第二十六話 守られている日常
第二十六話 守られている日常
大晦日の東雲神社は、朝から慌ただしかった。
藍子が境内を掃き終えるころには、近所から手伝いに来た者たちが社務所の前へ集まり始めていた。
参道には灯籠が並べられ、授与所には新しい御札や破魔矢が運び込まれていく。
夜になれば、年越しの参拝客が訪れる。
それまでに終わらせなければならない仕事は多かった。
「琥珀、その箱は社務所の中へお願い」
「ん」
琥珀が抱えた箱には、おみくじに使う紙が入っている。
重くはないものの、前が見えにくいらしく、石畳の途中で足が止まった。
「藍子」
「なに?」
「見えない」
「少し右へ進んで。三歩くらい」
「右?」
「そっちは左」
琥珀が向きを変える。
「今度は合ってる。そのまま真っすぐ」
「柱は?」
「まだ先。私も一緒に行くから待って」
藍子は箒を置き、琥珀の前へ回った。
箱の端を持って二人で運び、社務所の中へ置く。戻ろうとしたところで、琥珀が蓋へ手をかけた。
「開けないよ」
「中を見るだけ」
「さっき、おみくじだって言ったでしょ」
「一枚引く」
「今引いたら、年が明ける前の運勢になるんじゃない?」
琥珀の手が止まる。
「なら、夜に引く」
「お手伝いが終わってからね」
「藍子も引く?」
「時間があれば」
「一緒に引く」
琥珀は蓋から手を離し、先に境内へ戻っていった。
藍子もあとを追う。
境内では、近所の女性たちが絵馬を並べながら話していた。
「今年は年末まで事故が多かったわね」
「河川敷もまだ一部が閉まっているんでしょう?」
「そうらしいわ。山のほうも工事で通れない道があるって聞いたわよ」
「寒くなると、あちこち傷むのかしらねえ」
設備の故障や老朽化として報じられた事故の中には、怪異が現れ、陰陽連盟や奉術衆が対処したものもあった。
女性の一人が、近くを通った藍子へ声をかける。
「藍子ちゃんも、山道には近づかないようにね。また熊が出たらしいから」
「はい。気をつけます」
「琥珀ちゃんもよ」
「ん」
琥珀は短く答え、藍子の隣へ並んだ。
二人は参道へ戻り、灯籠の位置を確かめていく。
「熊じゃない場所もある」
琥珀が小さな声で言った。
「ここでは言わないでね」
「分かってる」
藍子は灯籠の向きを直した。先ほどの女性たちも、絵馬を並べる手を止めずに話している。
「藍子」
母の声に呼ばれ、二人は社務所へ戻った。
母は電話の受話器を置き、参道の案内図を広げている。
「今夜は、北側の旧参道を閉じます」
「何か見つかったの?」
「怪異の反応はありません。ただ、山側で弱い妖気が観測されたそうです。
念のため、参拝客には表参道を使ってもらいます」
「奉術衆の人が来るんですか?」
「すでに二人、旧参道の外で待機しています。
一般の方には、倒木の危険があるため閉鎖したと伝えます」
藍子は案内図の北側へ置かれた札を見る。
参拝客が少し遠回りするだけで、表から見える神社の様子は何も変わらない。
「今夜も、あの人たちはずっと外にいるの?」
「交代しながら夜明けまで警戒するそうです」
「大晦日なのに……」
「大晦日だからです。人が集まる場所を、無防備にはできません」
母は新しい案内を用意し、藍子へ渡した。
「これを鳥居の前へ出してください。閉鎖の理由を聞かれても、書いてあること以外は答えないように」
「分かりました」
案内を受け取り、藍子は琥珀と鳥居へ向かった。
参道では灯籠に火を入れる準備が進み、社務所からは甘酒を煮る匂いが漂っている。
鳥居の前へ案内を据え、表参道を示す矢印の向きを確かめる。
旧参道へ続く道には、すでに縄が張られていた。
◇
日が暮れるころには、東雲神社の境内に明かりが灯り始めた。
参道に並ぶ灯籠が石畳を照らし、社務所の前には白い息を吐きながら働く者たちが行き交っている。
藍子は授与所の内側で、御札の数を確かめていた。
「破魔矢、あと十本こっちへお願い」
「ん」
返事はすぐそばから聞こえたものの、待っても破魔矢が出てこない。
