第二十話 二十四分の波
第二十話 二十四分の波
翌朝。
陰陽連盟関東支部の会議室には、夜を通して集められた記録が並んでいた。
山林の怪異反応。
二本の旧水路を通過した妖気の量。
河川敷と四季狐大社周辺の観測札が示した時刻。
調査員と奉術衆が、それぞれの記録を照らし合わせている。
「昨夜十時から今朝四時半までの比較では、大社周辺に十七回の反応がありました」
奉術衆の男が、記録の写しを置いた。
「間隔は最短で二十三分十二秒。最長で二十五分四十七秒です。平均は約二十四分になります」
「旧水路は?」
調査責任者が尋ねる。
「同じ時間帯に十七回です。ただし、反応した時刻がずれています」
地図へ観測時刻が書き込まれる。
東側の旧水路。
四季狐大社付近。
西側の河川敷。
対応する反応は、東から西へ少しずつ遅れていた。
「一つの波が、各地点を通過していると考えられます」
「妖気の性質は?」
「採取できた範囲では似ています。途中で枝分かれするため、強さは同じではありません」
調査責任者が、山林の記録へ目を移す。
「怪異の動きとは一致したか?」
「すべての波ではありません。ただ、通過したあとに周囲の反応が集まる例があります」
術者が記録を開いた。
「妖気を観測してから九分後、散在していた魑魅魍魎が一か所へ集まり始めました。その後の二回でも、数は少ないものの似た動きが確認されています」
「流れへ寄ってきたのか」
「その可能性があります」
別の術者が、封印した個体の調査結果を差し出す。
「山林で回収した個体にも、外から取り込んだと見られる妖気が残っています。河川敷の個体より、蓄積量は多いです」
「長く浴びていたためか?」
「そこまでは分かりません。個体差も調べています」
確認できたことと、未確認のことが分けて書き留められる。
約二十四分ごとに強まる妖気。
水の流れに逆らう経路。
その周辺へ集まる怪異。
「新しい怪異が生じているのか、すでにいたものが集まっているのか。そこも調査を続けます」
「両方の可能性を残しておけ」
調査責任者が地図へ巡回区域を加えた。
「流れの下流側を優先する。予測時刻の前後で、怪異の反応が変わるか確かめろ」
「小隊が足りない場合は?」
「隣接支部へ応援を要請する。《朧》も待機を続ける」
機体の配置図を確かめる。
「現状は、術者小隊で対処する。融合や急激な強化、封鎖を維持できない兆候があれば、神機の投入を再判断する。妖殻ができるまで報告を待つな」
「承知しました」
低位の怪異でも、同じ時間に別々の場所へ集まれば、その数だけ対応部隊が要る。
調査責任者は待機中の小隊と、交代予定を確認した。
「四季狐大社には、観測の継続をお願いしたい。こちらからも記録を送ります」
「玄斎様へ伝えます。起点が見つかった場合も、情報を合わせたうえで対応を協議したいとのことです」
「了解した」
奉術衆の男が、もう一枚の紙を置いた。
「最初に約二十四分の間隔へ気づいたのは、この記録を取った柚白琥珀です」
「調整池で、九條藍子へ周囲の状況を伝えていた少女か」
「はい。二人とも、現在は四季狐大社で基礎を学んでいます。現地調査へ参加させる予定はありません」
調査責任者が目を通す。
三つの時刻。
通過した方角。
感じ取ったものと、術具で確認したものの違い。
「観測記録としては、悪くない」
「本人へ伝えます」
「ただし、観測のために残らせる必要はない。こちらでも継続して測れるようにする」
「玄斎様も、その方針です」
地図へ、新しい観測点が書き加えられた。
次の波が来る前と、通ったあとを比べるための配置だった。
◇
同じ頃。
町外れの閉鎖された資材置き場で、小さな魑魅魍魎が地面を這っていた。
輪郭は曖昧で、進むたびに形が崩れる。
その下を、妖気が通った。
怪異が止まる。
身体へ黒い筋が広がり、薄かった輪郭が濃くなった。
やがて、進む方向を変えた。
積まれた資材の向こうに、同じ気配がある。
