第一話 九條藍子
第一節 日常
第一話 九條藍子
「琥珀、朝だよ。掃除の時間」
九條藍子は障子を開け、布団の中で丸くなっている少女へ声をかけた。
返事はない。
薄明かりが差し込んでも、布団からのぞく白い狐耳は動かなかった。
「今日は落ち葉が多いんだから、手伝って」
布団を軽く揺すると、耳がぴくりと動く。
「ん……あと五分」
「五分だけだからね。先に始めてるから、ちゃんと来てよ」
「ん……」
起きる気配はないが、ここで待っていても掃除は終わらない。
巫女装束に着替え、竹箒を手に境内へ向かった。
東雲神社の朝は早い。
東の空が白み始めた境内に、箒が石畳を擦る音が響く。
集めた枯れ葉を塵取りへ寄せようとしたところで、石段の下から風が吹き上げてきた。
「あっ、ちょっと待って!」
散っていく葉を追い、慌てて箒を動かす。
背中で勿忘草色の長い髪が揺れた。頭上の青い狐耳も、風の音を追って忙しなく向きを変える。
あと少し。
塵取りを近づけた瞬間、二度目の風が吹いた。
枯れ葉が目の前で舞い上がり、境内へ散っていく。
「なんでそうなるの!?」
垂れた尻尾の先にも、一枚引っかかった。
葉を取って塵取りへ入れ、残りを見回す。参拝者が来るまでに、もう一度集め直さなければならない。
母屋へ目を向けた。
琥珀が来る気配はない。
「五分って言ってたよね……?」
境内の時計では、もう十五分が過ぎていた。
迎えに戻る間にも、落ち葉がまた飛ばされそうだ。
箒を握り直し、一人で掃除を続けた。
石畳を掃き終える頃には、朝日が木々の間から差し込み始めていた。
「よし。終わり」
きれいになった境内を見渡して頷き、道具を片づける。
母屋へ戻って琥珀の部屋をのぞくと、布団は先ほどと同じ形に盛り上がっていた。
「琥珀、三十分以上経ってるんだけど!」
「ん……」
「もう掃除、終わったからね!」
「……お疲れさま」
「手伝う気なかったでしょ!?」
白い耳が布団へ引っ込み、それ以上の返事はなかった。
藍子は台所へ向かい、朝食の支度を始めた。
味噌汁が温まり、焼き魚の香りが広がった頃、背後で襖が開く。
「ん……おはよう」
制服に着替えた琥珀が立っていた。
時計を見る。
朝食の時間には、一分も遅れていない。
「朝ご飯には間に合った」
「掃除にも間に合ってほしかったんだけど」
「朝は苦手」
「今も朝だよ?」
「いい匂いがしたから」
白い狐耳は、焼き魚へ向いていた。
言い返す前に、朝食を並べる。焼き魚と卵焼き、豆腐の味噌汁。それに炊きたてのご飯。
「いただきます」
琥珀は両手を合わせ、卵焼きへ箸を伸ばした。
「美味しい」
「明日は掃除も手伝ってね」
「ん……起きられたら」
「起きるの!」
「……藍子は、朝からうるさい」
「誰のせいだと思ってるの!?」
藍子も席へ着こうとしたところで、縁側から羽音が聞こえた。
一羽の白い鳩が舞い降りる。その脚には、細い筒が結びつけられていた。
「あら、珍しいわね」
母が鳩を迎え入れ、筒から手紙を取り出す。
封に押された紋を見ると、表情がわずかに変わった。
「お母さん、どこから?」
「四季狐大社よ」
名前なら知っている。東雲神社よりも山深い場所にある古社で、九條家とも古くから付き合いがあった。
「何だって? お祭りの相談?」
母は手紙を開き、文面を確かめた。
「九條家に、頼みたいことがあるそうよ。詳しいことは、これから確認するわ」
「ふうん……」
神社同士の用事らしい。
藍子は席へ着き、箸を取った。
その手が止まる。
まだ食べていないはずの卵焼きが、一つ減っていた。
「琥珀」
「ん?」
「私の卵焼き、食べた?」
「味見」
「自分の分も食べたよね?」
「藍子のも同じ味だった」
「確認しなくていいから!」
琥珀は味噌汁を飲んでいる。顔はいつもどおりなのに、白い尻尾だけが機嫌よく揺れていた。
残った卵焼きの皿を自分の方へ寄せる。
「もう、早く食べないと学校に遅れるよ」
「ん。おかわり」
「話を聞いて!」
琥珀が二杯目のご飯を食べている間に、藍子は台所へ戻った。
取り置いていたおかずを、二人分の弁当箱へ詰める。最後に残った卵焼きは、自分の方へ入れた。
今度は蓋を閉めるまで、そばに置いておいた。
◇
「いってきます!」
予定より遅く家を出た藍子は、石段の途中で振り返った。
琥珀は一段ずつ、ゆっくりと下りている。
「もう少し速く歩いて!」
「ん……歩いてる」
「それは散歩の速さなの!」
急ぐ様子はない。それでも、足元を見ずに段を下り、つまずきもしなかった。
「このままだと遅刻するよ!」
「藍子が走れば間に合う」
「一人で先に行けってこと?」
「私は次の時間から行く」
「堂々と遅刻しないで!」
手をつかむと、琥珀は抵抗せずについてきた。
石段を下りきり、住宅街を抜ける。山の麓から学校までは、歩いて二十分ほど。
今朝は歩いている余裕がなかった。
「おはよう、九條さん」
「おはよう! また後で!」
同じ制服の生徒に挨拶を返し、手を引いたまま走る。
校門が見えたところで、予鈴が鳴った。
「まだ間に合う……!」
