第十九話 見えない流れ
第十九話 見えない流れ
木札を使った連携訓練を始めてから、一週間が過ぎた。
十二月上旬も終わりに近づき、朝の空気は一段と冷たくなっていた。
通学路の植え込みには薄い霜が降り、吐いた息が白く残る。
コートの襟を整え、隣へ目を向けた。
「琥珀、手袋は?」
「鞄の中」
「指、赤くなってるよ」
「まだ平気」
「平気でも着けるの」
「ん」
返事はしたが、鞄へ手を伸ばさない。
藍子が立ち止まると、琥珀も数歩先で止まった。
しばらく見つめ合う。
やがて、白い手袋が取り出された。
「最初から着ければいいのに」
「今、着けた」
両手に収まったのを見届け、歩き始める。
一台の工事車両が横を通り過ぎた。
荷台には柵と資材が積まれ、河川敷の方角へ向かっている。
「この前のところ、まだ工事してるのかな」
「浄化も続いてるかも」
「学校では言わないでね」
「ん」
藍子は車両を見送った。
向かう先が、あの陥没箇所かどうかは分からない。
◇
「最近、工事してる場所多くない?」
昼休み。
教室の窓際で弁当を広げていると、近くの席から聞こえてきた。
「駅の反対側も通れなくなってたよ。水道管の点検だって」
「公園も一部閉鎖されてなかった?」
「あれは倒木じゃなかったっけ」
「この辺、そんなに古かったかな」
箸を動かしながら、耳を傾ける。
水道管の点検。
倒木。
遊歩道の陥没。
一つずつなら、珍しい話ではなかった。
けれど、少なくとも河川敷には怪異がいた。
「藍子」
「なに?」
「卵焼き、止まってる」
箸の先を見る。
挟んだまま、口へ運んでいなかった。
「あ……ちょっと考えてただけ」
「考えすぎ」
「その言い方、最近多くない?」
「事実」
「琥珀だって、聞いてたでしょう」
「聞いてた。でも、ここでは分からない」
琥珀は自分の弁当へ目を戻した。
報道された事故のすべてが、怪異によるものとは限らない。
母にも玄斎にも、そう言われている。
卵焼きを口へ運ぶ。
「今日、大社で聞いてみる」
「ん」
「でも、琥珀に考えすぎって言われるのは納得できないな……」
「必要なことだけ考える」
「プリンのことも?」
「必要」
「やっぱり納得できない」
◇
放課後の境内には、乾いた風が吹いていた。
木々の葉はほとんど落ち、以前より空が広く見える。
藍子は稽古着へ着替え、木製の薙刀を構えていた。
腕と足には、薄い青色の霊力をまとわせている。
木札で覚えた配置を、今日は実際の足運びで確かめていた。
木製の人形は相手の位置を示す目印だ。動かない身体に薙刀を沿わせ、受け流す姿勢を作る。
「右前から二体。一体目が近い」
少し離れた場所から、琥珀の声が届く。
右足を引き、穂先を向けた。
「左後ろに守る人。後ろへ下がれない」
「なら、前へ流す」
右前の人形へ半歩近づく。
腕に見立てた横木へ薙刀を斜めに合わせ、腰をひねった。
避けて終わるのではない。
相手の攻撃が、背後へ抜けない向きを作る。
次の相手も右前なのか。
穂先を戻す向きを決められず、一瞬止まった。
「次、左」
薙刀を返す。
身体の向きを変えた瞬間、右腕の青い光が揺らいだ。
「右腕、薄い」
霊力を足しかけ、手を止めた。
途切れそうな場所を確かめる。
肩から肘へ。
肘から手首へ。
流れを整えると、薄い光が戻った。
「そのままじゃ」
縁側の玄斎が声をかける。
「強くする必要はない。動いても途切れぬよう保て」
「はい」
呼吸を整え、構え直す。
腕へ気を取られると、足元が薄くなる。
足を意識すれば、今度は薙刀を握る手の光が揺れる。
それでも、一週間前より長く保てていた。
「前の味方が下がる。右が空く」
右へ踏み出した。
人形の間を抜け、柱のそばに置かれた青い木札の前へ立つ。
「ここでいい?」
「ん。そこを守って」
「では、そこまでじゃ」