地面の一か所から、妖気が染み出していた。
怪異はそこへ近づいていった。
◇
放課後。
四季狐大社へ着くと、玄斎は社務所の縁側で待っていた。
手には、昨日の琥珀の記録がある。
「琥珀」
「ん」
「お主の記録が、陰陽連盟の調査でも使われることになった」
「そう」
「反応が薄いのう」
「役に立ったならいい」
琥珀は紙へ目を向けた。
「二十四分だった?」
「二十三分余りから、二十五分台まで幅があった。平均すれば二十四分ほどじゃ」
「なら、二十四分くらい」
「うむ。次を予測する目安にはなる。じゃが、その時刻だけ見ておけばよいわけではないぞ」
記録が二人へ示される。
旧水路。
山林。
河川敷。
大社の周辺。
場所によって遅れはあるものの、対応する波が通過する順番は揃っていた。
「東から西へ進んでいるんですね」
「この経路ではな。途中で分かれる筋もある。すべてが同じ場所へ向かうとは限らん」
「山林の怪異も、その波へ集まっていたんですか?」
「通過したあと、反応が集まる例は確認された。今日の巡回でも、前後を比べておる」
藍子は地図の印を見た。
「私たちは?」
「稽古じゃ」
玄斎が即答する。
「昨日止めた、気配を見分ける続きを行う。実際の地下の流れを探すのではないぞ」
「はい」
「琥珀は、時刻だけでなく、場所と方角、強さ、周囲の変化を分けて記録してもらう」
「分かった」
立ち上がったところで、通信具が鳴った。
玄斎が応答する。
陰陽連盟関東支部の紋が表示された。
『調査班から、情報を共有します。予測時刻に合わせて巡回していた小隊が、町外れの資材置き場で複数の反応を確認しました』
「数は?」
『現時点で十二体。魑魅魍魎級と思われます』
藍子は地図から顔を上げた。
「強化の兆候は?」
『妖殻化や融合は確認されていません。ただし、中央に妖気が滞留し、怪異がその周囲へ集まっています』
「対応は?」
『二個小隊を派遣しました。付近の立ち入りも制限しています』
「分かった。こちらは周辺の水脈の記録を集める。新しい流れが分かれば知らせよう」
通信が切れた。
玄斎は奉術衆へ連絡し、資材置き場の観測記録を確かめるよう伝える。
「十二体……」
藍子が呟いた。
「小隊で対処できるんですか?」
「低位の相手ならな。数と場所を考え、二個小隊を送ったのじゃろう」
「《朧》は?」
「今は術者で対処する判断じゃ。状況が変われば、連盟が再び判断する」
通信具を置き、二人へ向き直る。
「稽古場へ行こう。用意されたものを確かめる間は、そちらへ集中せよ」
「ここで、結果を待ってからでは……」
「待っておれば、気が落ち着くか?」
答えかけて、止まる。
通信具を見ていても、現場の様子は分からなかった。
「何か分かれば伝える。見分けられぬときは、そのまま言えばよい」
「……はい」
琥珀が先に立った。
「行く」
「うん」
◇
資材置き場は、高い金属柵に囲まれていた。
建設資材と錆びた足場が積まれ、中央の空き地へ続く通路は狭い。
二個小隊、計八人のうち二人が表門と外周へ配置された。
残る六人が敷地へ入る。
「十二体、目視しました」
資材の陰から、一人が報告する。
怪異は地面の一か所を囲んでいた。
互いに争わず、染み出す妖気へ身体を向けている。
「中央の反応は?」
「濃くなっています。地中からの流入です」
隊長は外周の配置を確かめた。
「先に逃げ道を塞ぐ。ここで攻撃すれば、資材の裏へ散る。道路側へ抜けた個体を見失うな」
「北側へ回ります」
「南側も進めます」
各小隊から三人ずつが分かれた。
隙間を覗き、外へ通じる通路へ札を置いていく。
足場の奥にも、細い抜け道があった。
一人が身をかがめ、柵の内側へ護符を差し込む。
「こちらも塞ぎます」
「配置が揃うまで、刺激するな」
次の波が来ると予測された時刻まで、あと一分だった。
探知札の黒い染みが広がり始める。
「来ます」
地中を、妖気が通過した。
中央の怪異が止まる。
