第十七話 力の通り道
第十七話 力の通り道
調整池での戦いから、三日が過ぎた。
あの事件は、一般には地下設備の故障による水道施設の一時封鎖として発表された。
学校でも設備の老朽化が話題になったが、藍子は何も言わず、いつもどおり授業を受けていた。
怪異の出現は一度落ち着いた。
ただし、身体までいつもどおりとはいかなかった。
「藍子、遅い」
放課後の通学路で、数歩先を歩いていた琥珀が振り返る。
「遅くないよ。琥珀がいつもより速いの」
「合わせてる」
「それで合わせてるの?」
「ん」
鞄を持ち直し、小さく息を吐いた。
戦闘翌日のような重さは残っていない。それでも階段を上ったり、長く歩いたりすると、普段より早く疲れを感じた。
玄斎からは、霊力が十分に戻るまで《徒桜》へ乗らないよう言われている。
その間の稽古も、構えの確認や軽い動作が中心だった。
「今日も座学かな」
「多分」
琥珀が隣へ戻ってくる。
そのまま歩いていると、今度は藍子の方が半歩先へ出た。
「……さっきより遅くなってない?」
「藍子に合わせてる」
「座学が嫌だから時間を稼いでない?」
「気のせい」
「本当に?」
「ん」
疑わしい返事を聞きながら、二人は四季狐大社の石段を上った。
◇
境内の稽古場所には、薙刀も水桶も用意されていなかった。
代わりに置かれていたのは、二枚の座布団と、大小二つの水鉢だった。
鉢の間には、浅い溝を刻んだ細長い樋が渡されている。
大きな鉢は低い台の上にあり、小さな鉢はそれより一段低い。
樋は小さな鉢へ向かって傾いていたが、入口だけは大きな鉢の水面より高い位置にあった。
「来たか」
縁側に座っていた玄斎が、二人へ顔を向ける。
「玄斎様。今日はこれを使うんですか?」
「うむ。藍子は水を入口まで持ち上げ、樋へ流してみよ。小さな鉢の印まで移したら止めるのじゃ」
受け側の鉢には、縁より低い位置に線が引かれていた。
「樋の中も、霊力で運ぶんですか?」
「どうすれば少ない力で運べるか、まずは試してみよ」
藍子は大きな水鉢の前へ座った。
両手を向け、胸の奥から指先へ霊力を流す。
水面が持ち上がった。
細い流れを樋の入口へ伸ばし、そのまま先へ押し出す。
水が溝に沿って進んだ。
思ったより速く、小さな鉢へ落ちていく。
「印まで来た」
琥珀が告げた。
慌てて霊力を切る。
入口へ持ち上げていた水は鉢へ戻ったが、樋の中に残った分は流れ続けた。
小さな鉢の水面が線を越える。
最後の水が落ちたときには、縁の近くまで満ちていた。
「あ……」
「止めたあとも来た」
「うん。そこまで考えてなかった」
玄斎が樋へ目を向けた。
「入口まで持ち上げれば、あとは傾きに沿って流れる。途中まで押し続ける必要はあったか?」
「……なかったかもしれません」
「今度は、入口へ届かせる分だけ使ってみよ。止めるときは、樋に残る水も見込むのじゃ」
小さな鉢を空にし、元の位置へ戻す。
藍子はもう一度、水へ意識を向けた。
今度は細く持ち上げ、樋の入口へ触れさせる。
そこから先には力を足さなかった。
水は溝を伝い、自分で低い方へ進んでいく。
「流れてる」
琥珀が出口を見ている。
藍子も、その先で揺れる水面へ目を向けた。
先ほどより使っている霊力は少ない。
それでも、水は小さな鉢へ届いていた。
印へ近づく前に、持ち上げる量を減らす。
入口へ送る水が細くなり、やがて途切れた。
樋に残った分が流れ落ちる。
水面は、印の少し下で止まった。
「今度は、少し足りませんでした」
「うむ。じゃが、使わずに済む力があったことは分かったな」
藍子は頷いた。
玄斎が大きな鉢の底を示す。
減った水が、下から少しずつ補われていた。
「この鉢は境内の水脈につながっておる。水は、お主が運び出す前からここへ来ておるのじゃ」
「《徒桜》なら、青龍コアですね」
「そうじゃ。お主の霊力も必要じゃが、すべての動きを己の力で補おうとする必要はない。
すでにある力を、使う場所へ導くことを覚える」
藍子は大きな鉢と、樋を見比べた。
調整池では、機体が押されるたびに霊力を足した。
足が滑れば、もっと流さなければと思った。
動かすために必要な分と、怖くて加えていた分。
その違いを、まだ自分では見分けられていなかった。
◇
玄斎は樋の途中にある支えを動かした。