薙刀を下ろし、まとわせていた霊力を収める。
「前より、続くようになりました」
「うむ。じゃが、向きを変えるときに乱れておる。
腕と足へ別々に送るだけでなく、全身を通る流れを保つのじゃ」
「動く場所だけ見ていたら、駄目なんですね」
「そうじゃ。使っておらぬところまで、途切れさせる必要はない」
自分の右腕を見る。
加える量だけでなく、残しておく流れも考えなければならなかった。
玄斎が琥珀へ顔を向ける。
「藍子が迷ったところは?」
「二体目。近い一体しか、場所を言わなかった」
「一体目を流したあと、同じ方向へ構えたままでいいのか迷ったよ」
藍子も答える。
「次は、二体目が横へずれたかも言う」
「うむ。先の動きが分かる情報を足せ。ただし、最初から詰め込むでないぞ」
「ん」
琥珀が記録へ書き込む。
薙刀を置こうとしたとき、奉術衆の一人が石畳を足早に近づいてきた。
「玄斎様」
玄斎が顔を上げる。
「どうした」
「新たに三か所で、妖気の流入が確認されました」
「場所は?」
「閉鎖中の旧水路が二か所。それと、北側の山林です」
「怪異は?」
「旧水路では確認されていません。山林には複数の反応があります。
陰陽連盟の小隊から、調査への協力要請が届きました」
記録板が渡される。
玄斎は地図と報告を見比べた。
「奉術衆を二班出せ。旧水路へ向かう班は、二か所を分担して調べよ。
山林では連盟の小隊と合流するのじゃ」
「承知しました」
「流れを見つけても、起点を追って深く入るな。まずは方向と濃さを記録せよ」
一礼し、奉術衆が戻っていく。
藍子は記録板へ目を向けた。
「山林の怪異は、強いんですか?」
「今の報告では、術者で対処できる相手じゃ。お主たちが向かう必要はない」
「……はい」
薙刀を握っていた手を緩めた。
「今日の稽古はここまでじゃ。藍子は流れを整えてから着替えよ。
琥珀は、今の記録を残しておくのじゃ」
「はい」
「ん」
道具を片づけながら、北側の山を見る。
冬の空の下に、暗い稜線が連なっていた。
現場へ向かう人たちは、もうその下へ入ろうとしているのだろう。
◇
北側の山林へ陰陽連盟の小隊が入ったのは、日が沈み始める少し前だった。
四人の術者が獣道を進み、二人の奉術衆が続く。
連盟は怪異への対処、奉術衆は妖気の経路を調べる役目だった。
「最初の報告では四体だった」
先頭の隊長が、探知札を確かめる。
「今は七つあります」
後方の術者が告げた。
「増えたのか?」
「周囲にいたものが集まっているようです」
隊長が足を止め、奉術衆へ振り返る。
「流れを追えるか?」
「怪異が近い間は、反応が混ざります」
「我々が先に対処する。後ろで待機してくれ」
「承知しました」
少し先に、木々の途切れた場所があった。
そこへ出た瞬間、藪の奥で影が動く。
「来るぞ」
落ち葉を巻き上げ、黒い塊が飛び出した。
四足の獣に似たもの。
長い腕で枝を渡るもの。
地面を這うもの。
形は違っていたが、いずれも低位の魑魅魍魎だった。
「左右を塞げ。後ろへ抜くな」
二人が護符を放つ。
木々の間に光の壁が生まれ、進路を狭めた。
正面から飛び込んだ一体へ、隊長が術を放つ。
光に包まれた身体が崩れ、内側の霊核も散った。
「右に三体!」
「止めます」
地面へ札が打ち込まれる。
光の縄が走り、二体を捉えた。
もう一体が飛び越える。
着地先で待っていた術者が印を結んだ。
怪異が光に包まれる。
左側でも、隊長ともう一人が進路を押さえていた。
「さらに二体、奥から来ます」
「数だけに気を取られるな。外へ散らさず、順に収める」
一体ずつなら、術者一人で対処できる相手だった。
小隊は隊列を保ち、逃げ道を狭めながら祓っていく。
「最後の一体は封印する。調査用だ」
動きを止めた怪異へ、封印札が放たれた。
光が身体を包み、霊核とともに紙の内側へ収める。
