第三十一話 選べない理由
第三十一話 選べない理由
『六名全員、撤収地点へ到着しました。負傷者はいません』
倉庫跡からの報告に、社務所の空気がわずかに緩んだ。
『対象は資材置き場へ侵入。積まれていた資材と周囲の建物を破壊しています。現在、県道へ向かう動きはありません』
玄斎は通信を担当する奉術衆へ顔を向けた。
「連盟との連絡は、このまま続けよ。怪異が敷地を出る場合は、すぐに報告を受けられるようにしておくのじゃ」
「承知しました」
通信具から離れ、藍子と琥珀を見る。
「二人は帰れ。河川敷の《朧》は、まだ修理中じゃ。ここから先は時間がかかる」
「でも、怪異はまだ倉庫跡にいます」
「現地の者は全員、危険区域を離れた。住民の避難も終わっておる。討滅が確認でき次第、九條家へ連絡を入れる」
藍子は地図へ目を落とした。
六人の印は、倉庫跡の外へ移されている。資材置き場には、怪異を示す印が残っていた。
ここにいても、今の自分にできることはなかった。
「……分かりました」
琥珀も記録用紙を置き、藍子とともに社務所を出た。
◇
大社を出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
街灯の下へ入るたび、二人の影が足元から伸び、背後へ流れていく。
いつもなら、琥珀が数歩先を歩いている。
今夜は藍子の隣から離れなかった。
「寒い?」
「大丈夫」
「さっきから、歩くの遅い」
「ごめん」
「謝らなくていい」
琥珀は歩調を変えず、前を向いている。
藍子も黙って歩いた。
六人が無事に退いたことには安堵していた。それでも、倉庫跡には怪異が残っている。
正式な出撃要請を聞いた時、乗らないと決めたわけではなかった。
乗るとも言えなかった。
玄斎へ向けた「私、まだ……」の先が、今も見つからない。
◇
家へ着くと、居間には二人分の夕食が用意されていた。
鍋には蓋がされ、空いた席には箸と茶碗が並んでいる。母はこたつに入ったまま、読みかけの本を閉じた。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「ただいま。連絡できなくてごめんなさい」
「大社から、遅くなると聞いています。先に手を洗ってきなさい。温め直すから」
「うん」
琥珀と並んで洗面所へ向かう。
冷えた指へ湯を当てると、ようやく感覚が戻ってきた。
居間へ戻る頃には、味噌汁から湯気が上がっていた。
三人で夕食を始めて間もなく、机の端に置かれた母の携帯電話が震えた。
画面を確かめ、箸を置く。
「大社からね」
通話に出ると、藍子も箸を止めた。
「……ええ。分かりました」
母は短く答え、電話を切った。
「倉庫跡の怪異は、《朧》が討滅したそうよ。応急修理を終えて、住宅地を避けて迂回し、倉庫跡へ入ったと聞きました」
「現地の人たちは?」
「撤収した六人にも、住民にもけが人はいないそうです。資材置き場と空き倉庫が一棟壊されたけれど、怪異は敷地の外へ出なかったと」
「そう……」
小さく息を吐き、箸を取った。
煮物を一つ口へ運ぶ。
味は分かるのに、飲み込むまで時間がかかった。
「食べられそうにない?」
「ううん。食べる」
向かいでは、琥珀が普段と変わらない速さで食べている。母もそれ以上は尋ねず、味噌汁の椀を手に取った。
藍子はしばらく黙っていたが、やがて箸を置いた。
「お母さん」
「なに?」
「今日、《徒桜》への出撃要請が来たの」
母の手が止まる。
「乗ったの?」
「乗ってない」
「断ったのね?」
藍子は首を横に振った。
「違うの。断ったんじゃなくて……何も答えられなかった」
口にして初めて、その言葉が胸の奥へ重く沈んだ。
「何も答えられなかったというのは、乗りたくなかったの? それとも、怖かった?」
母は責めるでもなく、静かに尋ねた。
「分からない。でも……怖かった」
