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第9話 請求書に記された結婚の値段

第9話 請求書に記された結婚の値段


十月の終わり、萌香の勤める会社へ一通の内容証明郵便が届いた。灰色のジャケットに白いブラウスを合わせた萌香は、総務担当者から封筒を受け取り、会議室の隅で封を切った。窓の外には黄色く色づいた銀杏が見え、机には昼休みに飲み残したミルクティーが置かれていた。


差出人は遠藤孝之法律事務所だった。書面には、雅彦との不貞行為によって志乃の婚姻生活を破綻させたとして、慰謝料を請求すると記されている。旅行の日程、宿泊したホテル、二人で撮影した写真まで、証拠として特定されていた。


萌香は何度も金額を数え直した。雅彦からは、夫婦関係は何年も前に終わっており、母親の介護があるため形式的に同居しているだけだと聞かされていた。離婚届にも志乃が署名済みで、旅行から帰ったら提出すると約束されていた。


萌香は震える指で雅彦へ電話をかけた。しかし、一度目も二度目も留守番電話につながった。三度目で雅彦が出ると、背後から静江の呼び鈴が聞こえた。


「雅彦さん、奥さんの弁護士から慰謝料の請求書が来たんだけど」


「俺のところにも来ている。心配するな。ただの脅しだ」


「脅しじゃないよ。旅行の写真も、ホテルの明細も持っているって書いてある」


「夫婦関係はとっくに終わっていたと説明すればいい」


「本当に終わっていたの? 旅行の直前まで奥さんと一緒に暮らしていたんでしょう」


「母の介護をさせるためだ。夫婦として暮らしていたわけじゃない」


電話の向こうで、呼び鈴がまた鳴った。雅彦が「今行く」と怒鳴ると、静江は「志乃さんを呼んで」と叫び返した。その声を聞いた萌香は、携帯電話を耳から少し離した。


「奥さん、旅行の前の日まで、お義母さんの介護をしていたんだよね」


「だから何だ。嫁なら当然だろう」


「奥さんとは食事もしていない、話もしていないって言ったじゃない」


「細かいことを今さら言うな。お前だって、俺が結婚していると知っていたんだから同じだ」


雅彦は、自分だけを責めるなと言い出した。ホテルを予約したのは萌香で、写真を公開したのも萌香だった。証拠を残した責任は自分にはないと主張した。


「雅彦さんが、公開しても大丈夫だと言ったんでしょう」


「普通は場所や日付を消すものだ。お前の不注意で、会社にまで知られたんだぞ」


「会社へ嘘の視察報告を出したのは、私じゃない」


「お前の会社にも迷惑がかかる。慰謝料くらい、自分で何とかしろ」


萌香は口を閉じた。窓の向こうでは、清掃員が銀杏の実を掃き集めている。踏まれた実の匂いが、閉じた窓の隙間から会議室まで入り込んでいた。


電話を切ったあと、萌香は冷めたミルクティーを飲んだ。砂糖の甘さだけが舌に残り、二口目は飲めなかった。雅彦へ送ろうとしていた「会いたい」という文章を消し、代わりに弁護士の連絡先を調べ始めた。


同じころ、雅彦の自宅にも遠藤からの書面が届いていた。不貞行為に対する慰謝料、離婚、財産分与、年金分割について正式に協議を求める内容だった。返答期限も書かれ、無視した場合は家庭裁判所へ調停を申し立てると記されている。


雅彦は書面を食卓へ置き、コンビニで買った焼きそばを食べていた。流しには朝に使った粥の鍋が残り、洗濯機の上には乾いていない静江の寝巻きが重ねられている。庭の秋桜はほとんど枯れ、花壇には茶色い茎だけが残っていた。


「慰謝料も財産分与も、払うものか。母さんを捨てたのは向こうだ」


雅彦は書面へ焼きそばのソースを飛ばしながら、一人で言った。寝室から呼び鈴が鳴ったが、最後の一口を食べ終えるまで立たなかった。ようやく寝室へ行くと、静江は薬を飲みたくないと顔を背けていた。


「これを飲まないと、また血圧が上がるぞ」


「志乃さんは、ゼリーに混ぜてくれたわ」


「薬くらい水で飲めるだろう」


「喉につかえるのよ。あんたは何も分かっていない」


「毎日やっているのに、文句ばかり言うな」


静江は薬を載せた匙を払い、錠剤が床へ散った。雅彦はベッドの下へ手を伸ばし、一錠ずつ探した。埃と一緒に見つかった錠剤を見て、飲ませてよいのか分からず、ごみ箱へ捨てた。


在宅介護は一か月も続かなかった。訪問介護の職員がいない時間に静江が高熱を出し、訪問看護師の判断で病院へ運ばれた。肺炎は早期に治療できたが、主治医から自宅での介護体制をこのまま続けるのは難しいと告げられた。


退院後、静江は別の短期入所施設を利用しながら、特別養護老人ホームへの申込みを進めることになった。長谷川は以前から用意していた申込書を雅彦へ渡し、今度こそ必要な欄をすべて書かせた。静江の状態と家族の介護力が審査され、数か月後、空きの出た施設への入所が決まった。


「母さん、ここなら二十四時間、職員がいる。家より安心だぞ」


「だったら、どうして最初から志乃さんの言うことを聞かなかったの」


「今さら、そんな話をするなよ」


「志乃さんは、何年も前から施設を探していたわ。あんたが世間体が悪いと言って、断ったのでしょう」


静江は薄桃色のカーディガンの袖を直し、雅彦から顔を背けた。入所の日に持っていく衣類にも、志乃が書いた「佐伯静江」の名前が残っている。油性ペンで太くなった「伯」の字を、雅彦は黙って見つめた。


