ退いた。
黒い流れの中へ、工具と金属片が巻き込まれていく。さらに奥にあった三つ目の反応も、こちらへ近づき始めた。
『原田さん、西階段は使えません!』
通信から声が届いた。
『踊り場が崩れました。二人とも、まだ上です』
「そちらは?」
『駆動室の前にいます。二人とも転落はしていません』
「中央側へ抜けられるか?」
『連絡通路は、そちらの保管庫前へ出ます。ほかに下りられる道は見当たりません』
その通路を塞ぐように、黒い塊が膨らんでいた。
「駆動室へ戻れ。扉は閉められるか?」
『閉められます』
「二人を中へ。お前も一緒に入れ。窓から外へ出られそうか確かめてくれ。無理に下りるなよ」
『了解!』
光の壁が押された。
まだ怪異は触れていない。
膨れ上がる妖気だけで、護符の端が焦げ始めていた。
階段を下りていた術者が戻ってきた。
「四人は外へ出ました。正門側で保護しています」
「なら、ここを離れる。入口まで下がって結界を張る」
「上の二人は?」
「西側の者がついている。中央の通路はもう使えん。外から迎えに行く道を探す」
黒い塊が、曲がり角から現れた。
背を覆う金属が天井へ擦れ、照明が一つ落ちる。
原田は階段へ足を掛けた。
踊り場の先から、外の光が差している。
「正門の外を、受入陣に使えるようにしておく。怪異を建物から出すな」
二人が先に下りる。
原田は最後に護符を一枚、手すりの柱へ貼った。
背後で、光の壁が弾けた。
『駆動室へ入りました。扉を閉めます』
「窓は?」
『開きます。ただ、下は水路です。この高さでは、そのまま下りられません』
階段を下りきると、外壁の先から水の流れる音が聞こえた。
搬入広場の端で、作業員の一人が建物を見上げていた。
原田に気づき、駆け寄ろうとする。
「二人は?」
「駆動室にいる。迎えに行った者も一緒だ」
「西の階段は、使えませんか」
「崩れた。外から窓へ近づく道を教えてくれ」
男は建物の左手を指した。
「あの角を回ると、水路沿いの点検通路へ下りられます。ただ、駆動室の窓は高いです。
梯子があっても、届くかどうか……」
背後で、ガラスが割れた。
南向きの入口を守っていた二人が、同時に護符へ手を当てる。
「四人を車へ。広場から離してくれ」
搬送担当が作業員たちを呼んだ。
目の前の男だけが、動かなかった。
「点検通路の入口までなら、案内できます」
「ここから教えてくれ。その先はこちらで確かめる」
男は手袋を外し、胸のポケットから図面を取り出した。
広げようとした指が滑る。
原田は片側を受け取り、風にめくれないよう押さえた。
「ここです。建物の南西側に、下りる階段があります。通路は西の壁沿いに、窓の下まで続いています」
「今日、通ったか?」
「朝は通れました」
原田は入口の二人へ顔を向けた。
「角から西側を確かめる。結界が押されるようなら、すぐ呼べ」
「了解」
図面を借り、建物の角へ向かった。
男は搬送担当に促され、車へ歩き始める。途中で一度振り返ったが、今度は戻ってこなかった。
角の先には、錆びた柵に囲まれた階段があった。
その下を、細い点検通路が水路に沿って延びている。
コンクリートの縁には白い霜が残り、すぐ横を濁った水が流れていた。
「駆動室、窓からこちらが見えるか?」
『見えます。今、階段の前にいますか?』
「ああ。窓を少し開けてくれ」
西側の壁で、窓が動いた。
隙間から術者の顔がのぞく。
通路からは、一階分以上の高さがある。足を捻った作業員を抱えたまま下りるのは難しい。
「室内の二人は?」
『一人は座らせています。もう一人は動けます。出血はありません』
「扉の向こうは?」
『音はしますが、今のところ、こちらへ来る気配はありません』
窓から出た手が外壁を指した。
『縄を下ろせます。下で受けてもらえれば、順に下ろせると思います』
原田は通路を見た。
人がすれ違うには狭い。下ろした者を支え、階段まで運ぶには、もう一人必要だった。
入口の二人は抜けさせられない。搬送担当も、避難した四人を広場の外へ移している。
「縄を固定できる場所を確かめてくれ。下ろすのは待て」
『了解』
