第三十二話 琥珀が選ぶこと
第三十二話 琥珀が選ぶこと
倉庫跡の報告書を読んだ翌日、藍子と琥珀は四季狐大社の稽古場にいた。
木偶は端へ寄せられ、中央には白い線が引かれている。その先に置かれた藁人形は一体だけだった。
「今日は、木偶を止めなくていいんですか?」
「うむ。まずは、途中で退く判断を確かめる」
玄斎は白い線の脇へ三枚の札を並べた。
「人形を抱え、この線まで戻れ。札は三十秒ごとに一枚ずつ消える。三枚とも消えれば、帰り道を失ったものとする」
藍子は人形までの距離を見た。
走れば、すぐに届きそうだった。
「抱えて戻る時間も、先に確かめていいですか?」
「無論じゃ」
人形へ歩み寄り、両腕で抱え上げる。
前の訓練で運んだものと同じ重さだった。足元が見えるように少し横へずらすと、片腕へ重さが偏る。
白い線まで戻り、人形を下ろした。
「戻る方が遅い」
線の外にいた琥珀が言った。
「うん。走って行く時間だけじゃ、決められないね」
藍子は三枚の札へ目を向けた。
人形へ添えた手を離そうとして、巻かれた布に指が引っかかった。ほどいてからも、すぐには立ち上がれなかった。
「途中で置いてくることになっても、戻ります」
言い終えてから手を離し、立ち上がった。
玄斎が頷き、人形を元の位置へ戻す。
「玄爺。藍子が札を見てなかったら、言っていい?」
「構わん。見えたことを伝えよ。藍子も、それを待たずに判断するのじゃ」
「はい」
人形へ向き直った時、社務所の方から奉術衆が駆けてきた。
「玄斎様。西の山側から、搬送支援の依頼です」
札へ伸びていた玄斎の手が止まる。
「状況は?」
「旧管理道で三体を確認し、二体は祓いました。残る一体への対処が長引き、班の四名は分岐まで後退中です。二名が霊力を消耗しており、一名は担架が必要です」
「負傷は?」
「ありません。別班の二名が、すでに麓へ向かっています」
奉術衆が地図を広げた。
旧管理道から下る道の先に、小さな駐車場がある。報告に来た者が、そこを指した。
「ここを搬送地点にします。結界は設置済みで、退路にも札を張っています。別班の二名は分岐まで迎えに上がるので、こちらから受け入れ役を一名出してほしいとのことです」
玄斎は近くにいた男を呼んだ。
「車を出せ。麓での受け入れと搬送を頼む」
「承知しました」
「もう一人は?」
琥珀が地図へ近づいた。
「消耗した、もう一人」
「肩を貸せば歩けるそうです」
琥珀は駐車場から分岐までの道を目で追った。
「担架に二人。歩く人にも一人つく」
「ええ。残る者は、後ろを警戒しながら下りてきます」
「麓に着いても、すぐ手を空けられない」
玄斎へ顔を向けた。
「私も行く。戻った人数を確かめる。札や毛布を渡すのもできる」
藍子は隣を見た。
琥珀の指は、怪異のいる場所ではなく、道の下にある駐車場を押さえていた。
「私も手伝います。担架や毛布を用意して、戻った人を車へ案内します」
玄斎は搬送を任された男へ尋ねる。
「麓の様子は?」
「先ほど確認した時点では、搬送地点の周囲に怪異の反応はありません。二人とも、私のそばで補助をしてもらうことはできます」
「では預ける。状況が変われば、作業の途中でも車へ戻せ」
「はい」
玄斎が二人を見る。
「担当者の指示に従え。任された範囲を越えて動くでないぞ」
「分かりました」
「ん」
男が車の準備へ向かう。
琥珀もあとを追いかけ、途中で足を止めた。
「玄爺。記録する紙も持っていく」
「社務所にある。現地で確かめた時刻も書くのじゃ」
藍子は薙刀を片づけ、三枚の札へ目を戻した。
まだ一枚も消えていない。
「これは、戻ってからでもいいですか?」
「うむ」
琥珀が社務所の入口から振り返った。
「藍子、毛布」
「今行く」
白い線を越え、あとを追った。
◇
車を降りると、藍子の靴底で薄い氷が割れた。
搬送地点の駐車場には、現地班が乗ってきた車も停まっている。山へ続く道の入口には術式杭が打たれ、その間に淡い光が張られていた。
迎えに上がる二人は、まだ入口にいた。
