第十四話 増えていく異変
第十四話 増えていく異変
数日後の朝。
藍子が居間へ入ると、テレビでは県内で相次いでいる事故について報じていた。
『今日未明、河川敷に設置されていた街灯三本が倒れているのが発見されました。
警察は強風または設備の老朽化が原因とみて調査しています』
画面には、根元から折れ曲がった街灯と、立入禁止の柵が映っている。
「昨日、風強かった?」
食卓に座っていた琥珀が、味噌汁から顔を上げた。
「強くなかった」
「だよね……」
ニュースが切り替わる。
『また、隣県の山間部では小規模な落石が発生し、県道の一部が通行止めとなっています。
現場付近で地震や大雨は観測されておらず――』
母が台所から料理を運んできた。
「藍子。座って食べながら見なさい」
「うん」
席へ着いたあとも、画面が気になった。
以前なら、街灯が倒れたと聞いても設備の故障だと思っただろう。
山の落石も、地盤が緩んでいたのだろうと考えて終わっていた。
「お母さん。この事故も怪異だと思う?」
「ニュースだけでは分からないわ」
「でも、風も地震もなかったって……」
「それ以外の原因もあるでしょう。
原因が分からないからといって、全部を怪異と結びつけてはいけないわ」
焼き魚の皿が、目の前へ置かれる。
藍子はテレビから目を戻した。
「……そうだね」
「玄爺に聞く」
琥珀が味噌汁を飲みながら言った。
「うん。今日、大社で聞いてみよう」
「それなら構わないわ」
母も席へ座った。
テレビでは、原因不明の停電について報じている。
藍子は箸を取った。
何もかも怪異だと決まったわけではない。
それでも、事故のニュースを以前より多く聞いているような気がした。
◇
学校でも、河川敷の街灯が話題になっていた。
「三本とも同じ向きに倒れてたらしいよ」
「強風じゃないなら、車でもぶつかったんじゃない?」
「三本全部に?」
「写真だと、道から離れてるけど」
携帯端末の画面を、数人が覗き込んでいる。
藍子も、席へ着く前に目を向けた。
街灯は川沿いに並び、同じ側へ倒れていた。
近くの柵は残っている。
「これ、帰りに通る人いる?」
「今日は橋の方から回る。そこ、立入禁止だって」
「その方がいいね」
鞄を机の横へ掛けた。
隣では、琥珀が教科書を出している。
始業の鐘が鳴り、端末を見ていた生徒たちも席へ戻った。
担任が出席簿を開く。
いつもと同じ朝だった。
◇
放課後、二人が四季狐大社を訪れると、境内に玄斎の姿はなかった。
「玄爺?」
琥珀が社務所の戸を開ける。
返事はない。
卓上には湯気の消えた茶と、開いたままの端末が残されていた。
「出かけてるのかな」
「地下かも」
奥の祭壇の前で、床が開いた。
地下へ続く階段から、玄斎が上がってくる。
「来たか」
「玄爺。朝の事故、怪異?」
琥珀がすぐに尋ねた。
「座れ。ちょうど、お主らにも話しておくことがある」
社務所の戸が閉められる。
二人が卓の前へ座ると、玄斎は端末を操作した。
空中へ地図が開く。
赤い印が、いくつも付いていた。
「これ、全部……?」
「この一週間で、怪異の関与が疑われている場所じゃ」
山間部、河川敷、住宅地の近く。
海岸沿いにも印がある。
「朝の街灯も?」
「調査中じゃ。現場から微量の妖気は検出されたが、それが倒れた原因かは、まだ分からん」
藍子は母の言葉を思い出した。
「妖気があっても、怪異が壊したとは限らないんですね」
「うむ。以前から残っておったものかもしれん。現場の傷や周囲の記録も調べておる」