それから二か月後、離婚調停が始まった。志乃は濃い緑色のワンピースに灰色のカーディガンを羽織り、遠藤と一緒に家庭裁判所へ向かった。玄関脇の花壇には白い山茶花が咲き、朝の冷たい風で花びらが石畳へ落ちていた。


待合室の長椅子へ座ると、志乃は青いファイルを膝へ置いた。中には預貯金の記録、自宅の登記事項証明書、住宅ローンの残高、雅彦の給与明細、退職金に関する社内規程、年金分割に必要な資料が整理されている。結婚してから今日までの通帳も、古いものから順番にそろえてあった。


志乃は結婚後も十八年間、経理事務の仕事を続けていた。静江の介護が重くなり、通院の付き添いや夜間の対応が増えたため、六年前に退職している。退職前の給与明細、介護のために勤務日数を減らした記録、会社へ提出した退職届の写しも残していた。


調停委員から、希望する条件を尋ねられた。志乃は遠藤が作った一覧を見ながら、自宅を含む婚姻中の財産を正確に明らかにし、法律に沿って分けたいと答えた。慰謝料と財産分与を混ぜず、それぞれ分けて協議することも確認された。


別室で待っていた雅彦は、くたびれた紺色のスーツを着ていた。役職を外されてから、以前のように高価なネクタイを買えなくなり、襟元には同じ柄を何度も締めた跡がついている。調停委員を前にすると、志乃へ財産を渡す必要はないと主張した。


「あの女は、寝たきりの母を施設へ入れて逃げたんです。介護を放棄した妻に、家も預金も渡すなんておかしいでしょう」


「お母様の介護については、ケアマネジャーや施設へ引き継いだ記録が提出されています」


「嫁なら、自分で世話をするべきだった」


「現在話し合っているのは、ご夫婦が婚姻中に築いた財産の分与です。お母様の介護を志乃さんが続けなかったことを理由に、財産分与をすべて拒むことはできません」


「家のローンを払ったのは俺だ。志乃は六年前から働いていない」


「志乃さんが仕事を辞めた理由は、お母様の介護ですね。その間の家事と介護も、家庭生活を支える行為です」


雅彦は、自宅の名義が自分だから全部自分のものだと繰り返した。しかし、購入したのは結婚後で、頭金には志乃の預金も使われている。毎月の家計簿には、住宅ローン、固定資産税、修繕費を夫婦の収入から支払った記録が残っていた。


退職金についても、近い将来に支給される可能性や婚姻期間に対応する部分を踏まえて話し合うことになった。年金分割は必要な手続きに沿って進められる。雅彦が声を荒らげても、青いファイルに収められた数字は変わらなかった。


調停が進む間に、萌香の会社でも不倫旅行が問題になった。取引先の管理職と私的に海外へ行き、業務上の視察を装うために名前を使われていたことが、社内の調査で明らかになった。萌香は上司や取引先から事情を聞かれ、職場にいづらくなって退職届を出した。


最後の出勤日、萌香は机の引き出しから化粧ポーチとマグカップを取り出した。タイで撮った写真はすべて削除し、雅彦から贈られた香水も給湯室のごみ箱へ捨てた。甘い匂いだけが袋の中から漏れ、廊下まで残った。


雅彦の会社では、出張費の不正申請と虚偽の報告書が問題になった。私的な観光や萌香の飲食代まで経費として請求しており、雅彦は返還を命じられた。管理職としての信用を失い、課長職を外され、給与も大きく下がった。


「母の介護で疲れていたんです。少しくらい息抜きをしたかった」


処分を告げられた席で、雅彦はそう弁明した。ところが、調査担当者から、母親を介護していたのは妻であり、旅行中は施設へ一度も連絡していなかったと指摘された。雅彦は机に置かれた始末書を見つめ、署名欄へ乱れた字で名前を書いた。


静江の施設利用料、住宅ローン、出張費の返還、弁護士費用が、毎月の給与から出ていくようになった。さらに財産分与と慰謝料の支払いについて話がまとまり、雅彦の預金だけでは足りなくなった。自宅を維持したいと主張したが、残ったローンを一人で返し続ける見通しも立たなかった。


結局、自宅を売却し、住宅ローンを精算した残額を財産分与の対象とすることで合意した。仲介業者が買主を見つけ、春までに家を明け渡すことになった。雅彦は家賃の安い一間のアパートを契約し、必要な家具だけを運ぶ準備を始めた。


引越しの日、庭では白い水仙が咲いていた。秋桜の枯れた茎は倒れたままで、その間から細い葉を伸ばしている。雅彦は花壇を見るたび、志乃が出ていけば花などすぐに枯れると思った日のことを思い出した。


台所の食器棚には、夫婦で使っていた茶碗が残っていた。志乃の茶碗は内側に薄いひびがあり、雅彦のものは縁が欠けている。新しい部屋へ持っていく必要はないと思い、二つとも不燃ごみの袋へ入れた。


最後に静江の寝室を確認した。介護用ベッドは業者が引き取り、床には四角い日焼けの跡だけが残っている。棚の奥には、電池を抜かれた呼び鈴が置かれていた。


雅彦は新しい電池を探し、呼び鈴へ入れた。ボタンを押すと、何かを催促する電子音が誰もいない家へ響いた。かつては一日に何十回も鳴り、そのたびに志乃が廊下を走ってきた音だった。


「志乃」


雅彦はもう一度、ボタンを押した。電子音は鳴ったが、台所から足音は聞こえない。洗濯機も動かず、味噌汁の匂いも漂ってこなかった。


不動産会社の担当者が、玄関から鍵の確認を頼んだ。雅彦は呼び鈴を棚へ戻し、空になった部屋を出た。何度押しても、もう志乃が来ることはなかった。


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