「何が?」
怪異を前にした時の衝撃と、霊力が抜け、身体が重くなっていった感覚が戻ってくる。
怖くないはずがない。
けれど、今日答えられなかった理由は、それだけではなかった。
「私がうまく止められなかったら、現地の人たちまで危なくなると思ったの」
母も琥珀も、口を挟まなかった。
「もし今日、私が《徒桜》で行っていたら、帰還用の陣には一人残ることになってた。私が退くのをためらったら、その人まで逃げ遅れるかもしれない」
「玄斎様から、怪異だけを見て動いたら陣を壊すかもしれないって言われた。そうなったら、私も帰れないし、残っている人まで巻き込むかもしれない」
「自分が傷つくことだけが怖かったのではないのね」
「うん。それも怖いけど……自分が傷つくだけなら、今ほど迷わなかったと思う」
「藍子は、無理でも『あと少し』って言う」
黙っていた琥珀が口を開いた。
「そんなことないよ」
「西の訓練でも、戻ろうとした」
「奥の二体のこと?」
「ん」
「結局、行かなかったでしょ」
「私が止めたから」
言い返そうとして、口を閉じた。
一人だったら、残り時間に目をつぶり、奥へ向かっていたかもしれない。訓練では琥珀が止めてくれた。けれど、《徒桜》に乗った時も、その声を聞いて退けるのだろうか。
「乗ったら、止まれなくなる気がしたの」
母はしばらく黙っていた。
「なら、乗るかどうかだけではなく、乗った時に、どの時点で退くのかも考えておきなさい」
「まだ、乗るって決めてないよ」
「分かっています。けれど、もし乗るなら、その時になってから考えたのでは遅いでしょう」
母はそれ以上何も言わず、味噌汁に口をつけた。
琥珀が煮物の皿を藍子の前へ寄せる。
「冷める」
「……うん。食べる」
藍子はもう一度、箸を取った。
◇
夕食を終えると、琥珀は先に風呂へ向かった。
藍子は食器を重ね、母と台所へ運ぶ。
「今日は休んでいてもいいのよ」
「これくらいなら大丈夫」
流し台に立ち、水を出した。
温かい湯に手を浸しても、先ほどの話は頭から離れなかった。
藍子が洗い終えた皿を、母が受け取って拭いていく。
「お母さん」
「なに?」
「前に、九條家に生まれたからって、私に役目を押しつけるつもりはないって言ったよね」
「ええ」
「《徒桜》も同じ?」
「同じです」
返事は早かった。
「でも、九條家と青龍コアには、何か関係があるのかもしれないんだよね」
「その可能性はあります。九條家から受け継いだ力が、《徒桜》と結びついたのかもしれません」
母は拭き終えた皿を棚へ戻した。
「けれど、動かせる理由と、あなたが戦う理由は別です」
藍子は茶碗についた泡を洗い流した。
「お母さんは、どうして九條家の役目を続けてるの?」
蛇口から落ちる水音だけが、しばらく台所に響いた。
「ここを、帰ってこられる場所のまま残したいからです」
「この家を?」
「この家も、境内も。あなたたちが何事もなく帰ってきて、いつもどおり過ごせる場所をなくしたくありません」
「九條家に生まれたからじゃなくて?」
「役目は、生まれた時から身近にありました。けれど、引き受けると決めたのは私です」
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「藍子、風呂空いた」
琥珀が台所の入口から顔をのぞかせる。髪はまだ少し濡れていた。
「分かった。これを片づけてから入るね」
「私が拭く」
「琥珀が?」
「拭くくらいできる」
「疑ってるわけじゃないけど……落とさないでね」
「落とさない」
母から布巾を受け取り、茶碗を片手に持って丁寧に水気を拭い始める。
「じゃあ、お願い」
「ん」
藍子が台所を出ると、背後から琥珀の声が聞こえてきた。
「これは、どこ?」
「右の棚です」
「こっち?」
「もう一つ上ですよ」
二人のやり取りを聞きながら、風呂場へ向かう。