藍子が隣をのぞくと、琥珀は椅子に座ったまま、境内の一角を見つめていた。
その視線の先では、大きな鍋から甘酒の湯気が立ち上っている。
「琥珀」
「聞いてる」
「破魔矢は?」
「あと十本」
「聞いただけで仕事は終わらないよ」
琥珀は名残惜しそうに鍋から目を離し、足元の箱を開けた。
「甘酒、なくならない?」
「たくさん用意してあるから大丈夫」
「手伝ってる人の分は?」
「ちゃんと残してくれてるよ」
それを聞いて安心したのか、琥珀は箱から破魔矢を取り出す。
藍子が受け取って数えると、九本しかなかった。
「一本足りないよ」
「数え間違えた」
「珍しいね」
「甘酒のせい」
「まだ飲んでもいないのに?」
琥珀はもう一本を加え、今度こそ十本を藍子へ渡した。
やがて鳥居の外から、参拝客の話し声が近づいてきた。
家族連れや近所の住民が、少しずつ境内へ入ってくる。
案内を見た者は閉ざされた旧参道へ向かうことなく、灯籠の並ぶ表参道を進んでいた。
「今年はこっちだけなのね」
「山側は倒木の危険があるそうよ」
そんな声が聞こえても、足を止める者はいない。
子どもは両親の手を引いて拝殿へ急ぎ、友人同士で訪れた若者たちは何を願うか相談している。
甘酒を受け取った老人が、今年も無事に来られたと笑っていた。
いつもと変わらない、大晦日の光景だった。
「こんばんは。破魔矢を一本いただける?」
「はい。少々お待ちください」
藍子が破魔矢を手渡すと、相手は代金を納めながら微笑んだ。
「藍子ちゃんも、すっかり神社の人ねえ」
「毎年お手伝いしていますから」
「今年はいろいろあったけれど、ここへ来ると安心するわ」
「そう言ってもらえると、母も喜びます」
「来年は穏やかな年になるといいわね」
「はい。本当に」
藍子は笑顔で見送り、次の参拝客へ向き直った。
ここへ来ると安心する。
その言葉が胸に残り、参拝客の肩越しに旧参道の方を見た。
縄の向こうは暗く、待機している者たちの姿は見えなかった。
授与所の前から人が途切れたところで、母が裏口から顔を出した。
「藍子。少し休んできなさい」
「まだ大丈夫だよ」
「今のうちに休まないと、日付が変わるころまで持ちませんよ」
「分かりました。琥珀も行こう」
「ん」
二人は授与所を出て、社務所の裏手へ回った。
そこには手伝いの者たちが休めるよう、長椅子と火鉢が用意されている。
湯飲みを並べた机の端には、琥珀が待ち続けていた甘酒も置かれていた。
琥珀は迷わず鍋の前へ向かう。
「一杯だけだよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が二杯目まで考えてる」
「一杯目を飲んでから決める」
「決めなくていいの」
藍子が椀を二つ用意していると、旧参道へ通じる裏門が開いた。
防寒具を着込んだ奉術衆の男が一人、肩に積もった雪を払いながら入ってくる。
代わりに、休憩していた別の者が立ち上がった。
「北側に変化はありません。妖気も先ほどから弱いままです」
「承知した。次は私が出よう」
二人は短く報告を交わし、持ち場を入れ替わる。
戻ってきた男の指先は、冷気で赤くなっていた。
藍子は手にしていた甘酒を見てから、もう一つ椀を取った。
「あの、よかったらどうぞ」
「私にですか?」
「ずっと外にいたんですよね。温かいうちに」
男は一瞬ためらったものの、礼を言って椀を受け取った。
琥珀も鍋をのぞき込む。
「まだある」
「だから一杯取ったんだよ」
「違う。外へ行く人の分」
琥珀は新しい椀へ甘酒を注ぎ始めた。
「持っていく」
「待機場所までは行かないよ。旧参道は閉鎖中だから」
「裏門までならいい?」
「そこから先へ出なければね」
琥珀が裏門の手前で椀を差し出すと、交代に向かう男は足を止めた。
「温まってから」
「ありがとう。いただきます」
男が甘酒を飲む間に、藍子は保温瓶へも注ぎ、紙包みの使い捨て懐炉と一緒に持っていった。
「これ、向こうにいる方へお願いします」
「助かります」
椀を返した男は保温瓶と懐炉を受け取り、一礼して裏門を出ていく。