建物の中で大きな音がした。
外壁が震え、足元へ細かな砂が落ちる。
『室内は無事です!』
「窓から離れろ」
原田も階段から下がった。
窓より南側にある換気口の格子が、外へ押し出されていた。
その隙間から、黒いものが伸びる。
先には、工具箱の取っ手と、折れた棚の支柱が絡みついていた。
金属が壁を引っかき、格子ごと水路へ落ちた。
続いて、黒い脚が通路の縁へ突き立つ。
コンクリートに亀裂が走った。
原田は角の手前へ退き、入口の二人を呼んだ。
「西の壁から脚が出ている。そちらは?」
「階段の下まで来ています。扉につかえていましたが、枠を壊し始めました!」
入口の奥を、黒い巨体が塞いでいた。
中央の胴へ、三つの塊が押し合うように重なっている。細い脚は束になり、床と壁へ食い込んでいた。
その一本が西の壁を貫き、点検通路へ伸びている。
「三つの反応が、一つに重なりました」
術者が息を継いで伝えた。
広場には、もう作業員の姿がなかった。
搬送担当へ通信をつなぐ。
「四人は?」
『全員、正門の外の待機地点へ移しました』
「西の点検通路へは近づかせないでくれ。怪異の脚が出ている」
『了解』
入口の枠が、鈍い音を立てて曲がった。
原田は二人の間へ戻り、管轄支部へ呼びかけた。
「残る三体の融合を確認。施設内に、作業員二名と小隊員一名が残っています。
西側の窓から下ろす準備をしていますが、その下の通路に怪異の脚が出ました」
『救助班と、神機陣の構築班二名を向かわせています。正門までの進入路は使えますか?』
「使えます。受入陣は正門の外で設置場所を確認してください。
搬入広場まで入ると、怪異に近すぎます」
『了解。救助班には窓の高さと、通路の状態を伝えてください』
見てきた高さと幅を伝え、駆動室の術者を呼んだ。
「救助班が向かっている。縄を固定できたら知らせてくれ」
『縄なら、梁へ掛けられます』
作業員の声が聞こえた。
『ここは、まだしっかりしています。工具もあります。何をすればいいですか』
「縄を擦るところに、布を当ててくれ」
『分かりました』
返事のあと、何かを運ぶ音が届いた。
床へ食い込んでいた怪異の脚が、一本ずつ引き抜かれる。
入口の枠が裂け、黒い胴の先が外へ出てきた。
「階段の札は捨てる。入口の結界で止めるぞ」
二人が頷く。
原田も護符へ手を当てた。
西側で、大きく水が跳ねる。
搬送担当から連絡が入った。
『救助班が正門へ着きました。西側へ回しますか?』
「まず、こちらから見える角まで。通路へ下りる前に、現地を確かめてもらう」
『了解』
正門から走ってきた二人へ、原田は建物の角を示した。
一人が腰へ縄をつけ、もう一人が、その端を柵の柱へ回す。
引いて緩まないことを確かめてから、階段の下をのぞいた。
「窓は、あれですね」
「作業員二人と、こちらの術者が一人いる。足を捻った者が一人。室内では縄を固定している」
救助班の一人が階段を下りた。
もう一人は上に残り、縄を送り出す。
窓へ向かう途中で、束になった金属が通路の縁へ食い込んでいた。
「窓まで届くか?」
「脚の手前までなら。下ろす場所を見ます」
護符を構え、通路を進む。
怪異の脚が動いた。
救助班の術者は足を止め、壁へ身を寄せる。
通路の縁から、割れたコンクリートが水へ落ちた。
「戻れ!」
階段の上にいた者が縄を引く。
下へ入った術者もすぐに後退した。階段へ片足を掛けたところで、脚がもう一度、通路を押した。
窓の下まで続いていた縁に、長い亀裂が走る。
原田は刀へ手を伸ばしかけた。
その前で、入口の結界が大きくたわんだ。
黒い胴が、光の壁へ押しつけられている。
「原田さん、こちらを!」
刀から手を離し、護符へ霊力を戻した。
光の揺れが弱まる。
救助班の二人は、階段の上まで戻っていた。
「けがは?」
「ありません。ただ、あの通路では下ろした人を支えられません。窓の下も割れています」
原田は駆動室へ呼びかけた。
「下ろす場所を変える。今の縄は、そのまま残しておいてくれ」
『了解』
救助班の一人が図面を広げた。
西壁に沿う細い線へ指を置き、その先をたどる。
