第三話 山の気配
第三話 山の気配
翌朝、雨はすでに上がっていた。
東雲神社の境内には薄い霧が漂い、濡れた石畳が朝の光を鈍く映している。
藍子が掃除の支度を整えて外へ出ると、先に琥珀が来ていた。
「おはよう。今日はちゃんと起きられたんだね」
「ん」
箒は持っていない。
境内の外れにしゃがみ、ぬかるんだ地面を見つめていた。
「どうしたの?」
「跡がある」
隣へしゃがむ。
柔らかい土に、いくつもの窪みが残っていた。
動物の足跡にも見えるが、雨で崩れ、大きさも輪郭もはっきりしない。
「これ、昨日の動物かな」
「たぶん」
跡は林から境内へ続いている。
数歩分ほど進んだところで、途切れていた。
最後の窪みの先にも、湿った土が続いている。石畳へ移ったわけではない。
「ここから先がないね。引き返したのかな?」
「戻った跡もない」
琥珀が地面へ手を伸ばす。
指先が触れる直前、冷たい風が境内を通り抜けた。
二人の狐耳が、ほとんど同時に動く。
藍子は肩を震わせた。
「冷たい……」
「藍子。これ、昨日より近い」
琥珀は林へ目を向けた。
霧の向こうの木々は静まり返り、鳥の声も聞こえない。
「動物が?」
「分からない」
藍子は立ち上がった。
「お母さんを呼んでくる。ここ、掃かないでおいてね」
「ん」
母屋へ戻り、台所にいた母へ足跡のことを伝えた。
母は手を止め、藍子とともに境内へ出てきた。
「この辺り。林から続いてるの」
「途中で消えてた」
琥珀が付け加える。
母はしゃがみ、残された窪みを確かめた。最後の跡から先へ目を走らせ、林へ顔を向ける。
「確かに、少し変ね」
「やっぱり熊かな?」
「これだけでは分からないわ。二人とも、しばらく林には近づかないで」
「うん」
「学校から帰るときも、暗くなる前に戻ってきなさい」
「分かった」
琥珀は林の奥を見ていた。
「琥珀も、分かった?」
「ん。入らない」
母は頷き、足跡の周囲を指した。
「ここはそのままにして、石畳だけ掃いておいて。終わったら朝ご飯にしましょう」
母が戻ると、琥珀も箒を取りに行った。
二人で掃除をしている間も、林の近くには霧が残っていた。
◇
朝食を終え、制服に着替えて家を出る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
二人の姿が石段の下へ消えるまで、母は見送っていた。
九條葵は一人で境内へ戻り、足跡が途切れていた場所を通り過ぎた。
林へ数歩入ると、細い注連縄が張られている。境内と山林を隔てる、古い結界の一つだった。
紙垂に交じって結ばれた護符のうち、一枚が地面へ落ちていた。
拾い上げた手が止まった。
護符の中央が裂けていた。
裂け目を指先で確かめ、娘たちが下りていった石段へ目を向ける。
「獣の仕業では、なさそうね……」
新しい護符を結び、周囲の気配を探った。
木々の間に動くものはない。
母は足跡まで引き返した。結界からここまでは、わずかな距離だった。
社務所へ戻り、便箋を取り出す。
短い報告を書き、封をした。
昨日の返書とは、別の宛先だった。
◇
昼休み、藍子が弁当箱を開けると、教室の後ろから話し声が聞こえた。
「また出たんだって」
「何が?」
「熊。この前とは別の場所で見た人がいるらしいよ」
一人が携帯端末の画面を周囲へ見せている。
地域の掲示板には、山道の近くで大きな影を見たという書き込みがあった。
写真も添えられているが、暗いうえに木々に隠れ、何が写っているのか分からない。
「これ、本当に熊なの?」
「市役所の人も調べてるって」
「しばらく山には近づかない方がよさそうだね」
今朝の足跡を思い出し、藍子は隣へ顔を向けた。
琥珀は黙って弁当を食べている。
「琥珀も見てみる?」
「見ても、分からないと思う」
「昨日の気配と同じかな?」
「そこまでは分からない」
箸を止め、琥珀が窓へ目を向けた。
「昨日も、姿は見えなかったから」
「そうだね……」
教室の後ろでは、熊だ、猪だと予想が続いている。
藍子は弁当へ目を戻したが、湿った土の途中で消えた足跡が気になっていた。
午後の授業が終わる頃、担任が連絡事項を伝えた。
「近隣で野生動物の目撃が続いています。今日から当面の間、山側の通学路は使用禁止です。
部活動も終了時刻を早めます。寄り道をせず、なるべく複数人で帰るようにしてください」
教室がざわめく。
窓の向こうの山は、濃い雲に覆われていた。
「お母さん、一人で大丈夫かな」
「早く帰ろう」
「うん」
放課後、二人は指示された迂回路を通った。
普段より時間はかかったが、動物を見かけることはない。