三つに分かれた溝の中央が、わずかに持ち上がる。
「次は途中を変える。藍子は、水をこぼさずに受け側へ届けよ」
樋の横には、三枚の細長い札が置かれた。
「これは、お主がその場所へ流す霊力に反応する。水量を測るものではないぞ」
「水の流れは、見て確かめるんですね」
「うむ。琥珀は水が滞った場所と、藍子が力を使いすぎている場所を知らせよ」
「両方見る」
「ただし、順番を考えるのじゃ。一度に全部言えば、藍子も迷う」
琥珀が札の位置を確かめた。
「入口、中央、出口」
「それでよい」
玄斎が中央の支えを元へ戻す。
小さな鉢を空にし、二人が座り直した。
藍子は水を入口へ持ち上げた。
そこに対応する札へ、淡い青色が浮かぶ。
中央と出口の札は、ほとんど色を変えなかった。
その二か所には、まだ霊力を加えていない。
水が小さな鉢へ届き始めたところで、玄斎が中央の支えを上げた。
溝のつなぎ目が少し高くなる。
水が手前でたまった。
「中央で止まりそう」
琥珀の声に、藍子は入口から送る力を増やしかけた。
指先を止める。
入口には、すでに水が届いている。
中央の水だけへ意識を向けた。
持ち上がったつなぎ目を越えるよう、薄く霊力を添える。
たまっていた水が先へ進んだ。
「通った。でも、中央の札が濃い」
「もっと減らせる?」
「少しずつ」
流す量を弱める。
札の青が薄くなった。
水は、まだつなぎ目を越えている。
もう少し弱めると、そこで流れが細くなった。
「そこまで。今ので通ってる」
藍子はその量を保った。
強く押さなくても、少し支えれば進む。
玄斎が中央を下げ、今度は出口側を持ち上げた。
「出口でたまってる」
そちらへ意識を移す。
出口の水を支えた途端、中央の札がまだ青いことに気づいた。
もう、そこは低く戻っている。
「中央、要らないかも」
琥珀にも言われ、霊力を収めた。
水は止まらなかった。
「使う場所が変わったのに、残してた……」
「ん」
小さな鉢の水面が上がる。
藍子は札へ目を向け、出口も見ようとした。
「藍子、鉢の印」
「あっ」
入口へ送る水を細くする。
印を越える前に止められたが、今度はぎりぎりだった。
「忙しい……」
膝へ手を下ろすと、琥珀が三枚の札を指した。
「札は私が見る。藍子は、水と鉢」
「お願い。使いすぎてたら教えて」
「ん」
次の一回では、玄斎が動かす支えを先に見ようとしなかった。
水がどこで滞るかを確かめ、琥珀の声を待つ。
「中央にたまってる」
その場所だけを支える。
「通った。札、少し濃い」
水が止まらない範囲で弱める。
「そのまま」
続いて出口の高さが変わった。
「出口。中央は戻った」
中央へ送っていた霊力を収め、出口へ添え直す。
入口から持ち上げる量は増やさなかった。
印へ近づいたところで、供給を細くする。
最後に残った水を見送り、途中へ添えていた霊力も収めた。
水面は線のすぐ下に落ち着いた。
「できました」
琥珀も鉢を覗き込む。
二人で、揺れが収まるのを待った。
「越えてない」
「うん。今度は、残っていた分も見て止められた」
藍子は琥珀へ顔を向けた。
小さく頷き返され、ようやく肩の力が抜ける。
操作へ集中して疲れはしたが、最初に水を押し続けたときほど、霊力を使った感覚はなかった。
玄斎が札を並べ直した。
「入口へ送る力を増やさず、必要な場所へ加えられたな。使わなくなった場所から収めたのもよい。
機体でも、動きに合わせて流す先と量を変えるのじゃ」
藍子が頷くと、次に琥珀へ目を向けた。
「後半は、先に水の滞りを伝え、そのあとで使う量を知らせたな」
「先に、通さないと」
「そうじゃ。藍子が今何を直す必要があるか、考えて伝えられておった」
藍子は隣へ顔を向けた。
「この前も、助かったよ」
「調整池?」
「うん。水の中の小さい怪異も、柄へ流しすぎていたことも、自分では気づかなかった」
「次は、もっと早く言う」
「私も、言われたことに落ち着いて応えられるようにならないとね」
玄斎が水鉢を片づけ始める。
「続きは《徒桜》の操縦席で行う」
「乗ってもいいんですか?」
「回復の具合を確かめてからじゃ。機体は立たせん。まずは、コアから来る力を感じ取ってもらう」
「今日ですか?」
「明日じゃ。今日はここまでにしよう」
藍子が息を吐く。