やがて、落ち葉の擦れる音だけが戻ってきた。
「周囲の反応は?」
「探知範囲内にはありません」
「もう一度確認する。奉術衆は、こちらへ」
二人が前へ出た。
一人が膝をつき、落ち葉を払う。
土が黒ずんでいた。
探索符を近づけると、下端から色が変わる。
別の術具を地面へ置いた。
針が揺れ、町のある南側を指す。
「こちらが、流れの来ている側です」
「山から町へ下りているのではないのか」
「逆です。町側から、この場所へ流れ込んでいます」
奉術衆は数か所で確かめ、地図へ矢印を書き込んだ。
怪異の集まっていた場所は、その流れが浅く地表へ近づくところだった。
「少しだけ遡ります。反応が強まったら止まります」
「小隊も同行する。周囲は任せてくれ」
斜面を下り、町側へ進む。
数十歩ほどで、術具の針が大きく揺れた。
「止まってください」
全員が足を止める。
「どうした?」
「上流側の筋が二本あります。南東と西から来て、ここで合流しています」
位置を変えて確かめる。
二本とも、合流点から山林の方へ向かっていた。
「旧水路の方角か?」
「南東は河川敷へ続く方の水路です。西は、もう一か所の調査地点に近い。
ただ、ここからつながっているかは、まだ分かりません」
地図へ二本の短い線を引いた。
その先は空白のまま残す。
「追えるか?」
「この先にも分岐があります。暗くなってから入り込むより、別班の記録と合わせたいです」
「では、今日はここまでにしよう」
隊長は小隊へ周囲の再確認を命じた。
奉術衆は合流点に観測用の札を置き、位置と方向を記録する。
旧水路へつながる可能性はあった。
だが、今見つかったのは、ここまでの二本の筋だった。
◇
その日の夜。
社務所では、玄斎と奉術衆が調査図を囲んでいた。
机の脇には、山林で回収した封印箱も置かれている。
「怪異への対処は終わりました。一体を封印して回収しています」
「旧水路は?」
「二か所とも、怪異は見つかっていません。妖気の流入は確認しました」
地図へ、それぞれの観測点が置かれる。
「西側の旧水路では、妖気は東から西へ。その先で北へ曲がっています」
「もう一方は?」
「北から南へ流れ、開いた継ぎ目から一部が西へ抜けていました。
そこから北側へ曲がる筋も確認しています」
水の方向を示した記録が重ねられた。
旧水路の中では、どちらも妖気と逆向きだった。
「山林側の合流点と合わせました」
男が拡大図を開く。
「各地点の間を地上から測り直したところ、同じ位置に反応がありました。
流れる方向も一致しています。この二本は、山林側へ届いています」
二つの旧水路から伸びた線が、山林の合流点へつながった。
玄斎が、その先を指す。
「以前の河川敷は?」
「南東の旧水路は、河川敷の近くを通っています。ただし、先日の流入経路と同じかは、まだ確認できません」
「ならば、そこは分けて記せ」
河川敷へ向かう候補の線が、点線で加えられた。
「流れの起点は?」
「未特定です。水路へ入る手前でも細かく分かれています」
「合流しているからといって、源まで同じとは限らんか」
「はい。一つの起点から分かれている可能性も、別々の場所から集まっている可能性もあります」
玄斎は確認済みの線を辿った。
「連盟の観測結果と合わせよう。この図を送り、未確認の区間も伝えよ」
「承知しました」
さらに、大社の周辺図が開かれた。
「こちらの筋は、四季狐大社の近くを通ります」
境内へ向かう線ではなかった。
その地下を横切り、別の場所へ続いている。
「結界への影響は?」
「今のところありません。流れも弱く、地表へ出る反応は確認されていません」
「周辺の観測を増やせ。強さが変わったときは、すぐ知らせるのじゃ」
奉術衆が頷いた。
玄斎は、大社のそばを通る線へ印をつけた。
◇
翌日の放課後。