神社の石段を上っていると、境内へ続く車道の方に、見覚えのない黒い車が見えた。
鳥居の脇に停まっている。
所属を示す文字も印もなかった。
「お客さんかな」
「たぶん」
二人は車へ目を向けながら、残りの段を上った。
◇
境内には、暗い色の外套を着た男女がいた。
名札も腕章もない。母が二人に、足跡のあった場所を案内している。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は早かったのね」
「学校から、早く帰るように言われたの。その人たちは?」
「今朝の報告を確認しに来てくださった方よ」
母は所属を口にしなかった。
男が藍子と琥珀を見る。
「足跡を発見したのは、君たちかい?」
「はい。朝、掃除を始める前に」
「何か姿は見た?」
「いいえ。足跡だけです」
男が記録用紙へ書き込む。
隣の女は、琥珀へ目を向けた。
「あなたは?」
「見てない」
「何か気づいたことはある?」
「昨日から、山にいる」
女の手が止まった。
「姿を見たわけではないのよね?」
「ん。でも、いる」
琥珀が林の奥を指さす。
二人ともそちらを見たが、木々の間に動くものはなかった。
「琥珀は勘が鋭い子なんです」
母が補足する。
女は琥珀をしばらく見つめ、記録を書き加えた。
「分かりました。詳しく調べてみます」
「藍子、琥珀。二人は母屋へ戻っていなさい」
「手伝わなくて大丈夫?」
「ええ。ここからは大人に任せて」
母の声はいつもと変わらない。
けれど、表情にはわずかな硬さがあった。
「分かった。行こう、琥珀」
「ん」
母屋へ向かう途中、琥珀が黒い車へ目を向けた。
後部の荷室が、わずかに開いている。
隙間から細長い箱が見えた。蓋には、五芒星を崩したような紋が刻まれていた。
「琥珀?」
「何でもない」
車から目を離し、藍子とともに母屋へ入った。
障子が閉まると、女の調査員が声を落とした。
「あの二人には、まだ話していないのですか」
「ええ。必要がなければ、その方がいいと思っています」
母は閉まった障子へ目を向けた。
「娘たちは、ここで暮らしていて大丈夫でしょうか」
女は記録用紙を閉じた。
「まず、痕跡を確認しましょう」
◇
調査員たちは車へ戻り、細長い箱を取り出した。
中には何枚もの護符と、金属製の短い杖が収められている。
女が護符を一枚取り、結界の前へ立った。
「始めます」
宙へ放った紙片は、地面へ落ちなかった。
林の方角へ流れ、一本の木の前で止まる。細かく震え始めた。
「反応あり。かなり薄れていますが、霊力の残滓です」
「何か分かりますか?」
母の問いに、女は護符の変色を確かめた。
「おそらく、怪異によるものです。今、この場所にはいません」
「やはり、獣ではなく妖が入り込んだのですね」
男は足跡が途切れた場所へ、金属の杖を立てた。
先端の紋が淡く光り、消える。
続いて、母が拾った護符の裂け目と、林から続く足跡を確かめた。
「結界を破って、境内まで入ってきています」
「東雲神社を狙ったのでしょうか」
「そこまでは断定できません。境内の霊気に引き寄せられただけかもしれない」
「周辺は、もう安全なのですか?」
女が林の奥へ目を向けた。
「これから確認します。この場の痕跡だけでは、どこへ移ったか分かりません」
母は黙って頷いた。
男が道具箱から、新しい護符を取り出す。
「こちらで周辺を捜索します。今夜は社殿と母屋から出ないでください」
「娘たちには?」
「今は正体まで話さなくて構いません。ただし、外へ出ないように。
再び気配を感じた場合は、すぐに連絡をお願いします」
「分かりました」
調査員たちは、破れた護符を回収した。
結界の護符を新しいものへ替え、境内の四隅にも小さな杭を打ち込んでいく。
作業を終える頃には、空が夕暮れの色へ変わっていた。
道具を箱へ戻し、二人は黒い車に乗り込む。
母は鳥居の前で、車が見えなくなるまで見送った。
「お母さん」
振り返ると、藍子が母屋の前に立っていた。
「あの人たち、もう帰ったの?」
「ええ。山を調べてくださるそうよ」
「何か分かった?」
母は一瞬、言葉を止めた。
「まだ、はっきりしたことは分からないわ。今夜は、境内にも出ないでね」
「……分かった」
藍子は境内へ目を向けた。
朝にはなかった杭が、石畳の向こうに見える。
母が玄関へ促すので、それ以上は尋ねずに戻った。
その後ろで、琥珀は障子の隙間から境内を見ている。
調査員の姿はもうない。
新しく結ばれた護符だけが、風のない境内でかすかに揺れていた。