「点検通路の下流側に、広い場所があります。ここへ下ろせる窓は?」
室内を歩く音がした。
『同じ壁の、もう少し下流側にも窓があります』
救助班の術者が角から身を出し、外壁を見上げた。
二つ目の窓が、わずかに開く。
その下には、水門を点検するための張り出しがあった。
階段からは近いが、そこへ行くにも怪異の脚の脇を通らなければならない。
「こちらの窓なら、受ける場所はあります」
術者が言った。
「ただ、あの脚を動かさせない間に、二人とも下ろして運ぶ必要があります。
上の術者も、そのあとに」
原田は入口の奥を見た。
怪異の胴は、まだ建物につかえている。
それでも脚は壁を貫き、こちらの守っていない場所へ届いていた。
「一本だけ止めても、別の脚が出るかもしれん。壁から離させたい」
入口を支える術者が息を継いだ。
「胴をこちらへ引き出しますか?」
「今は出さない。広場へ出れば、水路側へ回られる」
正門から救助に近づけるのは、建物の角を回る道だった。
怪異がそこを塞げば、窓から下りても逃げられない。
原田は管轄支部へ、窓の変更と救助路の状態を伝えた。
『受入陣の設置場所は確認できました。正門の外で浄化を始めます』
「救助班が使う道と分けてください。搬送する者が通れる幅を残してほしい」
『了解』
結界の向こうで、怪異の脚が床を打った。
原田は護符へ添えた手に力を込めた。
◇
四季狐大社の社務所へ入ると、藍子は机に広げられた図面へ目を留めた。
川に沿う細長い建物。その西側に、二つの窓が記されている。
玄斎が二人へ顔を向けた。
「旧取水施設で、作業員二人が取り残されておる。
陰陽連盟の術者が一人、そばについているが、階段を失って下りられん」
藍子は鞄を下ろし、図面へ近づいた。
最初の窓の下には、通行不可と記されている。下流寄りの窓から引いた線の先には、救助準備中とあった。
「現地から、札と資材の補充、それに連絡の補助を頼まれた」
玄斎は正門の外を指した。
「二人には、ここで手伝ってもらいたい。琥珀は報告の整理、藍子は資材の受け渡しじゃ。行けるか?」
「ん」
「はい」
奉術衆が図面の脇へ、作業員一名は足を負傷、と書き添えた。
藍子は窓から階段へ続く線をたどった。
「足を痛めた人も、この階段を上るんですか?」
「その予定です」
「肩を貸して上れそうですか。それとも、運ぶものが要りますか?」
奉術衆が現地へ問いをつないだ。
『階段は狭いです。下で担架に寝かせるより、救助用の背負い具で運びたい。
こちらにもありますが、下で身体を支える者が使えるよう、予備を一つお願いします』
「正門の支援地点へ届けます」
『お願いします。そこから先は、こちらで受け取ります』
準備を頼まれた者が、出入口へ向かった。
琥珀は図面の控えを手元へ寄せた。
「三人とも、同じ窓から下りる?」
『その予定です。ただ、怪異の脚を押さえるまでは開始できません』
琥珀は時刻を書き、救助準備中の文字の下へ、下ろす指示は未発令、と添えた。
「現地に着いたら、この続きを聞く」
「うむ。変更があれば、担当者を通して救助側と陣の担当へ伝えるのじゃ」
玄斎は、二人を乗せていく奉術衆へ顔を向けた。
「到着先と担当は、支部へ伝えたな?」
「はい。正門の外で、支援地点の責任者へ引き継ぎます。資材を下ろす場所も確保されています」
琥珀が、その場所へ印をつけた。
「ここまでの道は、今も通れる?」
現地へ確認すると、正門までは通行できると返事が届いた。
ただし、到着前に呼びかけ、出てくる車と重ならないようにする必要があった。
背負い具と札の箱が運ばれてくる。
藍子は奉術衆と車へ積み、琥珀の隣へ乗り込んだ。
図面の二つ目の窓へ目が向く。
三人とも、まだ上にいる。
足元の箱が動かないよう押さえると、車が境内の車道へ出た。
◇
大社を出て十二分後、正門の手前で車が止まった。
道の端に立つ術者が、運転席へ手を上げる。
先に出てきた車が通り過ぎてから、藍子たちの車を道路脇の空き地へ誘導した。
窓越しに、旧取水施設が見えた。
建物の入口には光の壁が張られている。その奥を塞ぐ黒いものは、扉よりも大きかった。