「分岐までは、左側の道を使ってください。右の斜面は妖気が残っています」
藍子たちを連れてきた男が、通信で得た情報を伝える。
「了解した。合流したら知らせる」
二人は護符を確かめ、木立の中へ入っていった。
足音が遠ざかると、男が振り返った。
「私は搬送を受け持つ三谷です。二人とも、まず担架と毛布をこちらへ」
車の後部を開け、現地班の車へ目を向ける。
「横になる者は、現地班の車へ運びます。歩ける者は、私たちの車へ。道の入口を空けておいてください」
「はい」
藍子は折り畳まれた担架を取り出した。琥珀が反対側を持ち、二人で現地班の車の横へ運ぶ。
広げて地面へ置くと、片方の脚が沈んだ。
「ここ、柔らかい」
琥珀が足元を指した。
藍子は担架を持ち直し、氷のない舗装の上へずらす。三谷に位置を確かめてもらってから、毛布を取りに戻った。
琥珀は車のそばへ紙を置き、地図を広げた。
「三谷さん。今の二人が、分岐に着くのは?」
「五分ほどです。ただ、道が凍っていれば遅れます」
「元の四人は、まだ分岐?」
「最後の連絡では、そうでした」
琥珀の筆が止まる。
「いつ?」
三谷は通信の記録を確かめた。
「六分前です。今の位置を聞きましょう」
通信具を取り出し、現地班へ呼びかける。
『分岐から少し下りました。四名とも一緒です』
「残る怪異は?」
『分岐の上です。結界へ近づいていますが、まだ抜けていません』
「迎えの二名が上がっています。こちらは搬送の準備中です」
琥珀は時刻を書き、四人を示す印を分岐の下へ置いた。
藍子が毛布を抱えて戻ると、その地図へ目を落とした。
山の上には、怪異を示す印が一つ残っている。
「ここまで下りてくる道は、一本?」
「ん。途中に脇道はあるけど、車まではつながってない」
琥珀が指で道をなぞる。
藍子は入口を見た。
木々に遮られ、曲がった先は見えない。迎えに上がった二人の姿も、もうなかった。
毛布を二枚広げ、一枚を担架のそばへ置く。もう一枚は、すぐ渡せるよう腕に掛けた。
三谷は車から予備の札を取り出し、入口の杭を確かめに行った。
琥珀も紙を持って近づく。
杭へ貼られた札は、端がわずかに震えていた。
山から冷たい風が吹き下りてきた。藍子は毛布の端を押さえる。
風が弱まると、ほかの札は静かになった。
右側の一枚だけが、まだ細かく震えている。
三谷がその前で足を止めた。
「二人とも、道の右側へ寄らないでください」
琥珀が地図へ印をつける。
ほどなく、通信具から声が届いた。
『先行班と合流。四名とも確認しました。担架へ移してから下ります』
三谷が応答する。
「こちらは準備できています。歩ける者も急がせず、足元を確かめてください」
『了解』
返事のあとに、短い声が続いた。
『持ち上げます。せーの』
誰かが息を詰め、別の誰かが謝った。
『いいから、つかまっていてください』
藍子は腕に掛けた毛布を握り直した。
琥珀が時計を見て、用紙へ書き込む。
迎えの二人と、現地の四人。
六人を示す印が、同じ場所へ集まった。
『搬送開始。最後尾の一人が、通過した結界を閉じ直します』
通信具から足音が聞こえ始める。
数歩進んでは止まり、また動く。足元を注意する声が、そのたびに混じった。
「分岐から、ここまで何分?」
琥珀が尋ねた。
「普段なら五分ほどです。今日は担架もありますから、それよりかかるでしょう」
琥珀は五分後の時刻を書きかけ、筆を止めた。
代わりに、搬送を始めた時刻だけを残す。
藍子は入口へ一歩近づいた。
まだ、誰も見えない。
足元から続く道を見たあと、車の横へ戻った。
その時、通信具から切迫した声が届いた。
『分岐の札が一枚、裂けました。怪異が下りてきます』
三谷が入口の杭へ向き直る。
「最後尾の一人は、どこですか?」
『分岐の下です。結界を張り直しますか?』
「張り直さず、そのまま下りてください。麓の結界で受けます」
『了解。後退します』
返答と重なるように、右側の札が強く引かれた。
光の壁へ、細い波紋が走る。