玄斎が地図を縮小した。
表示される地域が広がり、別の印が現れる。
「ただ、疑いのある報告が増えておるのは確かじゃ。
調査で怪異の関与が確認された件数も、先月より多い」
「この町だけじゃないんですね」
「連盟も、各地の警戒を強めておる」
端末から短い警告音が鳴った。
新しい印が一つ、地図へ加わる。
玄斎が報告を開いた。
「町の北側で停電じゃ。その直前、近くの用水路から大きな音を聞いた者がおる」
藍子は地図へ身を寄せた。
「ここ、学校からも近いですよね」
「うむ。今のところ、けが人は確認されておらん」
「妖気は?」
琥珀が印を見つめる。
「奉術衆が向かっておる。まだ分からん」
住宅地の道路と用水路が拡大された。
水路は町の北から南へ伸び、途中で古い水門と地下水路へつながっている。
知っている通りの名前があった。
藍子は、そこを学校帰りに歩く生徒の顔を思い浮かべた。
「……今日は、ここで稽古をしていて大丈夫ですか?」
「大社の周辺では異変は見つかっておらん。じゃが、わしは現場からの報告を受けねばならぬ。
稽古は休みにしよう」
「それなら、ここで手伝えることはありませんか?」
玄斎が顔を上げた。
「現場には行きません。護符を揃えるとか、今の私たちにできることがあれば」
「私もやる」
琥珀が隣から言った。
玄斎は二人を見てから、社務所の奥へ向かった。
「ならば、護符の準備を手伝ってもらおう」
木箱が卓上へ置かれる。
中には、何も描かれていない紙が束になっていた。
筆と墨、見本の護符も並べられる。
「現場の通路を区切り、退路を確保するためのものじゃ。
備えは持たせておるが、地下水路まで調べるとなれば、追加が要るかもしれん」
「術式を書くんですか?」
「それはわしがやる。藍子は紙をこの大きさへ切り分けよ。
琥珀は傷や折れがないか確かめ、十枚ずつ揃えてくれ」
「私は確認」
「うむ。傷んだものは別にするのじゃ」
藍子の前へ、定規と小刀が置かれた。
「何枚必要なんですか?」
「まずは百枚じゃ」
「百枚……」
紙束を見て、見本へ定規を当てる。
琥珀も一枚取り、窓の明かりへ透かした。
「これ、端が折れてる」
「別にしておいて」
「ん」
藍子が切り分けた紙を、琥珀が一枚ずつ確かめる。
傷のない紙が玄斎へ渡り、筆先から術式が描かれていった。
しばらくして、端末が鳴った。
『現場へ到着しました。用水路周辺から妖気を確認。反応は地下水路の奥から流れてきています』
「強さは?」
『魑魅魍魎級一体としては強すぎます。複数の反応が重なっている可能性もありますが、入口からでは判別できません』
玄斎が筆を置いた。
「入口周辺の避難と封鎖を優先せよ。内部へ入る前に、退路を確保するのじゃ」
『承知しました。物資用の受取陣も用意します』
別の回線が開かれる。
「こちら四季狐大社、屋島玄斎。町北側の地下水路から強い妖気が検出された。
調査への支援と、神機の待機を要請する」
『陰陽連盟関東支部、受領しました。術者小隊と設置班を派遣します』
「神機陣の候補地は、地下水路につながる調整池の周辺じゃ。奉術衆から現場の情報を送らせる」
回線を切り、再び筆を取った。
藍子は切りかけの紙へ定規を合わせる。
「《朧》も、準備するんですね」
「うむ。前の件もある。何がいるか確かめてから用意したのでは、間に合わぬかもしれん」
小刀を引くと、紙の端がわずかに曲がった。
その一枚を脇へ置く。
新しい紙へ定規を当て直した。
◇
「書けた分、七十枚」