身体の輪郭が、先ほどより濃くなる。
「東側に反応。三体……四体です」
資材の隙間から、新しい影が現れた。
周辺にいた怪異が集まってきている。
「合計十六体」
隊長が通信具を取る。
「支部へ増援を要請しろ。融合は確認されていないが、流入が続いている。外周と結界維持の人員を増やしたい」
『了解』
北側から報告が入る。
「配置完了まで、あと三十秒」
「外へ通じる場所を優先しろ。区画を分け、同時に相手をする数を減らす」
南側でも、札が置かれる。
資材の間を走る光が、敷地の出口を塞いだ。
◇
「始めろ」
隊長が手を下ろした。
護符から光が伸び、敷地の内側へ線が走る。
資材と足場の間が仕切られ、怪異は四つの区画へ分けられた。
「北側、五体」
「中央も五体です」
「東から来た四体は、第三の区画へ入りました」
「西側は二体。外へ出た個体はありません」
隊長が配置を確認する。
「第一小隊は北から。第二小隊は中央の個体を引き離せ。封印するのは一体だ」
「了解」
北側で二人が護符を放ち、怪異の左右を狭めた。
一人が正面から注意を引く。
壁を作った術者が、その間に別の札を投じた。
「今です」
光が重なり、二体が包まれる。
身体が崩れ、霊核も散っていった。
残った三体のうち、一体が壁へぶつかった。
光は揺れたが、破れなかった。
「北側、残り三体」
「一体ずつ確実に収めろ」
中央の五体は、妖気の溜まりから離れようとしなかった。
第二小隊の一人が、離れた場所へ誘導札を投げる。
広がった霊力へ、二体が顔を向けた。
ゆっくりと近づいてくる。
「間を閉じます」
別の術者が札を置いた。
二体と、溜まりに残る三体の間へ光の壁が立つ。
「一体を祓い、もう一体を封じます」
「頼む」
祓いの光が放たれる。
残る一体も縄に捉えられ、封印札へ収められた。
「封印完了」
「箱へ入れ、後ろへ下げろ」
北側では、残った三体への対処が続いていた。
壁へ集まる個体を分け、順に祓っていく。
「北側、処理完了」
「第一小隊は西側の二体へ。東側の壁も維持しろ」
役割を移し、消耗した者を支える配置へ変える。
そのとき、探知担当が札を見た。
「東側に、新しい反応です」
「数は?」
「二体。敷地の外から近づいています」
隊長が外周へ連絡する。
「二体を確認した。組んで止めろ。無理に祓おうとせず、道路へ抜ける進路を塞げ」
『了解』
一般人を遠ざける者まで、敷地へ入れるわけにはいかなかった。
隊長は中央を見る。
「溜まりを先に抑える。漏れた妖気へ、まだ周囲の怪異が寄ってきている」
中央の三体を囲む。
二体を祓い、最後の一体を光の壁で第三の区画へ押し出した。
「中央、空きました」
「抑制札を置け」
その間に、西側の二体も祓われた。
第一小隊から一人が中央へ回る。
第二小隊の三人とともに、四枚の札へ霊力を通した。
光が地面の黒い染みを覆う。
染み出していた妖気が、少しずつ薄れた。
「地上への漏出、低下」
「地下の流入は続いています」
「一時的に抑えられればよい。経路の処置は奉術衆と合わせる」
通信具が鳴る。
『増援、四名到着。外周の二体を拘束しました』
敷地へ入った増援が、結界維持を交代する。
余力を得た術者たちが、第三の区画へ向かった。
「敷地内は残り五体。こちらで祓います」
「頼む。抑制術式は、このまま維持する」
数分後。
第三の区画にいた五体が祓われた。
外周の二体にも対処が終わり、新たな反応は確認されなかった。
「負傷者は?」
「ありません」
「結界の損傷は?」
「軽微です。維持できます」
隊長が息を整える。
「支部へ報告。魑魅魍魎十八体を確認。十七体を祓い、一体を封印。妖殻化と融合はありません。地中の妖気は、地表へ出る部分を抑制中です」
「はい」
「奉術衆の到着は?」
「あと十五分」
「それまで交代して保つ。消耗した者は休ませろ」
集まった十二人のうち、四人は抑制札から離れられなかった。