琥珀は用紙へ時刻を書き足した。
六人の印は、まだ道の途中にあった。
それから数分、藍子は毛布を抱えたまま、通信から届く足音と、まだ誰も見えない曲がり角に耳と目を向けていた。
最初に見えたのは、担架の前側を持つ奉術衆だった。
曲がり角を抜けると、足を止めて後ろへ声をかける。
「ここから少し下ります。ゆっくりで」
横になった男と、担架の後ろ側を持つ者が続いた。その後ろでは、もう一人が同行者の肩へ腕を回している。
持ち上げた靴の先が、地面を擦った。
藍子は毛布を抱え、車の横から声をかけた。
「担架はこちらへお願いします」
三谷が道を空け、担架を持つ二人を現地班の車へ案内する。
担架を下ろした者の片手が、柄から離れなかった。指を一本ずつ開いてから、ようやく腕を下げる。
藍子は横になった男へ毛布を掛けた。
「寒くないですか?」
「……大丈夫です」
目は開いていたが、声はかすれていた。
肩を支えられて下りてきた者も、もう一台の車の前で足を止める。座席へ移ろうとしたところで、膝が折れた。
藍子は反対側から腕を取った。
「こちらへ。ゆっくりで大丈夫です」
同行者と二人で身体を起こし、座席へ座らせる。
琥珀の筆が、用紙の五人分の印で止まった。
「最後の一人は?」
入口の札へ手を当てていた三谷が、通信具へ呼びかける。
「今、どこですか?」
『下っています。怪異は道の右側へ逸れました』
「こちらの右側にも妖気が来ています。斜面から離れてください」
『了解』
返答と同時に、札が激しく鳴った。
右側の光が薄くなる。
三谷が二枚の札を取り出し、一枚を傷んだ札の隣へ貼った。もう一枚を重ね、指でその間をなぞる。
細い光が、杭から手元の札へ伸びた。
「琥珀さん、これへ霊力を流せますか。貼り替える間、結界を支えてもらいます」
「ん」
「杭より車側に立ってください。光は、この強さのままで」
琥珀は指定された位置へ移り、札を受け取った。
白い光が、指先から紙へ広がる。
「これくらい?」
「はい。そのまま保ってください。藍子さんは車のそばへ」
三谷は交換用の札をもう一枚取り出してから、杭の傷んだ札を外した。
光の壁が揺れ、琥珀の持つ紙が強く引かれる。反射的に握り込みかけた指を緩め、両手で支え直した。
三谷が新しい札を杭へ貼る。
薄くなった光が戻り始めた。
木立の奥から、駆ける足音が聞こえる。
最後の奉術衆が、曲がり角へ姿を現した。右側の斜面を振り返り、道の左端を下りてくる。
その背後で、枝が折れた。
藍子は車の前へ出かけ、足を止めた。
迎えに上がった者の一人が、既に入口へ向かっていた。
「こっちです。走らなくていい」
最後の一人が杭の間を抜ける。
琥珀はその顔を確かめ、三谷へ伝えた。
「六人目、入った」
「確認しました。霊力を止めてください」
指先の光を抑えると、紙の震えが収まった。
三谷が札を受け取り、杭とのつながりを解く。
「二人は車へ戻ってください。動ける方は、乗り込みを手伝ってもらえますか」
現地班の車では、担架を収めるために後部の扉が開いていた。
藍子は一度掛けた毛布を押さえ、持ち上げる邪魔にならないよう端を畳んだ。
最後に下りてきた者が、もう一台の車へ向かう。
扉の縁へ手を掛けたが、片足を上げたところで身体が傾いた。
藍子は腕を取った。
「大丈夫ですか?」
「すみません。脚に、力が……」
車へ乗りかけていた奉術衆が戻り、反対側から支える。
二人で身体を起こした時、入口の札が鋭い音を立てた。
「藍子、乗って」
琥珀が開いた扉の前から呼ぶ。
「この人が乗ってから」
「私が支えます。手を離して大丈夫です」
反対側にいた奉術衆が、男の腕を自分の肩へ回した。
藍子は手を離したが、その場に残った。
入口の光の向こうで、黒い影が木々の間を動いている。
「札の方も、まだ――」
「三谷さんが支えてる。六人とも戻った」
琥珀が入口へ目を向ける。
影は、先ほどより木立の下にあった。
「怪異が近い。藍子も車へ戻って」
三谷も、杭へ手を当てたまま声をかけた。