琥珀が完成した護符の束を揃えた。
「切る方は八十枚目。あと二十だね」
藍子は新しい紙へ定規を当てた。
確認を終えた紙が、玄斎の前へ置かれる。
揃った護符の端は均等に重なり、折れたものも混ざっていない。
「早いね」
「藍子より速い」
「私は切るところからやってるからね」
琥珀が次の紙を明かりへ透かす。
玄斎の筆は止まらなかった。
最後の一枚へ術式を書き込み、霊力を通す。
金色の光が紙へ沈んだ。
「これで百枚じゃ」
護符の束が木箱へ収められた。
玄斎は箱の四隅へ小さな札を貼り、卓の横に敷いた術式の中央へ置く。
「これで送るんですか?」
「小さな物資を送るための陣じゃ。神機の招来とは別のものじゃぞ」
端末で受取先を確かめ、短い祝詞を唱える。
床の線が金色に輝いた。
木箱の姿が薄れ、光とともに消える。
すぐに、端末から確認の音が鳴った。
『護符百枚、受領しました』
琥珀が、箱のあった場所を見る。
「届いた」
藍子も空いた術式へ目を向けた。
先ほどまで、自分が一枚ずつ切っていた紙だった。
「現場の状況は?」
玄斎が尋ねる。
『入口周辺の避難と封鎖は完了しました。地下水路の構造を確認しながら、内部の調査を進めます。連盟の設置班は調整池脇で神機陣の準備に入りました』
「等級と数が分かるまでは深追いするでない。異変があれば、すぐに戻れ」
『承知しました』
通話が切れた。
窓の外では、境内の灯籠が点いている。
藍子は拡大された地下水路の図を見た。
いくつもの枝が、住宅地の下へ伸びていた。
「神機は地下に入れませんよね」
「うむ。内部は奉術衆が確かめ、連盟は地上で対処できるよう準備する。互いに情報を送っておる」
「私たちが用意した護符は、通路を塞ぐんですか?」
「退路を守り、住宅地側への経路を区切る。
全ての通路を塞げるわけではないから、構造を確かめながら置くのじゃ」
玄斎が新しい紙束を卓上へ置いた。
「念のため、次も用意しよう」
藍子は定規を取った。
琥珀も、空の木箱を引き寄せる。
◇
日が沈んだ頃、地下水路では四人の奉術衆が慎重に進んでいた。
先頭の一人が灯りと探索符を持つ。
続く二人は分岐を確かめ、左右の壁へ護符を貼っていた。
最後尾は、来た道を警戒している。
「第三分岐、封鎖完了」
「住宅地側の通路と接続を確認。次へ進む」
足元の水は浅かった。
進むほど、探索符の光が強くなる。
「反応が重なっている」
「複数か?」
「数までは分からない」
灯りが、通路の奥へ向けられた。
濡れた壁に、黒い塊がいくつも張りついている。
一つ一つは、人の腕ほどの大きさしかない。
泥や苔、折れた枝、錆びた金属片を取り込み、不揃いな形を作っていた。
「魑魅魍魎級を確認。十二……まだ奥にもいる」
「この範囲に、それほど集まっているのか」
一つが壁から離れた。
続いて、周囲の塊も動き始める。
「ここまでだ。結界を展開!」
左右の護符へ霊力が通る。
通路を横切る光の壁が生まれ、迫ってきた怪異を押し返した。
「後退する。数と位置を連盟へ送れ」
「待て。集まっている」
結界の向こうで、怪異たちが互いへ身体を押しつけていた。
泥と苔、木片と金属片が絡み合う。
小さな霊核を包む身体が重なり、境目が見えなくなっていく。
「融合している……?」
妖気が急激に膨れ上がった。
通路の水面が震える。
天井から砂が落ち、結界を支える護符の端が裂けた。
「全員後退! 大社と連盟へ通達しろ!」
◇
社務所の端末から、切迫した声が響いた。