横では、琥珀も座布団から立ち上がった。
「琥珀も安心した?」
「してない」
「今日はそればっかりだね」
琥珀は返事をせず、水鉢を持つ玄斎へ手を伸ばした。
◇
翌日の放課後。
体調と霊力の回復を確認してから、藍子は《徒桜》の操縦席へ座った。
機体は格納庫の固定台に膝をつき、両腕を下ろしている。
薙刀も装備していない。
正面には、青龍コアへ続く経路の表示が開かれていた。
『藍子、聞こえる?』
「聞こえてるよ。琥珀はどこ?」
『隣の観測室。玄爺もいる』
『わしをついでのように言うでない』
玄斎の声が割り込む。
「二人とも、ちゃんと聞こえてます」
操縦桿へ手を添えた。
戦闘へ出るわけではない。
そう分かっていても、操縦席が閉じると調整池の光景がよみがえった。
迫ってきた腕。
減っていく残量。
指が固くなるまで、操縦桿を握っていたこと。
『藍子、自分の霊力が上がってる』
琥珀に言われ、手元を見る。
また強く握っていた。
「まだ何もしてないのに……」
『まずは手を離してよい。動かす稽古ではないからの』
両手を離し、座席へ置く。
『呼吸を整え、己の霊力を感じよ』
ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥から腕へ。
腕から指先へ。
自分の中を流れる力なら、以前より分かる。
「自分の霊力は感じます」
『ならば、操縦席へ触れているところまで、薄く広げるのじゃ』
背中と足元、座席に置いた手へ霊力を通す。
押し出すのではなく、触れた場所を確かめるように。
『搭乗者側、安定』
琥珀が告げた。
「ここから、どうすればいいんですか?」
『その外側から来る力を探してみよ。急いで引き出す必要はない』
藍子は、自分の霊力が届いている先へ意識を向けた。
何も感じない。
呼吸と、格納庫の低い機械音だけが聞こえる。
もっと広げた方がいいのだろうか。
指先へ力を集めかける。
『手前、強い』
昨日と同じ声だった。
送り出しかけた霊力を収め、呼吸を整える。
水源は、自分が押す前からあった。
待つ。
座席の奥から、わずかな揺れが伝わってきた。
機械の振動とは違う。
もっとゆっくりとした、波のような感覚だった。
「何か、あります」
『どこじゃ』
「背中の後ろです。遠くで水が揺れているみたいな……」
『そこへ、細く霊力をつないでみよ』
藍子は広げていた力の一部を、その方向へ伸ばした。
つかもうとはしない。
波が届く先へ、細い道を残す。
正面の表示に、淡い線が灯った。
『コア側に反応。流れてる』
次の瞬間、背後の波が強くなった。
「え……?」
開いた道へ、予想より多くの力が入ってくる。
静かだと思っていたものの奥に、広く深い流れがあった。
表示が青く明滅する。
『流入、急上昇』
『藍子、開いた幅を保つな。少しずつ細くせよ』
玄斎の声が入った。
驚いて閉じかけた道を保ち、太さを減らす。
水鉢で覚えた加減より、ずっと小さく。
『まだ多い』
さらに細くする。
『そのまま』
琥珀の声で止めた。
表示の光が、一定の明るさへ落ち着く。
「これが、青龍の霊力……」
『うむ。お主の力は、今、その流れを導くために使われておる』
自分の霊力も使っている。
けれど、調整池で感じたように、流すたびに削られていく感覚は薄かった。
別の大きな力が来ている。
それを、自分が受け取れる幅へ収めている。
操縦桿へ触れようと、右手を動かしかけた。
『右腕へ寄った』
「右腕?」
手を止める。
機体の右腕へ向かっていた光が弱まった。
『動かそうとする意思にも応える。今日は、そこまでにするぞ』
玄斎が告げる。
藍子は琥珀の報告を聞きながら、受け取る量を少しずつ減らした。
機体へ広がっていた光を中央へ戻し、最後に経路を閉じる。
表示が暗くなった。
『気分は?』
「大丈夫です。緊張はしましたけど、身体は重くありません」
『記録でも、お主の消耗は少ない』
背もたれへ身体を預けた。
「前から、この力も使っていたんですよね?」
『うむ。適合したときから、青龍コアは《徒桜》を動かす力を与えておる。
じゃが、お主はその流れを確かめず、足りぬと思うたびに己の霊力を足しておった』
「今日は、どこから来ているのか分かりました」
『それが最初の一歩じゃ』
藍子は暗くなった線を見た。
