第二話 柚白琥珀
第二話 柚白琥珀
夕食を終えたあと、琥珀は居間の座卓に一枚の葉書を置いた。
雪を頂いた山と冬の海。その隅には、皿からあふれそうな海鮮丼の写真が印刷されている。
「また届いたの?」
食器を運んでいた藍子が、葉書をのぞき込んだ。
「ん。今日の昼」
「今度はどこにいるの?」
「北」
「それは見れば分かるけど……」
葉書を裏返す。
『魚がおいしいので、もう少しこちらにいます』
差出人は、琥珀の両親だった。
「もう少しって、いつまでなんだろう」
「分からない」
「心配じゃないの?」
「いつものことだから」
柚白家は、九條家から分かれた巫女の家系だ。藍子と琥珀も、幼い頃から互いの家を行き来して育った。
ただ、琥珀の両親は昔から一つの場所に留まらない。今回も、北の海鮮料理を食べに行くと言い残し、ひと月近く帰ってこなかった。
帰る日も、旅の詳しい目的も、琥珀は知らされていない。
「せめて、帰る日くらい書いてくれたらいいのに」
「たぶん、決めてない」
「だよね……」
葉書を座卓へ戻す。
両親が留守の間、琥珀は東雲神社の九條家に預けられていた。
幼い頃から何度も泊まっているので、今さら客扱いする者はいない。洗面所には専用の歯ブラシがあり、食卓の席も決まっている。
「帰ってくるまで、ここにいていいんだからね。遠慮しなくていいから」
「してない」
「……それも知ってる」
琥珀は立ち上がり、台所へ向かった。
冷蔵庫を開け、明日のために取っておいたプリンへ手を伸ばす。
「それは駄目だからね」
手が止まった。
「まだ何もしてない」
「今からするところだったでしょう?」
「見るだけ」
「見るのに手は要らないよ」
琥珀はプリンを見つめてから、扉を閉じた。
「……明日まで?」
「明日まで」
「努力する」
「我慢するって言ってよ……」
座卓へ戻った琥珀が、もう一度葉書を手に取る。
「北、楽しそう」
「行きたいの?」
「少し」
「寂しいなら、そう言えばいいのに」
琥珀は写真から顔を上げた。
「寂しくない」
「本当に?」
「ん。ここには藍子がいるから」
藍子は返す言葉を失った。
琥珀は平然と葉書を置き、冷蔵庫へ目を向ける。
「……それと、プリンもある」
「やっぱりそっちが本命なの!?」
◇
翌朝、藍子が目を覚ますと、隣の部屋は空になっていた。
布団まで畳まれ、隅へ寄せられている。
「琥珀?」
返事はない。
台所にも洗面所にも姿がなく、玄関には靴もなかった。
「こんな時間に、どこへ行ったの……?」
上着を羽織って外へ出ると、境内から箒の音が聞こえた。
白い髪を揺らしながら、琥珀が落ち葉を集めている。
「……何してるの?」
「掃除」
「それは見れば分かるけど」
昨日は、三十分経っても布団から出なかった。
今日は藍子より先に起きて、箒を持っている。
「どうしたの、急に」
「昨日、手伝えって言ってた」
「言ったけど……」
「だから手伝ってる」
琥珀は再び箒を動かした。
落ち葉が一か所へ集まっていく。神社に仕える家の娘だけあって、手つきは慣れていた。
藍子も掃除の支度を整え、隣へ並ぶ。
二人で掃けば、昨日よりずっと早く終わりそうだった。
「葉書の返事、書く?」
「あとで書く」
「元気だって伝えてあげてね」
「ん」
しばらく、箒が石畳を擦る音が続いた。
「藍子」
「なに?」
「昨日、帰ってからも夕食を作ってた」
「うん。それがどうしたの?」
「学校でも手伝ってたし、朝は掃除して、ご飯も作ってた」
琥珀の箒が止まる。
「休む時間、ある?」
「あるよ。お母さんも手伝ってくれるし」
「朝は藍子だけ」
「お母さんには、ほかの仕事もあるから」
「ん……」
琥珀は足元の落ち葉を、藍子が持つ塵取りへ掃き入れた。
「いる間は、手伝う」
「本当?」
「起きられたら」
「そこは起きてよ」
「努力する」
昨夜も聞いた言葉だった。
けれど今朝は、本当に起きてきている。
「ありがとう、琥珀」
「ん」
最後の落ち葉を片づけると、琥珀が時計を見上げた。
「そろそろ朝ご飯」
「結局、それが目的じゃないよね?」
「……半分くらい」
箒を片づけ、母屋へ歩き出す。
朝食の匂いが漂ってきた途端、その歩調が少し速くなった。
藍子は笑いながら後を追った。
◇
母屋へ戻ると、食卓には朝食が用意されていた。
「二人とも、今日は早かったのね」
「琥珀が掃除を手伝ってくれたの」
「まあ、珍しい」
「明日もやる」
席に着いた琥珀へ、藍子が横から付け加える。
「起きられたら、だって」
母は笑い、二人の前へ湯気の立つ味噌汁を置いた。
「今日は夕方から雨になるそうよ。傘を忘れないようにね」