「二人は中へ。私もすぐに戻ります」
藍子は握っていた手を開いた。
「……はい。車へ戻ります」
扉をくぐり、座席へ腰を下ろす。
琥珀も隣へ乗り込んだ。
最後の奉術衆が支えられて座ると、扉が閉まった。もう一台でも、担架を収めた後部の扉が閉じられる。
三谷は残る札にも手をかざし、霊力を送った。
光の壁が揺れなくなる。
杭から手を離しても光が保たれているのを確かめ、運転席へ戻ってきた。
「出発します。向こうも全員、乗りましたね」
無線へ呼びかけると、確認の返事が届いた。
現地班の車が先に動き始める。
藍子たちの車もあとへ続いた。
窓の外で、入口の光が遠ざかる。
その向こうの木々が、大きく揺れた。
藍子は膝へ手を置いた。
誰かを支えていた時の形に、まだ指が曲がっている。
ゆっくり伸ばすと、隣で紙を動かす音がした。
琥珀が乗車した時刻を書き込んでいた。
「六人、車へ乗った」
「うん」
三谷が無線へ撤収を報告する。
琥珀は用紙を畳みかけ、持ち直した。
片手では、端が揃わなかった。
「手、疲れた?」
「少し」
藍子は紙の下へ手を添えた。
琥珀が重ねた用紙を、二人の間へ置く。
車は麓の道を進んでいた。
◇
大社へ戻ると、車の後部へ奉術衆が集まった。
担架が運び出され、歩ける者も肩を借りて社務所へ入っていく。最後に下りてきた男は、玄斎へ報告しようとしたところで、先に休むよう促された。
藍子は使った毛布を抱え、琥珀とともにあとへ続いた。
「ここへ置いてください」
奥の部屋にいた女性が、籠を指した。
毛布を入れると、琥珀も記録用紙を机へ置く。三谷が隣に立ち、現地での時刻を確かめた。
「こちらで引き継ぎます。二人も座って休んでいてください」
藍子は椅子を二つ引いた。
琥珀が腰を下ろすと、袖の中へ片手を引っ込める。
「まだ手、疲れてる?」
「もう平気」
「三谷さんに言った?」
琥珀は少し間を置き、机の方を見た。
「三谷さん」
「はい」
「札を持ってから、指に力が入りにくい」
三谷が手元の記録を置き、そばへ来た。
「痛みはありますか」
「ない」
「指をゆっくり開いてみてください」
琥珀が袖から手を出す。
指は動いたが、握ってから開くまでに少し時間がかかった。
「玄斎様にも伝えておきます。今日はもう、霊力を使う手伝いは休んでください」
「ん」
三谷が戻ると、藍子は隣へ顔を向けた。
「私には、無理しないでって言うのに」
「言った」
「聞かれてからでしょ」
琥珀は答えず、両手を膝へ置いた。
藍子もそれ以上は言わなかった。
社務所の奥から、温かい飲み物が運ばれてくる。二人の前にも湯飲みが置かれた。
琥珀は両手で包み、しばらく湯気を見ていた。
「藍子」
「なに?」
「車へ戻る時、嫌だった?」
藍子は湯飲みへ伸ばしかけた手を止めた。
「嫌だったわけじゃないよ。ただ、三谷さんがまだ残ってたから」
「ん」
「私たちだけ乗っていいのかなって思った。札も揺れてたし」
入口の光と、その前に立つ三谷の背中を思い返す。
何か一つ手伝ってからなら、離れられる気がしていた。
「でも、何をすれば助けになるのかは、分かってなかった」
「三谷さんは、戻ってって言った」
「うん。琥珀も」
湯飲みを持ち上げた。
「止めてくれて、ありがとう」
琥珀は口をつけずに、こちらを見た。
「戻ったのは藍子」
「呼ばれなかったら、まだ立ってたと思う」
「でも、戻った」
藍子は小さく頷いた。
玄斎が奥の部屋から出てきた。
「二人とも、よく手伝ってくれた。消耗した者たちは休ませておる。今のところ、負傷は見つかっておらん」
「山の怪異は?」
「別の班が向かっておる。三谷の報告を受け、下の道も押さえる手はずじゃ」
琥珀が机へ目を向ける。
「お主も、今日は指を休ませよ」
玄斎の言葉に頷き、椅子へ座り直した。
藍子は湯飲みを置き、隣へ顔を向ける。
「琥珀は、私が《徒桜》に乗った方がいいと思ってる?」
琥珀の手が止まった。
「どうして?」
「倉庫跡の時から、聞かないから。まだ決められないのかって」