『複数の魑魅魍魎級が融合を開始。妖気が急速に増大しています!』
藍子の小刀が止まった。
玄斎が地下水路の図を開く。
「怪異の位置は?」
『第五封鎖線の奥です。住宅地側の分岐を塞ぎ、調整池へ通じる経路へ後退します』
「追いつかれる前に次の結界を展開せよ。残っている個体にも注意するのじゃ」
回線を保ったまま、連盟へ連絡を入れる。
「複数個体の融合を確認。妖殻化の可能性がある。調整池への誘導に合わせ、迎撃の準備を進めてくれ」
『承知しました。神機陣は浄化を終え、母陣への接続調整に入っています』
「周辺の避難範囲も広げよ。入口付近だけでは足りぬ」
地図へ黄色い範囲が加わる。
用水路の周辺から、住宅地の通りへ広がっていった。
「今の結界、さっき送った護符なんですか?」
藍子が尋ねた。
『はい。追加分を分岐へ配置できたので、住宅地側を封鎖できています』
通信の向こうで、何かがぶつかる音がした。
『第四封鎖線へ下がります!』
藍子は手元へ目を戻した。
まだ、用意できる紙がある。
切り分けた一枚を琥珀へ渡す。
琥珀も傷を確かめ、玄斎の前へ置いた。
◇
奉術衆の四人は、護符で区切った通路を後退していた。
奥では、融合を続ける怪異が第五結界へ身体をぶつけている。
衝撃のたびに、壁の護符が揺れた。
「第四結界、展開!」
次の札が光る。
四人がその内側へ退いた直後、第五結界が砕けた。
泥と木片、錆びた金属が絡み合った身体が通路を塞いでいる。
すでに人の背丈を超えていた。
胸の辺りでは、小さな霊核が重なり、不安定な赤黒い光を放っている。
「破られた第五の術式を切り離す。第四の出力を保て!」
隊員の一人が印を結ぶ。
奥の護符から光が消え、第四結界の揺れが収まった。
先頭の灯りが、次の分岐を照らす。
片方は住宅地へ、もう片方は調整池へ続いていた。
「住宅地側を封鎖。こちらへ下がる!」
護符が投げられ、分岐を塞ぐ。
四人は調整池へ通じる道へ退いた。
背後で、第四結界が破られる音がした。
怪異の身体が分岐へ押し寄せる。
先端の塊が住宅地側へ伸び、光の壁へぶつかった。
護符が揺れる。
隊員の一人が足を止め、壁へ霊力を送り続けた。
「こちらは保てる。先へ行け!」
怪異がもう一度、壁を押した。
通り抜けられず、膨れた身体が調整池側へ向きを変える。
「誘導路へ入った!」
最後尾の隊員が、踏み留まっていた一人へ手を伸ばした。
二人で下がり、先行した者たちへ追いつく。
「住宅地側、封鎖を維持。地上へ連絡!」
◇
調整池脇の開けた場所では、陰陽連盟の設置班が作業を進めていた。
四本の術式杭の間へ描かれた陣が、淡く明滅している。
奉術衆が地下水路の出口から上がると、連盟の指揮官が駆け寄った。
「現場指揮を引き継ぎます。対象は?」
「融合体を調整池側へ誘導しました。住宅地へ続く分岐は封鎖しています。
ほかの個体が残っている可能性があります」
「結界はどれほど保ちますか?」
「長くて五分。妖気は今も増えています」
指揮官が設置班へ顔を向ける。
「招来までの残り時間は?」
「三分ほどです。接続経路の最終調整に入っています」
「術者小隊は出口を包囲。奉術衆は住宅地側の封鎖を維持してください」
奉術衆の四人が池の外周へ移動する。
連盟の術者たちは出口の周囲へ護符を配置した。
別の隊員が、住宅地の避難状況を通信で確かめている。
「地下から来ます!」
水路の出口から、濁った水が噴き出した。
池へ波が広がる。
水面の一部が盛り上がり、黒い塊が姿を現した。