「分かった」
「ん」
朝食を終え、制服に着替えて家を出る。
十一月も終わりに近づき、吐く息が白くなっていた。道に積もった葉が、足元で乾いた音を立てる。
藍子は隣を見た。
「琥珀、傘は?」
「ない」
「雨になるって聞いてたよね?」
「ん」
「どうして持ってこなかったの?」
琥珀の視線が、藍子の傘へ移る。
「藍子が持ってるから」
「最初から入るつもりだったの?」
「ん」
ため息が出た。
「……今日だけだからね」
「ありがとう」
二人はそのまま学校へ向かった。
◇
最後の授業が終わる頃には、窓の外で細かな雨が降っていた。
昇降口で傘を開くと、琥珀が隣へ入ってくる。
「もう少しこっち。肩が濡れてるよ」
「ん」
一つの傘に収まり、表通りを進む。
濡れた歩道には、色づいた葉が張りついていた。
住宅街を抜けると、東雲神社へ続く道の脇に、山道の入口が見えてきた。
昨日までなかった看板が立っている。
『野生動物の目撃情報あり。夜間の通行に注意』
「この近くでも出たんだ……」
藍子は足を緩めた。
琥珀は看板ではなく、奥の木々を見ている。
「何かいる?」
「今はいない」
「今は?」
「気配が残ってる」
藍子も目を凝らした。
雨に濡れた枝が揺れているだけで、動物の姿はない。
「熊だったら怖いね。しばらく暗くなる前に帰らないと」
「熊じゃないと思う」
「見たの?」
「見てない」
「じゃあ、どうして?」
山から吹く風が、傘を揺らした。
「……何となく」
「琥珀の何となく、妙に当たるから嫌なんだけど」
「外れることもある」
「今回は外れてほしいな」
「ん」
山道には入らず、そのまま神社へ向かった。
石段を上る頃には、雨が強くなっていた。
玄関で傘を閉じようとすると、琥珀が境内の外れへ顔を向けた。
「琥珀、濡れちゃうよ」
「ん」
林から目を離し、母屋へ入ってくる。
「肩、濡れてる。先に着替えてきて」
「少しだけ」
「その少しで風邪をひいたら困るでしょう」
「ん」
琥珀は部屋へ向かった。
藍子も着替えて居間へ戻ると、琥珀は窓際に座っていた。
「まだ山が気になるの?」
「少し」
「今日はもう外へ出ない方がよさそうだね」
「藍子も?」
「私も出ないよ」
「ならいい」
琥珀は窓から離れ、座卓の前へ移った。
藍子も向かいに座る。
やがて母が夕食を用意し、三人で食卓を囲んだ。学校のことや、新しい看板が立っていたことを話しているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
食器を片づけたあと、藍子は冷蔵庫を開けた。
プリンは、昨夜と同じ場所に残っている。
「ちゃんと我慢したんだ」
「ん。努力した」
背後から声がした。
振り返ると、琥珀がプリンを見つめている。
藍子はプリンを取り出し、スプーンを二本用意した。
「朝、掃除も手伝ってくれたしね。半分だけだよ」
「ん」
座卓へ戻り、プリンを半分に分ける。
琥珀は差し出されたスプーンを受け取った。
一口食べると、目を細める。
「おいしい」
「一日待ったから?」
「ん。それもある」
藍子も自分の分をすくった。
プリンはすぐになくなったが、琥珀は容器の底に残った分まで、スプーンですくっていた。
「明日はないからね」
「ん。また今度」
◇
空の容器とスプーンを台所へ運び、居間へ戻ろうとしたところで、社務所の明かりに気づいた。
母が机に向かっている。
「お母さん、まだ仕事?」
「ええ。返事を書いておかないといけなくて」
机には、一通の手紙が広げられていた。
便箋の隅に、四季の紋がある。
「昨日の、四季狐大社からの手紙?」
「そうよ。九條家への相談」
「何の相談なの?」
「九條家の今後に関わることよ。でも、藍子が心配するような話ではないから」
「そうなんだ」
母の湯呑みが空になっていた。
藍子は台所で茶を淹れ、机へ置く。
「ここに置いておくね」
「ありがとう」
母は湯呑みを受け取り、再び便箋へ目を落とした。
居間へ戻ると、琥珀が座卓に頬をつけていた。
「眠いなら、部屋に戻ろう」
「ん……」
「そこで寝たら風邪をひくよ」
「運んで」
「起きてるでしょう?」
少しだけ顔が上がる。
それ以上動かないので、藍子は腕を引いて立たせた。
「歩けるよね?」
「ん……」
二人の足音が廊下を遠ざかっていく。
社務所では、母が返事を書き終えていた。
便箋を封筒へ収め、宛先を確かめる。
四季狐大社。
封をすると、軒下で羽を休めていた白い鳩を呼び寄せ、脚の筒へ返書を収めた。
雨は弱まっていた。
白い鳩が翼を広げ、夜の山へ飛び立つ。
母は社務所の窓から見送り、静かに障子を閉めた。