西側から、金属を引きずる音がする。
「資材は、支援担当が指示する場所へ運んでください」
同行した奉術衆が先に車を出る。
藍子も箱を持って下りた。
風に混じって、焦げたような臭いが届いた。
空き地の一角では、二人の術者が杭を打ち込んでいる。
その周りには縄が張られ、建物へ向かう者は縄の外側を通っていた。
「札はこちらへ」
支援地点を受け持つ術者が、車のそばの台を示した。
男は箱の中を確かめ、入口用と救助路用の札を取り出す。残りの束は予備として、箱へ残した。
背負い具と救助路用の札を受け取った運搬役が、正門へ向かう。
門の先で救助班へ渡すと、すぐに引き返してきた。
琥珀は図面を台へ置いた。
「今の状況を教えて」
「室内の縄は、二つ目の窓へ移しています。怪異の脚は通路へ出たままです。
救助班の報告は、こちらで聞けます」
男が通信具を置くと、物資を受け取ったという声が届いた。
続いて、室内へ窓を閉めて待つよう指示が出る。
藍子は建物の西側を見た。
ここからでは、二つ目の窓は見えない。
届いた背負い具を誰が持っているのかも、もう分からなかった。
その時、入口で大きな音がした。
光の壁が、広場側へ膨らむ。
黒い胴が、扉の枠を押し倒していた。
『入口の枠が外れた。正門側の者は、西への通路を空けろ。こちらは建物から離れる』
原田の声に、支援担当が運搬役を呼び戻した。
「入口から下がる?」
琥珀が尋ねる。
「はい。新しい位置を聞きます」
『西角と広場の南東を結ぶ位置に、結界を張り直す。怪異をその東側で止める。
救助班は西側の角から出るな』
琥珀は入口の印を消し、西角と広場の南東側を線で結んだ。
その西側には、正門から救助班へ向かう道が残っている。
三人のうち一人が先に下がり、広場の南東側へ札を打った。残る二人は入口の光を保っている。
札を置いた者が入口の結界へ霊力を送り、交代した一人が西角へ回る。
壁に札を貼ると、南東側へ向けて光が伸びた。
原田が腕を上げた。
入口の光が消える。
黒い巨体が、倒れた枠を踏み越えた。
西の壁から伸びていた脚も引き抜かれ、格子が水路へ落ちる。
『脚が離れました! 下へ入れそうです。原田さん、今から――』
『待て。まだそちらを向いている』
怪異の胴が、西へ傾いた。
束になった脚の先が、建物の角を探るように動く。
原田たちが霊力を送ると、斜めの光が強まった。
脚が光へ触れ、重い音を立てる。
怪異は身体を引いたが、西へ向けた脚は下ろさなかった。
『入口用の予備札を、新しい結界へ回してください。南東側で受け取ります』
支援担当が台へ手を伸ばした。
「入口の分をください」
「これですね」
藍子が渡した束を、男が運搬役へ持たせる。
運搬役は結界の西側を通り、広場の南東へ向かった。
その先で、怪異が脚を持ち上げる。
『そこで待て!』
原田の声が響いた。
脚が振り下ろされる。
三人が支える光の壁に、ひびのような筋が走った。
藍子は台の縁へ手を置いた。
光が戻るまで、運搬役は動かなかった。
やがて原田が予備札を受け取り、西角へ向けて手を上げた。
壁に貼った札へ新しい一枚が重ねられ、光の筋が太くなる。
運搬役が戻り始めた、その向こうで、怪異の脚が地面へ突き立った。
一本、もう一本。
先端の金属が、広場へ食い込んでいく。
身体を支える脚とは別に、背の突起が持ち上がった。
『伏せろ!』
藍子は台の下へ身を低くした。琥珀も図面を抱え、隣にしゃがむ。
金属を叩くような音がした。
斜めの光の壁が白く濁り、その表面を黒い波が広がっていく。
怪異は脚を振り下ろしていない。
地面へ踏ん張ったまま、背の突起を結界へ向けていた。
「今のは……」
「妖気を叩きつけています。二人とも、そこで待ってください」
支援担当が原田へ呼びかけた。
「支援地点までの道は使えますか?」
『今は使える。補充を運ぶ者は、次の攻撃が終わるまで待たせてくれ』
「了解」
琥珀は図面へ目を落とした。
道は残っている。
けれど、通れるという報告だけでは、人を送り出せなかった。
黒い波が薄れ、西角の術者から合図が出る。