「防護結界の内側へ下がれ!」
術者たちが距離を取る。
怪異は地下にいたときより、さらに大きくなっていた。
泥と金属片をまとった四本の脚が池の底を捉え、重い身体を持ち上げる。
胸部では、いくつもの光が重なり合っている。
「融合体、出現!」
「妖殻化は?」
「まだ外殻は形成されていません!」
「拘束する。霊核の融合を止めろ!」
護符が一斉に放たれた。
光の縄が脚と胴体へ巻きつく。
怪異が前へ進もうとするたび、縄が張った。
四方から封印の術式が重ねられる。
胸部の赤黒い光が、少しずつ弱まっていった。
「反応低下。拘束を維持!」
その直後、水路の出口から黒い霧が噴き出した。
水面を走り、拘束された怪異へ吸い込まれていく。
「地下から妖気が流入!」
「出口を封じろ!」
術者が護符を放った。
水路の口を光が覆う。
黒い霧がその壁へ押しつけられ、光が大きく揺れた。
壁と水面の間に隙間が生じる。
そこから細い霧が漏れ出し、融合体へ流れ続けた。
「封鎖が押されています!」
術者が新たな護符を重ねる。
しかし、融合体の胸部は再び強く輝いていた。
重なっていた光が一つへまとまり、その周囲に黒い膜が広がった。
「妖殻化を確認!」
膜が膨らみ、硬い外殻を作っていく。
光の縄が一本切れた。
続いて、別の一本が弾ける。
「術者小隊、後退! 招来はまだか!」
「接続完了まで十秒!」
設置班の声が返る。
四本の杭が輝いた。
円形の術式が青白い光に満たされる。
「母陣との接続を確認!」
「《朧》を招来する!」
陣の中央に、光の柱が立ち上がった。
巨大な人型の影が形を作る。
白を基調に、紺と赤の装甲をまとった神機。
《朧》が地面へ降り立つと、胸部の術式が点灯した。
『現場へ到着。調査員と術者の退避を確認します』
「対象は調整池内。地下から妖気の流入があります!」
『了解。これより迎撃します』
◇
社務所の画面に、調整池の映像が届いた。
藍子は切り分けた紙を置き、顔を上げる。
《朧》が長刀を抜いた。
その前で、融合体の外殻がなお厚くなっている。
「玄爺。地下にもいる?」
琥珀が尋ねた。
「その可能性がある。奉術衆が反応を確かめておる」
「送ってるのも、残った怪異なんですか?」
「まだ分からん。じゃが、あの流れを止められねば、地上の相手も力を増し続ける」
玄斎は、地下水路の図を映像の隣へ開いた。
封鎖した分岐を示す印が並んでいる。
藍子はその一つを見た。
自分たちが用意した護符も、そこに使われている。
《朧》が地面を蹴った。
長刀が融合体の前脚へ振り下ろされる。
外殻が砕け、泥と金属片が池へ落ちた。
支えを失った前脚が崩れる。
怪異は残る三本の脚で身体を支えた。
胸部へ集まった妖気が、正面へ噴き出す。
『高密度の妖気を確認!』
《朧》が刀を斜めに構える。
黒い流れが機体へぶつかり、脚が泥を削った。
長刀で向きを逸らしながら下がり、神機陣の手前で踏み留まる。
『機体損傷は軽微。戦闘を継続します』
藍子は画面を見つめた。
機体の後ろには、陣を守る術者たちがいる。
横へ大きく退けば、怪異の正面にその人たちが残る。
《朧》は再び刀を構えた。
「増援は出せるか?」
玄斎が連盟との回線を開く。
『近隣で別の怪異反応が二件発生しています。すぐに動かせる機体は、そちらへの対応に回りました』
「予備機は?」
『関東支部の母陣へ一機を移送しました。ただし、現場では一機が同じ母陣と接続中です。
二機目の招来には、接続経路の拡張が必要です』
「所要時間は?」