閉じた門の向こうで、雪を踏む足音が遠ざかった。
「私たちにできるのは、これくらいだね」
藍子が呟くと、甘酒を飲んでいた琥珀が顔を上げた。
「これくらいじゃない」
「え?」
「玄爺も言ってた。できることを選ぶ」
「……そうだったね」
「外にいる人が倒れたら困る」
「うん」
「だから、甘酒は必要」
「琥珀が飲みたいこととは別だよね?」
椀へ口をつけたまま、琥珀の目がわずかに逸れた。
「温度を確かめた」
「もう半分なくなってるけど」
「念入りに確かめてる」
「一杯だけだからね」
「まだ一杯目」
「その言い方、二杯目を諦めてないよね?」
社務所の表から、藍子を呼ぶ声が聞こえた。
休憩は終わりらしい。
二人が授与所へ戻ると、境内を埋める人の数はさらに増えていた。
子どもの笑い声と参拝客の話し声が重なり、灯籠の明かりの中を白い雪がゆっくりと落ちている。
藍子は次の参拝客へ破魔矢を差し出した。指先には、まだ椀の温かさが残っていた。
◇
日付が変わる時刻が近づくにつれ、参道の列は鳥居の外まで伸びていった。
授与所にも人が絶えず、藍子は破魔矢や御札を渡し続けていた。
琥珀は隣で代金を受け取り、時折、おみくじの場所を尋ねられては境内の端を指し示している。
「おみくじは、あちらです」
「ありがとう。巫女さんもよいお年を」
「ん。よいお年を」
参拝客を見送った琥珀が、箱の中へ納めた硬貨を数え始める。
「琥珀、今は数えなくていいよ」
「合ってるか気になる」
「お金は逃げないから。次の人が来るよ」
言われて顔を上げると、すでに親子連れが授与所の前で待っていた。
慌てた様子も見せず、琥珀は何事もなかったように応対を始める。
藍子は小さく息を吐き、破魔矢を一本取り出した。
やがて、遠くから除夜の鐘が聞こえてきた。
境内のあちこちで時計を確かめる者が増え、話し声が次第に落ち着いていく。
最後の鐘が冬の夜へ溶けた直後、誰かが新年を告げた。
「あけましておめでとうございます」
その声をきっかけに、参拝客の間へ挨拶が広がっていく。
家族で顔を見合わせる者。
友人同士で笑い合う者。
電話を取り出し、ここにいない誰かへ新年の言葉を送る者。
藍子も隣へ顔を向けた。
「あけましておめでとう、琥珀」
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
「うん。今年もよろしくね」
社務所から出てきた母とも挨拶を交わす。
ゆっくり話している暇はなく、すぐに参拝客への応対へ戻ったが、それでも新しい年を三人で迎えられた。
その後もしばらく人の波は途切れなかった。
破魔矢の箱が一つ空になり、甘酒の鍋も二度目の補充に入る。
小さな子どもが眠そうに父親へ抱かれながら、おみくじだけは自分で引こうと手を伸ばしていた。
藍子が次の破魔矢を並べていると、母が授与所の裏へ入ってくる。
「旧参道の様子は?」
「変化はありません。先ほど、交代の方から連絡がありました」
「妖気も?」
「弱いままです。今すぐ怪異が現れる兆候はないそうですよ」
母の返事を聞き、藍子の肩から力が抜けた。
「よかった……」
「気にしていたのですか?」
「少しだけ。参拝客がこんなに集まっている時に、何か起きたらって」
「そのために警戒してくれている方々がいます。藍子は、こちらの役目を果たしなさい」
「はい」
母は頷き、今度は琥珀を見る。
「二人とも、そろそろ休憩へ入りなさい。今なら少し人が落ち着いています」
藍子が境内を見ると、参拝の列はまだ続いているものの、先ほどまでの混雑は収まり始めていた。
「休む前に、私たちもお参りしていい?」
「ええ。私が代わりますから、その間に。ただし、長く授与所を空けないように」
「ありがとうございます。行こう、琥珀」
「おみくじも引く」
「覚えてたんだ」
「そのために働いた」
「神社の手伝いは、おみくじを引くためじゃないよ」
母へ応対を引き継ぎ、二人は授与所を出た。参拝客の列は、もう数組だけになっている。
その後ろへ並んだ。