藍子と琥珀は、四季狐大社の石段を上っていた。
「今日は、昨日の続きかな」
「多分」
「琥珀、昨日から記録ばかり見てるよね」
「次の配置を考えてる」
「配置を作るのは玄斎様でしょう?」
「玄爺に出す」
「難しいのを?」
「ん」
「私の訓練でもあるんだけど……」
石段を上り切る。
冷たい風が、石畳の落ち葉を転がしていた。
社務所へ向かおうとして、藍子は手水舎の前で止まる。
「藍子?」
「今、水が揺れなかった?」
琥珀も鉢を見る。
澄んだ水面に、枝が映っていた。
「風かも」
「うん。でも……」
近づく。
水面は、もう静かだった。
柄杓を取ろうとしたとき、指先へ冷たい感覚が触れた。
冬の空気とは違う。
水へ霊力を通す稽古で、普段の流れから外れたものに触れたときのような、かすかな違和感だった。
手を止める。
「水の中に、何かある気がする」
「見えない」
「私も、見えるわけじゃないけど……」
柄杓を置いた。
力を送り込まず、届いた感覚へ意識を向ける。
冷たさが、鉢の底の方から伝わっていた。
そこへ留まるのではなく、片側からもう片側へ抜けていく。
顔を上げ、手水舎の外を見た。
「こっちから、向こうへ」
東側を示し、それから西側を指す。
「玄爺を呼ぶ」
「勘違いかもしれないよ」
「確認する」
琥珀が社務所へ走った。
ほどなくして、玄斎が奉術衆の一人と現れる。
「藍子。何を感じた」
「鉢の底の方から、冷たいものが伝わりました。重くて……そのまま、向こうへ抜けた気がします」
同じ方角を示す。
奉術衆が地面へ探索符を置き、手水鉢のそばへ術具を下ろした。
反応が現れるまで、少し間があった。
「微量の妖気です。東側から西側へ流れています」
「昨夜確認した経路か?」
「はい。同じ位置を通っています」
玄斎は鉢と、結界の状態を確かめた。
「地表へ妖気が出たわけではない。地下の水脈を通り、こちらへ揺らぎが伝わったようじゃな」
「水には、入っていないんですか?」
「今の観測ではな。飲み水への影響も確かめさせる。お主は、もう探らずに待て」
手を下ろす。
水面には、何の変化もなかった。
それでも、自分の感じた方角と、術具の反応は一致していた。
「もう一度、分かるでしょうか」
「試そうとせんでよい。反応も弱まっておる」
玄斎の声で、鉢へ向けかけた意識を戻した。
「感じたことを、そのまま伝えたのはよかった。何だったかは、観測と合わせて確かめるのじゃ」
「はい」
琥珀が手元の紙へ書き込んでいた。
「何を書いてるの?」
「止まった時間と、方角」
「そういうのも残すんだ」
「あとで比べる」
玄斎が頷く。
「奉術衆は、この場所の観測を続けよ。二人の稽古は、今日は気配の違いを確かめるところまでにする」
「地下のものを調べるんですか?」
「いや。封じてあるものを使う。実際の流れを追う稽古ではないぞ」
「分かりました」
「琥珀も、観測を頼む」
「ん」
◇
玄斎が用意したのは、四つの小さな水鉢だった。
手水舎から汲んだ水が、同じ量ずつ入っている。
奉術衆が元の水に妖気の混入がないことを確かめてから、鉢が並べられた。
「まずは、答えを見ながら違いを覚える」
玄斎が一つ目を示す。
「これは、そのままの水じゃ。次は奉術衆の霊力。三つ目には、琥珀の霊力を残した札を使っておる」
「私の?」
「以前の検査で預かったものじゃ。使ってもよいか?」
「ん」
最後の鉢の下には、黒い印の札が置かれていた。
「こちらは封妖札じゃ。封を保ったまま、ごく弱い気配を鉢へ伝える」
「水に混ぜるわけではないんですね」
「うむ。確かめるのは違いじゃ。深く入り込もうとするでないぞ」
藍子は一つ目へ意識を向けた。
静かな水がある。
先ほどの冷たく重い感覚はなかった。
二つ目へ移る。
ごく弱い温かさのようなものが、鉢の内側へ広がっていた。
「これが、奉術衆の人の霊力……」