力が来ることと、扱えることは違う。
ほんの少し開いたつもりでも、多すぎた。
「次も、動かさずに練習ですか?」
『うむ。必要な量で開き、乱さずに閉じられるまでな』
『私も見る』
琥珀の声が続いた。
「明日もお願い」
『ん』
◇
その後の三日間も、機体は動かさなかった。
一日目は、開いた直後の流入を抑えるところで玄斎の助言を受けた。
二日目には受け取る量が安定したが、閉じるときに力が右腕へ偏った。
三日目になって、ようやく一連の操作を自分で終えられた。
そして、翌日の放課後。
『経路、安定』
観測室から琥珀の声が届く。
藍子は受け取る量を保ち、正面の表示を確かめた。
「このまま閉じればいい?」
『今日は、右腕を動かしてもらう』
玄斎が告げた。
思わず操縦桿へ目を向ける。
『脚と胴体は固定してある。右手を胸の前まで上げ、指を開く。動作はそれだけじゃ』
「分かりました」
右の操縦桿へ手を添えた。
腕を上げようとした途端、琥珀の声が飛ぶ。
『藍子、自分の霊力が増えてる』
「まだ動かしてないよ?」
『動かす前に増えた』
手元を見る。
また、自分の力を加えていた。
『コアから来る流れはある。まず、それを右腕へ導いてみよ』
握る力を抜く。
右手を、胸の前へ。
動かしたい場所を思い浮かべ、受け取った霊力の向きを変える。
右腕へつながる表示に、青い光が伸びた。
低い駆動音が響く。
《徒桜》の腕が、ゆっくりと持ち上がった。
「動いた……」
胸の前へ近づく。
その位置を見て、腕を支える流れへ切り替えようとした。
遅れた。
手が目標を通り過ぎ、肩の高さへ向かう。
「止まって!」
操縦桿を押さえると、腕が急に止まった。
固定台へ、小さな振動が伝わる。
『右肩へ集まってる』
『押し戻そうとするな。上げるための力を減らし、その位置を保つ分へ変えるのじゃ』
玄斎の声を聞き、込めた力を緩める。
肩へ寄っていた光を整え、腕を少しずつ下げた。
『胸の前。そのまま』
「ここだね」
『ん』
大きな手が、目の前で止まっている。
次は指を開く。
藍子は操縦桿から右手を少し浮かせ、指先をゆっくり広げた。
機体の手も開いていく。
最後に小指が伸びた。
「できた!」
その瞬間、右腕の光が強くなる。
開いた手が、わずかに跳ね上がった。
『藍子、増えた』
「今のも?」
『喜んだところで』
藍子は口を閉じた。
嬉しいと思っただけで、流す力まで増えていた。
『感情を消す必要はない。じゃが、嬉しくても怖くても、使う量まで任せてはならん』
「難しいですね……」
『ゆえに稽古をしておる』
一度、息を整えた。
指を閉じる。
腕を元の位置へ下ろす。
上げたときより早めに、送り込む量を減らした。
琥珀の声を聞きながら、手を膝の横へ戻す。
『動作、終了』
そこで、青龍コアから受け取る量も減らしていく。
最後の光が消えてから、操縦桿を離した。
腕には、まだ力が残っていた。
呼吸も乱れていない。
「前より、少ない力で動かせました」
『うむ。ただし、今日は支えのある場所で、右腕を一度動かしただけじゃ。
歩きながら武器を扱えば、見る場所も流す先も増える』
「はい」
元へ戻った機体の手を見る。
今は、そこまでできていない。
それでも、どうやって上げたのかは分かった。
青龍から来る力を、自分が右腕へ導いた。
『今日のところは、悪くない』
玄斎の言葉に、もう一度手を見た。
『藍子』
「なに?」
『笑ってる』
自分の頬へ触れる。
「笑ってないよ」
『笑ってる』
「気のせいじゃない?」
『それは私の言葉』
「たまには使わせてよ」
通信の向こうで、琥珀が小さく息をついた。
藍子は、今度は隠さずに笑った。
◇
操縦席が開き、格納庫の冷たい空気が流れ込んできた。
上がってきた昇降台へ、慎重に移る。
調整池から戻ったときとは違い、足元はしっかりしていた。
床へ着くと、琥珀が待っている。
「お疲れ」
「琥珀もありがとう」
「私は見てただけ」
「見てくれてたから、落ち着いて動かせたんだよ」
二人で《徒桜》を見上げた。
機体は固定台へ膝をつき、両腕を下ろしている。
「次は左腕?」
「そうだと思うけど……」
観測室から戻った玄斎へ顔を向ける。
「次は両脚じゃ」
「いきなり立たせるんですか?」