白い息を吐きながら順番を待ち、拝殿の前へ進む。
石段の下では見慣れた境内に多くの人が集い、灯籠の明かりが降り続く雪を照らしていた。
藍子は賽銭を納め、鈴を鳴らす。
目を閉じると、少し離れたところから参拝客の声が聞こえた。
今年も家族が健康でありますように。
試験に合格できますように。
よい仕事が見つかりますように。
願いはそれぞれ違っても、この場所へ来た誰もが新しい年に期待していた。
藍子は何を願うべきか迷った。
怪異の増加が収まるように。
戦う者たちが無事に戻れるように。
家族や琥珀が、変わらず隣にいられるように。
一つには決められない。
結局、すべてを心の中で願ってから目を開けた。
隣では琥珀が、まだ手を合わせている。
藍子が黙って待っていると、しばらくして琥珀も目を開いた。
「長かったね。何をお願いしたの?」
「言わない」
「どうして?」
「言ったら叶わないかもしれない」
「そんな決まりあったかな」
「念のため」
二人は拝殿を離れ、おみくじの箱へ向かった。
琥珀が先に手を入れ、一枚だけ取り出す。
「何だった?」
「吉」
「よかったね」
「藍子は?」
藍子も箱から一枚引き、折り畳まれた紙を開いた。
「私も吉みたい」
「同じ」
「そうだね」
二枚のおみくじを並べてみると、同じなのは運勢だけだった。
藍子のものには、焦らず進めば道が開けると書かれている。
一方、琥珀のものには、失せ物は身近な場所を探せとあった。
「失せ物、何かあった?」
「プリン」
「それはなくしたんじゃなくて、食べたんでしょ」
「藍子の分は、なくなった」
「食べた人が言わないで」
琥珀は何も答えず、おみくじを丁寧に折り畳んだ。
少なくとも、去年のプリンは戻ってこない。
そのことだけは、おみくじに尋ねるまでもなかった。
◇
夜通し続いた参拝客の列が、ようやく途切れた。
授与所はいったん戸を閉め、日中の参拝に備える。
灯籠の火が一つずつ消されていく。
「藍子」
振り返ると、琥珀が壁にもたれていた。
「眠そうだね」
「眠くない」
「目が半分しか開いてないよ」
「いつもと同じ」
「さすがに違うと思う」
藍子も人のことは言えなかった。気を抜けば、その場に座り込んでしまいそうだった。
社務所から出てきた母が、二人の顔を見比べる。
「片づけは、あとは大人に任せなさい。二人は先に休んで構いません」
「でも、お母さんもずっと起きてたでしょ?」
「私はもう少し確認があります」
「それなら、私も――」
「藍子」
穏やかな声だったが、断らせる気はないらしい。
「休むことも役目のうちですよ。疲れたまま続ければ、間違いが増えます」
「……分かりました」
琥珀はすでに母の言葉に従い、母屋へ向かっていた。
「琥珀、待って」
「先に布団へ行く」
「着替えてから寝てね」
「分かってる」
返事をしながら歩く背中が、少しずつ廊下の壁へ寄っていく。
藍子は追いつき、琥珀の肩を反対側へ戻した。
「そっちは壁だよ」
「壁が近づいてきた」
「琥珀が寄っていったの」
「眠いから分からない」
「やっぱり眠いんじゃない」
部屋へ戻り、着替えを済ませて布団へ入る。
外では片づけを続ける人々の声が、かすかに聞こえていた。
藍子はもう少し起きているつもりだったが、次に目を開けた時には、障子の向こうがすっかり明るくなっていた。
◇
時計は、正午を少し過ぎていた。
藍子が居間へ入ると、琥珀はこたつに入り、音を消したテレビを眺めていた。
「琥珀、起きてたんだ」
「ん」
「テレビ、音が出てないよ」
「藍子のお母さん、寝てる」
「まだ?」
「朝まで片づけてた」
母の部屋へ目を向ける。襖は閉じられ、家の中に物音はなかった。
藍子たちを休ませたあとも、参拝客の落とし物や授与品の確認、奉術衆からの報告を受けていたのだろう。
「お昼、私が作ろうか」
「お雑煮」
「朝ごはん用に用意してくれてたよね。温めよう」
「餅、三つ」
「二つにしなさい」
「昨日、働いた」
「それは私もだよ」
「藍子も三つでいい」
「そういう問題じゃないから」