「今感じたものを覚えておけ。霊力でも、持ち主や流し方によって違う」
三つ目を見る。
「琥珀には、分かる?」
「少し。薄く白い」
「私には、色は見えないよ」
けれど、細く軽いものが広がっているように感じた。
二つ目と同じではない。
「自分のものだから、琥珀には見つけやすいんですか?」
「その可能性はある。じゃが、どこまで区別できるかは、これから確かめる」
四つ目へ移った。
最初は、水だけだった。
しばらく待つと、指先へ冷たい感覚が伝わる。
重い。
手水舎で感じたものに似ていた。
ただし、今度は通り過ぎない。
鉢の底の一か所に留まっている。
「さっきのものと、似ています。でも、動かない」
「流れているものと、封じたものでは違って感じるじゃろう」
玄斎が札を外した。
冷たさが薄れる。
「どうして、私にも気づけたんでしょうか」
「水を通して力の流れを確かめる稽古をしてきたからじゃろう。
九條家にも、水脈の変化に気づく者はおる」
「私も、そうなんですか?」
「血筋だけで決めることではない。
今分かっておるのは、お主が一度気づき、術具の反応とも合ったということじゃ」
藍子は静かな水を見た。
「冷たいかどうかで、妖気を見分けるんですか?」
「それだけでは分からん。熱や痛みに似て感じる妖気もある。
霊力でも、流れ方が乱れることはあるからの」
「なら、違うと思ったら、まず確かめる?」
「うむ。今のように、知っておる気配と比べる。そのうえで術具や採取した記録と合わせる。
違和感は、調べるきっかけじゃ」
すぐに、何でも見つけられるわけではなかった。
けれど、気づいたことを言葉にして伝えることならできる。
「次は、順番を隠してみますか?」
「やってみよう。ただし、分からぬものは分からぬと言うのじゃ」
「はい」
藍子が目を閉じる。
玄斎は鉢の下へ同じ形の台を置き、札が見えないようにした。
位置を入れ替え、琥珀へも答えを伏せる。
「よいぞ」
目を開けた。
四つとも、外からは同じに見えた。
左端へ意識を向ける。
水だけのように感じる。
けれど、何もないと言い切るほど、はっきりは分からなかった。
「これは、まだ分かりません」
「うむ。次へ」
二つ目には、細く軽い感覚があった。
「琥珀のものに、似ています」
「私も、そう思う」
三つ目へ移ろうとしたとき、四つの水面が小さく揺れた。
手を止める。
「今のは……」
鉢の中に残してあった気配とは別に、冷たさが通った。
右側から伝わり、左側へ遠ざかる。
顔を上げた。
「さっきのものが、また来た気がします」
玄斎は鉢ではなく、地面へ探索符を置いた。
淡い光の一部が黒く変わる。
「地下の流れじゃな。先ほどより反応が強い」
「東から西へ、ですか?」
「術具で確かめる」
琥珀が時刻を書き留めた。
「私には、水が揺れたところまで」
「それでよい。感じなかったものまで、合わせる必要はないぞ」
玄斎は封妖札を収め、ほかの札も外した。
「今日は、ここまでじゃ」
「まだ、二つしか見ていません」
「用意したものとは別の反応が来ておる。この状態では、何を感じたのか分けにくい」
藍子は頷き、手を膝へ下ろした。
「二人は社務所へ移ろう。地下の観測は奉術衆に任せる」
水鉢を運ぶ奉術衆に続き、立ち上がる。
手水舎の水面は、もう静かだった。
玄斎はそばに置いた探索符を確かめ、通信具を取り出していた。
◇
社務所で待っている間、藍子は机へ並べられた水鉢を何度も見た。
「追わない」
隣から声が届く。
「まだ何もしてないよ」
「集中しかけた」
「少し気になっただけ」
「玄爺が、任せるって」
「……うん」
水鉢から目を離す。
戸が開いた。
玄斎に続いて、三人の奉術衆が入ってくる。
一人は地図と記録板を持ち、残る二人は観測用の術具と札を抱えていた。
「待たせたな」
「地下の流れは?」