短い沈黙があった。
社務所の奥で、誰かが報告書をめくった。
「乗ってほしいって言ったら、乗る?」
「……考えると思う」
答えてから、藍子は琥珀を見た。
琥珀も目を逸らさなかった。
「だから、言わない」
「私が、琥珀に言われたからって決めるかもしれないから?」
「ん」
琥珀は湯飲みを机へ置いた。
「藍子が何を怖がってるか、全部は分からない」
指が湯飲みの縁から離れる。
「私が大丈夫って言っても、なくならない」
「……うん」
「でも、危なくなったら退いてって言う。藍子から聞いたことと、こっちで分かることを確かめて」
「私が、まだできるって言っても?」
「言う」
返事は早かった。
藍子は膝へ目を落とし、それから顔を上げた。
「その時は、ちゃんと聞く。私からも、今どうなってるか伝える」
「無理な時も?」
「うん。無理な時も」
琥珀が頷いた。
「琥珀もね」
「ん」
「聞かれる前に」
琥珀は湯飲みへ手を伸ばしかけ、止めた。
「少し、こっちへ寄せて」
藍子は湯飲みを持ち、琥珀の手元へ置いた。
琥珀が両手で包み直す。
湯飲みが空になる頃、山側へ向かった班から連絡が入った。
『残る一体を祓いました。周辺を確認していますが、新たな怪異の反応はありません』
通信を受けていた奉術衆が、地図の印を一つ外した。
琥珀が顔を上げる。
「けが人は?」
奉術衆が現地へ確かめ、二人へ頷いた。
「出ていません。確認を終えたら、全員戻ります」
「ん」
琥珀は椅子の背へ身体を預けた。
藍子も息を吐く。
机の上では、あの道を下りてきた六人の名前の下に、次の班から届いた報告が書き足されていた。
三谷がそばへ来て、琥珀の手の動きを確かめる。
指は先ほどより滑らかに開いたが、握るとまだ力が入りにくいという。
「今日は休めて、明日も残っていたら稽古の前に知らせてください」
「ん」
玄斎も記録を置き、二人の方へ来た。
「今日はここまでじゃ。母御には、これから帰ると伝えてある」
「ありがとうございます」
藍子が立ち上がると、琥珀も椅子から腰を浮かせた。
机の湯飲みへ目を向ける。
「これ、お願い」
「うん」
二つの湯飲みを盆へ戻し、二人で社務所を出た。
◇
稽古場には、朝から残っていた雪が日陰に寄せられていた。
琥珀が白い線の前で足を止めた。
三枚の札は、出かける前と同じ場所に並んでいた。
その先には、一体の藁人形が残されている。
藍子は線のそばまで歩み寄った。
抱えて帰る時には、足元を見るために人形を少し横へずらした。片腕へ重さが偏り、思っていたほど速く歩けなかった。
「片づけは、こちらでやるぞ」
あとから来た玄斎が、札を拾い上げた。
「玄斎様。明日、もう一度お願いします」
「うむ。まずは運ぶ時間を確かめるところからじゃな」
「はい」
人形を運ぼうとする玄斎へ道を空ける。
藍子は白い線から離れ、待っていた琥珀の隣へ戻った。
玄斎へ挨拶をし、二人で稽古場を出る。
境内の向こうでは、戻ってくる車を迎えるため、社務所の明かりが点いていた。
◇
石段を下りる途中で、琥珀の鞄が肩からずれた。
掛け直そうとした手より先に、藍子が持ち手を取る。
「家まで持つよ」
「重い」
「私のも、同じくらいだから」
「二つになる」
「今日は私が持つ。明日、手が戻ったら自分で持って」
「ん」
鞄を受け取り、肩へ掛けた。
見た目より重い。
「教科書、全部入ってる?」
「置いてくるの忘れた」
「忘れ物をしないと思ったら、そういうことだったんだ」
「持ってれば忘れない」
藍子は返事の代わりに、鞄の位置を直した。
琥珀が半歩先へ出て、石段の端を指す。
「そこ、凍ってる」
「見えてるよ」
乾いたところへ足を置き、並んで下りる。
道の先には街灯が灯り、その下を買い物袋を提げた人が歩いていた。
琥珀から、出撃の答えを尋ねられることはなかった。
藍子も、その沈黙を埋めようとは思わなかった。
石段を下りきると、琥珀が足を止めた。
藍子は肩の鞄を掛け直し、その隣へ並ぶ。
二人で、家へ続く道を歩き出した。