台所には、母が作っておいた出汁と具材が残されていた。
藍子が鍋を火にかける間に、琥珀は餅を取り出す。
一つ、二つと網へ並べ、三つ目の包みへ手を伸ばした。
「二つって言ったよね」
「藍子のお母さんの分」
「起きてから焼くから、戻しておいて」
「なら、預かる」
包みが懐へ向かったところで、その手を止めた。
「置いてある場所を変えないで。お母さんが探すでしょ」
「私に聞けばいい」
「最初からそこに置いてあれば、聞かなくていいの」
琥珀は少し迷ってから、包みを元へ戻した。
結局、餅は一人二つずつになった。
二人で向かい合い、少し遅い新年最初の食事を始める。
琥珀がテレビの音量を小さく上げた。初日の出や初詣の話題が続いたあと、各地の事故や通行止めが報じられる。
『昨夜、県北部の山道で落石が確認され、現在も一部区間の通行止めが続いています。
けが人はいませんでした』
藍子の箸が止まる。
授与所を閉めたあと、母から聞いた場所だった。
四季狐大社から夜間の連絡があり、道路脇に現れた怪異を陰陽連盟の小隊が祓ったという。
その影響で斜面が崩れたものの、負傷者はいないと聞いていた。
「けが人、いなかったって」
「ん」
「ちゃんと間に合ったんだね」
琥珀はテレビを見ながら、雑煮の餅を口へ運んだ。
「玄爺、二十四分の記録も、まだ比べてる」
「今回のものも、同じか調べるんだろうね」
画面はほどなく、別の土地の初売りへ切り替わった。
店の前に長い列ができ、福袋を手にした人たちが笑っている。落石の現場は、もう映っていなかった。
藍子は再び箸を動かした。
けが人はいなかった。
何度も聞いてきた一言が、昨夜の赤くなった指先を思い出すと、いつもより大きなことに感じられた。
「藍子」
「なに?」
「餅、食べないならもらう」
「食べるよ」
「ずっと見てた」
「ニュースを考えてたの」
「餅が伸びてる」
椀を見ると、箸で持ち上げたままの餅が、出汁の中へ細長く伸びていた。
藍子は慌てて口へ運ぶ。
琥珀の椀は、すでに空だった。視線が、藍子の椀に残ったもう一つの餅へ移る。
「それも食べるからね」
「一口だけ」
「餅の一口って、絶対に半分以上でしょ」
静かな元日の居間に、二人の声が響く。
母が起きてくるまで、もう少し時間がかかりそうだった。
◇
冬休みが明けると、藍子は再び制服に袖を通した。
始業式を終えた教室では、久しぶりに顔を合わせた生徒たちが年末年始の出来事を話している。
「九條さんは、ずっと神社の手伝いだったんでしょう?」
「大晦日と元日はね。ほかの日は家で休んでたよ」
「いいなあ。巫女さんの格好でおみくじ渡してたの?」
「授与所にいたから、見に来てくれたらよかったのに」
「行こうと思ったんだけど、山側の道が通行止めだったから、別の神社にしたの。最近、事故が多いよね」
「うん……そうだね」
藍子が曖昧に頷くと、別の生徒が会話へ加わった。
「うちは元日に出かける予定だったのに、電車が止まって大変だったよ。線路脇の設備故障だって」
「年末にも似たような事故がなかった?」
「あった。お父さんが、今年は厄払いへ行くって張り切ってたもの」
笑い声が広がる。
その設備故障の話は、年末年始の連絡について母から聞いた時にも出ていた。
妖気の影響で線路脇の地盤が崩れ、その近くでは陰陽連盟が怪異を祓ったという。
藍子が何と答えるか考えている間に、話題は福袋や正月番組へ移っていた。
「琥珀は、お正月に何かした?」
話を振られた琥珀は、少し考える。
「お雑煮を食べた」
「ほかには?」
「おみくじを引いた」
「何だった?」
「吉」
「普通だね」
「藍子も吉」
「二人とも同じだったんだ。何をお願いしたの?」
「言わない」
お参りの時と同じ答えだった。
「九條さんは?」
「私も秘密」
「ええ、二人とも教えてくれないの?」
「言わないほうが叶いそうだから」
藍子が笑って答えると、琥珀が満足そうに頷いた。
新しい年を迎えても、教室の様子は以前と変わらない。