「立たせぬ。固定したまま、足先まで力を通す」
「よかった……」
「その次は立たせるがな」
「やっぱり立たせるんですね」
「いつまでも座らせておくわけにもいかんじゃろう」
玄斎は当然のように答えた。
「ただし、一つずつじゃ。姿勢を保つための流し方を覚えるまでは、固定を外さん」
「分かりました」
「琥珀も、左右の偏りを見分けてもらう」
「ん」
藍子は機体の右手へ目を戻した。
「明日も頑張ろう」
「明日は休みじゃ」
「え?」
「消耗が少ないからといって、毎日同じ稽古を続ければよいわけではない。
今日は、集中し続けて疲れておるじゃろう」
身体は軽い。
けれど、頭の奥には鈍い疲れが残っていた。
流れを感じ、量を調整し、右腕へ送りながら報告を聞く。
一つ一つ確かめる間は、気を抜けなかった。
「では、境内で基礎稽古ですか?」
「それも休みじゃ」
「完全に休んでいいんですか?」
「休むことまで教えねばならんのか、お主には」
「そこまで無茶をしているつもりはないんですけど……」
「藍子は、休んでる時も何かしてる」
琥珀が言った。
「掃除とか、料理とか、洗濯とか」
「それは普段の生活でしょ」
「明日は私がする」
藍子は足を止めた。
「琥珀が?」
「ん」
「掃除と料理と洗濯を?」
「ん」
「一人で?」
「藍子は休む」
表情はいつもと変わらない。
本気で言っていることだけは分かった。
「……料理は私がするね」
「休んでない」
「じゃあ一緒に作ろう。私は横で教えるだけ」
「それならいい」
「洗濯も一緒にやろうか」
「それも教えて」
「結局、休めるかな……」
琥珀は先に格納庫の出口へ向かった。
玄斎が小さく笑う。
「母君にも頼んでおく。お主は、教えながら全部引き受けるでないぞ」
「気をつけます……」
藍子はもう一度だけ《徒桜》を振り返り、琥珀のあとを追った。
◇
二人が帰ったあと。
玄斎は大社の一室で、奉術衆からの報告を受けていた。
机には、二つの小さな容器が置かれている。
一方は、山中で討伐された付喪神から回収した金属片。
もう一方には、地下水路で採取した妖気の残滓を封じた札が入っていた。
「照合の結果は」
「完全に同一ではありません」
報告役の男が記録を開く。
「ただし、どちらにも外部から流れ込んだと見られる妖気が混じっています。
陰陽連盟から届いた追加記録にも、同様の例がありました」
机へ、新たな資料が並べられた。
山林。
河川敷。
閉鎖された工場。
場所も、現れた怪異の種類も異なる。
共通しているのは、通常より強い妖気を宿し、外から流入した痕跡が残っていることだった。
「確認できた件数は?」
「今回の二件を含めて五件です。いずれも関東圏ですが、互いに離れています」
広げた地図へ、五つの印が置かれる。
地脈や水脈に重なる場所もあれば、外れた場所もあった。
規則的な並びには見えない。
「同じ経路につながっておるか?」
「現時点では確認できません。それぞれ、現場へ流れ込んだ経路が異なります」
「起点は?」
「どの現場でも、まだ特定できていません」
玄斎は調整池の印へ指を置いた。
藍子は、青龍から来る力を自分で受け取り、扱える量へ収めようとしている。
怪異へ流れ込んだ妖気は、そうではなかった。
外から送り込まれた力が、個体の形さえ変えていた。
「何者かが、怪異を強化しているのでしょうか」
「その可能性は高くなった。じゃが、五件を同じ者が起こしたとまでは言えん」
玄斎は記録板を手元へ寄せた。
「流入した妖気の性質と、経路の作られ方を分けて照合せよ。
源が違っても、送り込む仕組みが同じかもしれん」
「承知しました」
「連盟にも、他地域で同じ痕跡がないか照会する。奉術衆は、確認できた経路の先を調べるのじゃ」
男が頷く。
「ただし、見つけても不用意に触れるな。流れが止まっておるからといって、安全とは限らん」
「はい」
奉術衆の男が一礼し、部屋を出ていった。
玄斎は地図の前に残った。
五つの現場から、確認できたところまでの線が伸びている。
その先は、どれもまだ空白だった。
偶然強い怪異が現れたのではなく、力が届く道があった。
玄斎は最初の記録を開き直した。
怪異の姿が変わる前、妖気が増え始めたところまで戻す。
今度は怪異そのものではなく、そこへ向かう流れを見ていた。