「大社の東西と、境内の外に観測点を置いた。次に通れば、方向と時刻を比べられる」
机へ地図が広げられた。
三つの印が書き込まれている。
「今から先を追うんですか?」
「いや。まずは、同じ筋が通るかを見る。昨夜の記録とも合わせるのじゃ」
琥珀が一枚の紙を置いた。
「玄爺」
「なんじゃ」
「次が来るなら、もうすぐかも」
玄斎が紙へ目を向ける。
「手水舎で、藍子が止まったのが四時二十三分。水鉢が揺れたのが、四時四十七分」
「二十四分くらいだね」
藍子も見比べた。
「秒までは書いてない」
「間隔を見たのか?」
「ん。同じくらいなら、次は五時十一分ごろ」
室内の時計は、五時十分に近づいていた。
「二度だけでは、偶然かもしれんぞ」
「だから、次も書く」
玄斎が奉術衆へ顔を向ける。
「各観測点へ伝えよ。五時十一分前後の反応を確かめる。
ただし、その時刻以外の変化も記録するのじゃ」
「承知しました」
通信が送られる。
机には、地下の反応を測る札が置かれた。
藍子は水鉢へ意識を向けかけ、玄斎に止められた。
「自分から探らずに待て」
「はい」
膝の上で手を重ねる。
秒針の音が聞こえていた。
五時十一分。
何も起こらない。
「外れた?」
「まだ、分からない」
琥珀は時計を見ている。
十秒。
二十秒。
机の端の札が、かすかに震えた。
「反応があります」
奉術衆が記録板を確かめる。
続いて、水面へ小さな波紋が広がった。
藍子の指先にも、冷たく重い感覚が届く。
「似ています。さっきと」
玄斎がこちらを見る。
「感じた範囲だけでよい」
「片側から来て、通り過ぎました。東から西へ、だと思います」
通信具から報告が入る。
『東側観測点、五時十一分三十一秒に反応。西へ移動しています』
別の声が続いた。
『西側は五時十一分三十八秒。大社から離れる方向です』
「こちらの札は、五時十一分三十四秒です」
奉術衆が告げた。
三つの観測点で、東から西へ通過した順番が揃っていた。
琥珀も時刻を書き足す。
「二十四分くらい」
「うむ。今回も近い。じゃが、周期と決めるには、まだ足りん」
玄斎は三つの記録を並べた。
「観測を続ける。山林と旧水路の班にも、時刻を合わせて記録するよう伝えよ」
「はい」
「連盟には、流れが強まるときに怪異の反応も変わるか、照合を頼む」
藍子は地図を見た。
「同じ間隔なら、誰かが送っているんですか?」
「自然の流れにも揺らぎはある。間隔だけで決めることはできん。
方向、強さ、妖気の性質を合わせて調べるのじゃ」
水鉢の反応は、もう静かになっていた。
奉術衆は術具の記録を保存し、外の観測点へ連絡を続けている。
隣へ目を向ける。
「最初から、時刻を書いてたんだね」
「何が必要になるか、分からなかったから」
「私、変だと思ったことしか覚えてなかった」
「藍子が気づいたから、書けた」
琥珀は紙を玄斎へ差し出した。
玄斎が受け取り、観測記録へ重ねる。
「二人の記録も残しておく。今日は、ここまでじゃ」
「次も二十四分くらいなら……」
「観測は奉術衆が続ける」
藍子が口を閉じると、琥珀も地図を見た。
「藍子が感じたことも、比べた方がいい?」
「今回、術具と照合できた。次からは、その観測を続けられる」
玄斎は二人へ顔を向けた。
「気づいたことを伝え、記録を渡した。その先は、こちらへ任せよ」
「……はい」
「ん」
立ち上がる。
水鉢は机へ残した。
社務所を出ると、境内は夜の暗さに包まれていた。
石段の先には、町の明かりが見える。
「琥珀」
「なに?」
「次の時刻、気になる?」
「気になる」
「私も」
足を止めかけ、社務所を振り返った。
窓の向こうで、奉術衆が新しい記録を開いている。
「……明日、聞こう」
「ん」
二人で石段を下り始める。
その背後では、観測用の札が次の流れを待っていた。