二人は外周に残り、一般人の接近と新たな怪異を警戒している。
通信具が再び鳴った。
『関東支部より。西側の倉庫街で、九体の怪異反応を確認』
「対応部隊は?」
『最寄りの小隊が別件へ対応中です。隣接区域から向かわせています』
「こちらが移れるのは、奉術衆への引き継ぎ後だ」
『承知しています。現場の維持を優先してください』
通信が切れる。
目の前の怪異は、もういなかった。
隊長は待機する隊員の状態を確かめ、抑制札の交代時刻を書き込んだ。
次の現場へ向かうには、この場所を安全に引き継がなければならなかった。
◇
大社の稽古場には、四つの水鉢が並んでいた。
何も加えていない水。
玄斎の霊力。
琥珀の霊力。
封妖札から伝わる、ごく弱い妖気の気配。
札は同じ形の台に隠され、藍子が目を閉じている間に並びが変えられていた。
琥珀は玄斎から答えを知らされ、記録を取っている。
「左から二つ目が、そのままの水です」
「うむ」
「右が玄斎様。左端が琥珀で……三つ目が妖気です」
「左端と三つ目、逆」
琥珀が告げた。
「え?」
もう一度、気配へ意識を向ける。
左端は冷たく重い。
三つ目には、細く軽いものが広がっていた。
「……本当だ」
「途中から、水を見てなかった」
「見てたよ」
「資材置き場?」
「……うん」
十二体。
同じ場所に、それだけ集まっている。
術者が対処していると聞いても、結果が気になった。
玄斎が封妖札を収める。
「少し休もう。今の答えは、感じたものから選んだか?」
「最初の二つは。でも、途中からよく分からなくなって、残ったものを当てはめました」
「ならば、そこを分からぬと伝えるのじゃ。何かを考えてしまうことより、感じたことと推測を混ぜる方が危険じゃぞ」
「はい」
水鉢から離れ、縁側へ座った。
琥珀も記録を持って隣へ来る。
「琥珀は、気にならないの?」
「気になる」
「落ち着いてるね」
「藍子が違えたのは、見てた」
「そこは見なくても……」
「稽古だから」
「そうでした」
通信具が鳴った。
玄斎がすぐに応答する。
『資材置き場の怪異への対処が終了しました』
「被害は?」
『負傷者はありません。計十八体を確認し、十七体を祓い、一体を封印しました』
藍子は顔を上げた。
『地表へ漏れていた妖気は抑制し、到着した奉術衆へ引き継いでいます』
「倉庫街は?」
『九体とも処理を終えました。こちらも負傷者はいません』
「ほかの反応は?」
『別の二地点で少数を確認しています。巡回中の小隊が対処しています』
玄斎は記録を開いた。
「交代は回せておるか?」
『現時点では。ただし、休息を取らせながら対応するには、同時発生地点がこれ以上増えた場合、応援が必要です』
「こちらも観測を続ける。変化があれば知らせよう」
通信が切れた。
「十八体に増えていたんですね」
「うむ。最初の報告より集まったようじゃ」
「でも、怪我をした人はいない?」
「どちらも無事に対処できた」
息を吐いた。
握っていた手を開く。
「強い怪異はいなくても、人手が要るんですね」
「戦いが終わっても、すぐ離れられぬ場所があるからの。資材置き場も、妖気を抑える者と周囲を守る者が残っておった」
「《朧》なら、もっと早く終わるんじゃ……」
「小さな相手が資材の間へ散っておる。神機の大きさでは、周囲を壊さず対処するのが難しい。地下の経路を調べ、抑える仕事まで代われるわけでもない」
「倒せば終わり、ではないんですね」
「そうじゃ。より強い相手が現れたときの戦力も、残しておかねばならん」
玄斎は水鉢を見た。
「今日は、ここまでにする。奉術衆の報告をまとめねばならぬ」
「もう終わりですか?」
「わしが見ておれぬ状態で、妖気を使った稽古は続けさせん」
「なら、薙刀だけでも――」
「帰れ」
「まだ、最後まで言ってません」
「途中までで分かったわい」
隣で琥珀が立つ。
「帰る」
「琥珀まで」
「玄爺が忙しい」
「うむ。寄り道せず、明るい道を通れ」
「分かりました」