運搬役がこちらへ戻ったのを確かめてから、藍子も立ち上がった。
『体表が硬くなっています。金属の間を、黒い殻が覆い始めました』
術者の報告が、管轄支部へ伝えられる。
藍子は結界の向こうを見た。
三つの塊が重なっていた胴の隙間に、黒いものが広がっている。動くたびにずれていた金属片が、同じ向きに固定され始めていた。
報告書では、妖殻化の進行と記されていた。
今は、一枚ずつ動かなくなっていく金属が見える。
あの下に、まだ三体分の霊核があるのかもしれない。
『室内の床に震えが伝わっています』
駆動室の術者から声が届いた。
『足を痛めた方は、座ったままです。もう一人は、窓へ近づかないようにしてくれています』
藍子は支援担当へ顔を向けた。
「室内へ、水や毛布は届けられますか?」
男が救助班へ確かめる。
『物資を上げる準備はできます。ただ、窓の下へ入る間だけでも、攻撃を止めてもらう必要があります』
「先に用意しておきます」
男は藍子へ、水と毛布を別の袋へ入れるよう頼んだ。
同行した奉術衆と車の物資を取り出し、袋の口を結ぶ。
持ち上げて緩まないことを確かめ、台へ運んだ。
原田の声が届く。
『救助側、一度で何人も動かすな。下へ入る者と、階段で待つ者を分けてくれ。こちらから合図する』
『了解。まず一人で入れるよう準備します』
琥珀はその指示を書き、支援担当へ確かめてもらった。
男が救助班の通行予定を陣の担当者へ伝えていると、杭のそばで作業していた術者が立ち上がった。
「霊力経路を結びました。支部へ確認をお願いします」
もう一人は杭のそばに残り、光の流れを整えていた。
管轄支部から返事が届く。
『現地陣を確認しました。これより母陣との接続を開始します。
《朧》は出撃準備を終えています。接続完了まで十五分を見込んでいます』
琥珀が時計を見た。
到着見込みを書き、支援担当へ示す。
男が原田へ伝えた直後、怪異の身体が持ち上がった。
地面へ食い込んでいた脚が抜ける。
次の攻撃が来る。
そう思った藍子の前で、巨体は結界から離れ始めた。
東へ向きを変えている。
『東側、位置を知らせてくれ!』
原田が、敷地の周囲を監視する者へ呼びかけた。
『柵の内側へ向かっています。その先は、下流へ続く管理道です。
こちらは二人とも、敷地の外にいます』
藍子は図面の右側を見た。
建物の裏手から、水路に沿って下る道が描かれている。
怪異がそちらへ出れば、正門の前にいる原田たちから離れてしまう。
『管理道の入口へ結界を張れ。今なら、怪異が柵へ着く前に置けるな?』
『間に合います。ただ、二人では長く止められません』
『分かっている。祓おうとするな。結界の外へ下がり、押されるようなら道を下って距離を取れ。
下流側に人がいないかも確かめてくれ』
『了解』
支援担当が管轄支部へ増援を求めた。
『近くの巡回班を向かわせます。管理道から一般道へ出る地点は、警察へ封鎖を依頼します』
男が原田へ伝える。
『こちらの三人は、救助路を守る。東へ追えば、帰ってくる者の道が空く』
怪異が離れても、結界の光は消えなかった。
琥珀は東側へ、監視役の二人と、増援が向かっていることを書き足した。
救助班から声が入る。
『こちらからは離れています。窓の下へ入る準備をします』
『合図を待て。向きが戻れば、すぐに退いてもらう』
支援担当が水の袋を運搬役へ渡した。
藍子は台に残した毛布へ手を添えた。
『管理道の入口に、結界を張りました。二人とも外へ下がっています』
東側から報告が届く。
『道には誰もいません。怪異は、まだ柵の内側です』
原田はその位置を確かめてから、救助班へ呼びかけた。
『一人、下へ。窓まで行く前に足場を確かめろ』
『了解』
運搬役が水の袋を持ち、正門へ走り出す。
駆動室から、声が届いた。
『外の音が遠くなりました。今なら下りられますか』
『まず、こちらが入ります。お二人は、そのまま待っていてください』
建物の角で、救助班の術者の一人が身をかがめる。もう一人が縄を持ち、階段の上に残った。
その姿が見えなくなると、通信具から声が届いた。
『通路へ下りました。これから窓の下へ進みます』