『術式杭の増設と接続調整を含め、二十分ほどです。現場の設置班へ準備を指示しました』
「進めてくれ。こちらも追加の護符を送る」
玄斎が、完成した束を木箱へ収めた。
琥珀が枚数を確かめる。
藍子は地図へ目を向けた。
黄色い避難区域が、先ほどより広がっていた。
調整池の周囲だけでなく、地下水路の上にある住宅地も含まれている。
『拡大した避難区域の誘導を継続中。南側の通りに、まだ住民が残っています』
現場から報告が入る。
藍子は、黄色い線がかかった通りを目でたどった。
朝、教室で話していた橋へ続く道だった。
街灯の倒れた河川敷を避けて、そちらから帰ると言っていた。
もう家へ着いただろうか。
少し前まで、安全だと思って選んだ道にも、避難を知らせる人が向かっている。
「《朧》一機では、間に合わないんですか?」
「倒せぬと決まったわけではない。じゃが、供給される妖気を断ちながら、住宅地への経路も守らねばならん」
画面の中で、《朧》が怪異の脚を受け流した。
長刀が胴体へ届く。
砕けた外殻の下で、黒い膜が再び厚くなっていた。
玄斎が地下の封鎖線を指す。
「奉術衆は残存個体と妖気の流れを調べておる。連盟は地上を押さえ、増援の準備を進める。
今は、その二つを保たねばならぬ」
「玄爺」
琥珀が祭壇へ目を向けた。
「《徒桜》なら?」
藍子も、地下へ続く床を見た。
「機体の出力は高い。じゃが、それだけで安全に対処できる相手ではない」
玄斎が二人へ顔を向ける。
「狭い調整池で、術者や避難中の住民を巻き込まずに戦う必要がある。
地下の個体まで、機体一つで止められるわけでもない」
藍子は右手を握った。
先日の稽古では、水を横へ飛ばすだけでも琥珀へかけてしまった。
あの機体を動かせることと、今ここで必要な動きができることは違う。
それでも、画面から目を離せなかった。
「……増援を待つ間に、住宅地へ出てしまったら?」
「出さぬために、封鎖と避難を進めておる」
玄斎は、藍子をまっすぐに見た。
「お主へ今すぐ乗れと言うつもりはない。まだ訓練も足りず、投入する準備も整っておらん。
焦ったまま出せば、守る側にも危険を増やす」
「はい……」
「お主一人が背負わねばならぬ戦いではないぞ」
その言葉を聞いても、右手の力は抜けなかった。
長刀を振るう《朧》。
陣の周囲で作業を続ける設置班。
地下の分岐を守る奉術衆。
誰も、藍子が来るまで待っているわけではなかった。
端末から、新たな警告音が鳴った。
『地下第三封鎖線、破損を確認!』
玄斎が地図を切り替える。
『残存個体が住宅地側の通路へ移動しています。第二封鎖線まで後退し、再展開します!』
「追加の護符を送る。南側への避難を急がせよ。連盟にも位置を共有するのじゃ!」
『承知しました!』
琥珀が木箱の蓋を閉じた。
玄斎が転送陣へ置く。
光が立ち上がり、箱が消えた。
藍子は空いた卓上と、赤く点滅する水路を見比べた。
調整池の怪異だけではない。
別の個体が、橋へ続く通りの下を動いている。
増援まで二十分。
藍子は残った紙へ定規を当てた。
画面の中で、《朧》が押し戻される。
小刀へ伸ばした手が止まった。
機体が踏み留まり、長刀を構え直す。
まだ戦っている。
藍子は切りかけの紙へ目を戻した。
定規が少しずれていた。
見本の幅へ合わせ直し、左手でしっかり押さえる。
小刀を引いた。
切り離した紙の端を確かめ、琥珀へ渡す。
琥珀は明かりへ透かしたあと、玄斎の前へ置いた。
筆が動く。
藍子は次の紙を取った。