藍子も立ち、水鉢へ手を伸ばしかけた。
袖を引かれる。
「帰る」
「片づけくらいは」
「玄爺が、帰れって」
「こういうときだけ素直だよね」
二人が稽古場を出る。
玄斎は封妖札を保管箱へ収め、通信具を取った。
資材置き場で抑制していた四人が、交代できたかを確かめるためだった。
◇
寄り道をせず、明るい通りを選んで帰った。
玄関を開けると、母が家の奥から顔を出す。
「お帰りなさい。今日は早かったのね」
「ただいま。玄斎様が忙しくなって、稽古が途中で終わったの」
「怪異の件?」
「うん。でも、資材置き場と倉庫街は対処できたって。怪我をした人もいないよ」
「そう。よかったわ」
母は台所へ戻る。
「夕食は、まだ支度の途中なの。少し早いけれど、始めましょうか」
「私もやるよ」
「帰ってきたばかりでしょう?」
「今日は、あまり身体を動かしてないから」
鞄を置き、着替えに向かう。
琥珀もついてきた。
「手伝う」
「本当に?」
「ん」
◇
今夜は鍋だった。
藍子は冷蔵庫から野菜と肉を取り出す。
琥珀へ白菜を渡した。
「洗ってくれる?」
「分かった」
流しへ向かう背中を見送り、鍋へ出汁を入れた。
火にかける間に、大根と人参を切る。
「洗った」
「ありがとう。食べやすい大きさに切ってね」
琥珀が包丁を取る。
藍子はその手元を見た。
「使える」
「まだ何も聞いてないよ」
「見てた」
「……指は気をつけてね」
大きさは少し不揃いだったが、危なげはなかった。
切り終えた野菜を鍋へ加え、調味料を入れる。
湯気とともに、温かい香りが広がった。
「火を見る」
「お願い。私はお肉を用意するね」
しばらくして、食器の触れ合う音がした。
振り返ると、琥珀が小皿へ汁をすくっている。
「琥珀?」
「味を見る」
「まだお肉を入れてないよ」
一口飲む。
「少し薄い」
「だから、まだ途中なの」
肉を入れ、灰汁を取りながら味を整える。
今度は藍子も小皿へ取って確かめた。
「これで大丈夫かな。琥珀もお願い」
琥珀が汁を飲み、頷く。
「大丈夫」
「じゃあ、お母さんを呼んで――」
「具も確認する」
白菜が、小皿へ移された。
「それは、もう食べ始めてるよね?」
「私が切った」
「作った人の特権みたいに言わないで」
「藍子も食べていい」
「私は作ってる側なんだけど……」
入口から、母の笑い声がした。
「二人とも、楽しそうね」
「琥珀が味見って言いながら、先に食べてるの」
「毒見」
「急に役目を重くしないで」
琥珀は表情を変えず、白菜を口へ運んだ。
母が食器を用意する。
藍子も鍋を食卓へ運んだ。
三人で湯気を囲むと、肩に残っていた緊張が少し緩んだ。
「今日の稽古は、どうだったの?」
母に聞かれ、箸を置く。
「気配を見分ける練習だったけど、途中で間違えたの。資材置き場のことを考えていて、よく分からなくなったのに答えてしまって」
「分からないと、言えなかったのね」
「うん。玄斎様にも、感じたことと推測を混ぜないように言われた」
母が野菜を取り分ける。
「心配するなとは言わないわ。でも、今見ているものが分からなくなるなら、一度休んだ方がいいでしょうね」
「玄斎様も、休ませてくれた」
「なら、次は自分から伝えられるといいわね」
頷いた。
何かを気にしないようにするのは、難しい。
けれど、分からないまま答えなくてもよかった。
「藍子」
「なに?」
「肉、減ってる」
琥珀の器には、二枚入っていた。
「まだたくさんあるでしょう」
「考えてる間に減る」
「誰が食べてると思ってるの?」
「私」
「分かってるなら、少し待って」
自分の器へ、一枚取った。
母が笑い、鍋へ残りの肉を加える。
琥珀は箸を持ったまま、それを見ていた。
「火が通ってからだからね」
「分かってる」
「本当に?」
「ん」
藍子も野菜を口へ運ぶ。
温かかった。
出汁が染みた大根を噛み、ゆっくりと飲み込む。
今度は箸を止めず、三人で夕食を食べた。