教師が入ってくれば会話が止まり、配られた予定表を見て、もう授業が始まるのかと誰かが嘆く。
休み中の課題を机へ出すよう言われると、琥珀の動きだけがわずかに遅くなった。
「琥珀、まさか忘れたの?」
「持ってきた」
「なら、早く出そうよ」
「まだ提出するとは聞いてない」
「先生が今言ったでしょ」
「聞かなかったことにする」
「無理だよ」
藍子が鞄を指すと、琥珀は諦めたように課題を取り出した。
回収された課題の束を、琥珀が最後まで目で追った。
藍子も鞄から予定表を出し、次の授業で使う教科書を確かめた。
◇
放課後、二人は四季狐大社を訪れた。
境内の端には除けられた雪がまだ残っている。
稽古場では奉術衆が木偶や木杭を片づけ、別の者たちは社務所へ記録を運んでいた。
「来たか」
縁側にいた玄斎が、湯飲みを置いた。
「学校が始まったばかりじゃ。今日は身体を慣らす程度にしておけ」
「玄爺、正月休みは?」
「わしにそのようなものがあったと思うか?」
「ずっと大社にいた?」
「各地との連絡が続いておったからの。床で仮眠した覚えしかないわ」
玄斎のそばには、読み終えた報告書が積まれている。
藍子は机に広げられていた数枚へ目を落とした。
発生場所。
妖気の強さ。
現地へ到着した時刻。
怪異への対処結果。
そこに記された内容は一件ごとに違っていたが、最後には人的被害の有無がまとめられている。
「けが人なし」が並ぶ中、数枚には隊員の負傷が記録されていた。
「年末年始も、ずっと出動が続いていたんですね」
「今のところ、大きな被害は出ておらん。じゃが、怪異そのものが消えたわけではない」
「負傷した人たちは?」
「命に別状はない。すでに治療を受けておる」
藍子が報告書を見つめていると、玄斎はその束を持ち上げ、隣へ移した。
「お主が背負うものではない」
「分かっています。ただ、同じ『けが人なし』でも、どこまでのことなのかと思って」
「一般向けの発表と、こちらの報告では範囲が違うこともある。
住民を逃がせても、対処する者が傷を負う場合はあるからの」
「ニュースだけでは、守った人たちまで無事だったかは分からないんですね」
「うむ。そこは、こちらの報告で確かめる」
藍子は隣へ移された記録に目を向けた。
「学校でも、事故が多かったねって話していました。守った人のことは、誰も知らなくて」
「今はまだ、怪異の存在を広く知らせれば、余計な混乱を招く。
じゃが、表に出ぬ負傷も、我らの記録から消すわけではない」
玄斎は稽古場へ顎を向けた。
「話の続きは、身体を動かしながらにせよ。考え込んでばかりでは、霊力まで固くなるぞ」
「はい」
藍子は用意されていた薙刀を手に取った。
琥珀も観測用の札を受け取り、稽古場の端へ座った。
今日の稽古は、三体の木偶を相手にしたものではなかった。
藍子は決められた型を繰り返し、薙刀へ流す霊力を一定に保つ。
琥珀はその強さを観測し、乱れた時だけ声をかける。
「藍子、少し強い」
言われた藍子は、霊力をわずかに抑えた。
「今は?」
「そのまま」
薙刀の刃に沿っていた青い光が、細く安定する。
細く保つつもりでも、報告書にあった負傷の文字を思い出すと、柄を握る手へ力が入った。
薙刀を振り下ろし、足を運ぶ。
次の型へ移ろうとしたところで、琥珀の声が飛んだ。
「藍子、足」
「え?」
「右が半歩前」
足元を見ると、立ち位置を示す線から右足が外れていた。
「霊力のほうに気を取られてた」
「考え事もしてた」
「分かった?」
「顔に出てた」
右足を戻し、息を吐いた。
先ほどの記録を、今ここで読み返せるわけではない。
まずは、ずれた足と、握り込んでいた手を確かめる。
「同じ型を、もう一度やるね」
「ん。見てる」
穂先を下げ、初めの構えへ戻った。
足を置く場所を確かめてから、薙刀を振り下ろす。青い光は刃に沿ったまま揺れなかった。
「今のは?」
「足も、合ってる」
顔を上げると、社務所へ記録を運ぶ奉術衆の姿が見えた。
藍子はそれを見送り、次に踏み出す場所へ目を戻した。
柄を握る指には、力を込め直さなかった。