昇降口へ駆け込み、靴を履き替える。肩で息をする藍子の隣で、琥珀は涼しい顔をしていた。
「同じだけ走ったよね? どうして平気なの?」
「藍子に運ばれてたから」
「手を引いただけだからね!?」
そのとき、校内放送が流れた。
『生徒の皆さんへ連絡します。近隣の山林で野生動物の目撃情報が相次いでいます。
下校時は指定された通学路を利用し、山林や立入禁止区域には近づかないようにしてください』
近くの生徒たちが「またか」と話しながら、教室へ向かっていく。
最近、同じ注意が何度か出されていた。
「琥珀、帰りも裏道は使わない方がよさそうだね」
「ん……」
返事をした琥珀は、窓の向こうの山を見ていた。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
視線を戻し、廊下を歩き出す。
藍子もその後を追った。
教室へ入って鞄を置くと、ノートを手にした生徒が近づいてきた。
「九條さん、昨日の課題なんだけど、ここだけ分からなくて」
示された式を見て、共通する部分を指さす。
「先にここをまとめてみて。そうすれば、昨日の公式が使えるよ」
「あ、そっか。ありがとう!」
生徒が席へ戻ると、今度は別の生徒からプリントの束を渡された。
「先生が、これ配ってほしいって」
「分かった」
受け取った束は、思ったより厚い。
配り始めようとすると、横から琥珀が半分持っていった。
「手伝ってくれるの?」
「ん。そっち、多いから」
窓側の列へ向かい、一枚ずつ机へ置いていく。
朝もそれくらい動いてくれればいいのに。
そう思いながらも、藍子は少し笑った。
「ありがとう。じゃあ、私はこっちね」
二人で配り終え、席へ戻ったところで始業の鐘が鳴った。
◇
昼休み。
弁当箱を開けると、琥珀が隣からのぞき込んできた。
視線が卵焼きへ止まる。
藍子は弁当箱を手元へ寄せた。
「朝の分を取り戻しただけだからね」
「ん」
琥珀も自分の弁当を食べ始めた。
自分の卵焼きを食べ終えても、今度は箸を伸ばしてこない。
ただ、藍子の弁当を見ている。
「……半分」
「これは私の分」
「ん。知ってる」
「知ってて見続けないでよ……」
藍子は小さく息を吐き、卵焼きを半分に分けた。
「半分だけだよ」
片方を琥珀の弁当へ入れると、短い礼が返ってきた。
「ん。ありがとう」
残った半分は、すぐに自分の口へ運んだ。
◇
午後の授業を終え、藍子は教科書を鞄へしまった。
帰りに商店街へ寄って、夕食の材料を買わなければならない。
机の横から買い物袋を取ると、クラスメイトに呼び止められた。
「九條さん、少しいい?」
「どうしたの?」
「明日提出する委員会の資料なんだけど、まとめ方が分からなくて……」
差し出された紙には、書きかけの表と数字が並んでいた。
窓の外は、まだ明るい。
「分かった。一緒に確認しよう」
「助かる! すぐ終わるから」
席へ戻り、資料を広げる。
琥珀がそばで立ち止まった。
「先に帰っててもいいよ。少しかかるかも」
「待ってる」
「いいの?」
「ん。寝てるから大丈夫」
近くの席へ座り、机に頬をつける。
藍子は苦笑して、資料へ目を戻した。
同じ項目の数字を揃え、表へ書き込んでいく。あと一列で終わるところで、合計が合わなくなった。
「あれ? どこか間違えたかな」
「この項目、こっちにも入ってる。同じ分を二回足しちゃったんだと思う」
「本当だ。じゃあ、ここを消せばいい?」
「うん。ただ、こっちの合計も変わるから……」
時計を見る。
思ったより時間が経っていた。
でも、直す場所は分かっている。ここだけ確かめれば終わるはずだ。
二人で数字を追い直し、最後の欄を書き換える。
「合った!」
クラスメイトが顔を上げた。
「ありがとう。これなら、明日ちゃんと説明できそう」
「うん、よかった」
「次は自分でやってみる。遅くまでごめんね」
「大丈夫。間に合ってよかった」
資料を揃える相手を見て、藍子も笑った。
鞄を取ろうとして、窓の外へ目が向く。
空は、もう夕焼け色に変わっていた。
◇
「ごめん、思ったより遅くなっちゃった」
校門を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
隣では、目を覚ました琥珀がいつもの歩調で進んでいる。
「買い物して、洗濯物を取り込んで、それから夕食を作って……」
帰ってからの仕事を数えていると、琥珀が買い物袋を受け取った。
「荷物、持つ」
「まだ何も入ってないよ?」
「買ったら重くなる」
袋を持ったまま、商店街の方へ歩いていく。
藍子はその隣へ並んだ。
「ありがとう。助かる」
「ん」
商店街で食材を買ったあとも、二人は表通りを進んだ。
裏道なら早いが、今朝の放送を思い出すと、そちらへ向かう気にはなれなかった。
神社の石段へ着く頃には、街灯が灯り始めていた。
「重くない? 代わろうか?」
「大丈夫」
琥珀は買い物袋を持ち直し、石段を上っていく。
藍子も隣へ並んだ。
母屋の明かりが見え、玄関へ向かう。
「ただいま」
「……ただいま」
二人の声が重なった。