その声が聞こえなくなるのは嫌だった。
けれど、だから《徒桜》に乗れるのかと問われれば、まだ頷けなかった。
◇
翌日の放課後。
四季狐大社へ着いた藍子は、稽古場へ向かわずに社務所を訪れた。
玄斎は机に地図を広げ、昨日の報告書を確認していた。河川敷と倉庫跡、それぞれの資料が脇へ分けて積まれていた。
「玄斎様。倉庫跡の報告書を見せてもらえませんか?」
玄斎の手が止まった。
「何を確かめたいのじゃ?」
「退く時を、何を見て決めたのかです。結界が破られる前と後の報告を比べたいんです」
玄斎は倉庫跡の資料を一番上に置き、藍子の前へ差し出した。
「持ち出しは禁止じゃ。ここで読め」
「ありがとうございます」
琥珀も隣へ座った。藍子が読み終えた紙を受け取り、時刻の早い順に並べていく。
受入陣の構築が始まった時点では、結界は四十分ほど維持できる見込みだった。
陣の構築と接続を終えるまで、三十五分。
その見込みが変わらなければ、《徒桜》は間に合った。
次の紙には、東側の結界が破られた時刻が記されている。
陣の完成まで十二分、接続に十五分。
張り直した結界は、十分も保たない。
余白の到着見込みには線が引かれ、その横に撤収と書き加えられていた。
藍子は、その先の報告へ目を移した。
構築班二名、退避開始。
小隊、退路を確保。
六名全員、撤収地点へ到着。
少しあとに、怪異が資材置き場へ侵入した時刻が続いていた。
組みかけの受入陣は踏み荒らされ、術式杭も折れている。基材の一部は、倒れた鋼材の下へ埋もれていた。
藍子の指が、その記録の脇で止まった。
もし、一人だけでも作業を続けていたら。
「ここまで、あまり時間がなかったんですね」
「うむ。構築班を先に逃がし、小隊がその退路を守った。作業を止めた瞬間に、全員が安全になるわけではないからの」
藍子は、撤収を決めた箇所へ戻った。
「十分も保たないって聞いた時、私は、まだ少しは時間があると思ったんです」
「陣を完成させるには足りん。じゃが、全員を退かせるためには使えた」
六人の名前が並ぶ欄を見る。
負傷者なし。
昨夜、母から聞いた時には、ただほっとした。
今はその一言の前に、作業を止め、二人を先に逃がし、残る四人も結界を捨てた時刻があった。
琥珀が次の紙を差し出す。
「《朧》の分」
「ありがとう」
機体は隣接支部へ帰還して応急修理を受け、河川敷の神機陣へ再招来されていた。そこから住宅地を避けて迂回し、倉庫跡へ入っている。
母から聞いた討滅の報告へ、道筋がつながった。
藍子は地図を手元へ寄せた。
怪異が敷地の東へ向くたび、《朧》はその前へ回っていた。刃を振るった位置だけを見れば、遠回りしたように見える動きもある。
県道の位置を確かめる。
そこへ向かう道を空けないよう、機体の位置が変わっていた。
藍子は昨日、自分が受け持つはずだった場所へ指を置いた。
目の前の怪異を倒せるか。
そればかり考えていたら、守る道から離れてしまったかもしれない。
紙を机へ置く。
「玄斎様」
「なんじゃ」
「次に《徒桜》を動かす時は、途中で帰還する訓練もやらせてください」
「帰還の操作を確かめたいのか?」
「それもです。でも、退く条件を決めて、まだ動ける時でも戻る練習がしたいです」
玄斎は答えを急がず、こちらを見ていた。
「怪異が残っていたら、もう少しだけって言うかもしれません。誰かが近くにいたら、その人を助けてからって」
隣の琥珀へ、一度だけ目を向けた。
訓練では、止められたから戻れた。
「自分から、退きますって言えるようになりたいです」
「よかろう。次の課題へ組み込む。ただし、決めた条件に届く前でも、続けられぬと分かったら知らせるのじゃぞ」
「はい。お願いします」
藍子は資料を揃え、机の向こうへ返した。
最後の紙に記された六人の名前を、もう一度見てから手を離した。




