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第8話 母親が呼ぶ名前

第8話 母親が呼ぶ名前


若葉園のショートステイが終わる前日、長谷川は雅彦へ三度目の電話をかけた。静江を翌日自宅へ戻すのか、別の短期入所先を探すのか、今後の方針を決めなければならない。雅彦は会社の給湯室で紙コップのコーヒーを飲みながら、母親は自宅へ戻すと答えた。


給湯室の窓からは、街路樹の銀杏が見えた。葉はまだ緑色だったが、実が落ち始め、歩道を掃く作業員が竹箒を動かしている。雅彦はコーヒーに砂糖を三本入れ、使った棒を流しへ放り込んだ。


「佐伯さん、本当にお一人で対応できますか。静江さんは朝夕だけでなく、昼間も排泄介助や体位交換が必要です」


「朝と夕方にヘルパーが来るんでしょう。それで十分ですよ」


「十分ではありません。ご自宅に一人になる時間が長すぎます」


「昼間は寝ているんだから、問題ない。妻が大げさに騒いでいただけです」


「では、日中の訪問介護と見守りも入れましょう。ご自宅へ戻すなら、最低限必要です」


長谷川は、訪問介護の時間を増やし、訪問看護も継続する案を提示した。費用がかかると知った雅彦は、不要なサービスを勝手に増やすなと声を荒らげた。しかし、朝夕だけでは在宅生活を安全に支えられないと説明され、しぶしぶ一週間分の調整を任せた。


長期入所について尋ねられると、雅彦は返事を曖昧にした。特別養護老人ホームの申込書は、長谷川がメールで送っていたが、一度も開いていない。記入項目が多く、勤務先や収入を書く欄も面倒だった。


「とにかく、母を明日は家へ戻してください。あとは俺が何とかします」


「『何とかする』では、支援計画は作れません。排泄介助、食事、服薬、体位交換を、誰が何時に行うのか決める必要があります」


「俺は実の息子ですよ。妻より母のことを知っています」


「では、静江さんが朝に飲む薬を教えてください」


雅彦は答えられなかった。血圧の薬があったことは覚えているが、名前も錠数も知らない。長谷川は電話の向こうで短く息を吐き、翌日の退所時に必ず立ち会うよう念を押した。


翌日の午前十時、若葉園の送迎車が佐伯家へ到着した。空は高く晴れ、庭の秋桜は花びらを何枚か落としていた。雅彦は旅行先で買った青いポロシャツに黒いジャージをはき、寝不足でむくんだ顔のまま玄関へ出た。


静江は薄桃色のカーディガンを羽織り、車椅子に座っていた。膝には花柄のひざ掛けが掛けられ、腕には若葉園で作った紙の飾りが巻かれている。施設職員は荷物と薬を玄関へ運び、雅彦へ引き継ぎ表を渡した。


「こちらが朝、昼、夕、就寝前のお薬です。日付ごとに分けてあります」


「はいはい、そこへ置いてください」


「踵の赤みは改善していますが、同じ姿勢を続けないようにしてください。体位交換の方法はこちらに書いてあります」


「ヘルパーがやるんでしょう」


「ヘルパーがいない時間は、ご家族にお願いすることになります」


雅彦は引き継ぎ表を折り、靴箱の上へ置いた。静江は家に入ると、廊下を何度も見回した。志乃の茶色い運動靴がなく、台所から煮物の匂いもしていないことに気づき、眉をひそめた。


「志乃さんはどこなの。迎えにも来ないなんて、どういうつもり?」


「まだ実家で意地を張っているんだ。俺が帰ってこいと言っても、弁護士を出してくる」


「夫婦喧嘩なら、早く謝って戻ってきてもらいなさい」


「謝るのは向こうだ。母さんを勝手に施設へ入れたんだから」


「でも、若葉園は悪くなかったわよ。栗ようかんも出たし、お風呂も二人で入れてくれたもの」


静江は施設へ入れられたことを怒っていたはずだが、職員に丁寧に扱われたことは気に入っていた。紙で作った腕飾りも外そうとせず、雅彦へ見せた。雅彦は子どもの工作のようだと言い、車椅子を寝室へ押した。


介護用ベッドへ移すだけで、十五分以上かかった。静江の脇へ腕を入れて持ち上げようとすると、腰が落ち、二人とも倒れそうになる。施設職員が戻って手伝い、身体をねじらずに移乗する方法をもう一度説明した。


「これくらい、一人でできますよ」


「無理に一人で行うと、静江さんも雅彦さんも転倒します。必ず福祉用具を使い、難しいときは訪問介護へ連絡してください」


「妻は一人でやっていました」


「志乃さんも、一人では危険だったということです」


施設職員と長谷川が帰ると、家の中が急に静かになった。雅彦は昼食に何を食べさせればよいのか分からず、台所の棚を開けた。乾麺、缶詰、賞味期限の切れた海苔はあったが、静江用の全粥はなかった。


旅行土産の香草入り即席麺を見つけたが、寝たきりの母親には食べさせられない。雅彦は近所のコンビニへ行き、レトルトの粥と茶碗蒸しを買った。ついでに自分用の唐揚げ弁当と缶ビールも籠へ入れた。


「母さん、昼だぞ。粥を買ってきた」


「おかずは何?」


「茶碗蒸しがある。高いやつだぞ」


「これだけ? 志乃さんは、白身魚や煮物もつけてくれたわよ」


「病人が贅沢を言うな。とりあえず食べてくれ」


粥を温め、ベッドの背を起こしたが、静江は二口でむせた。雅彦が急いで水を飲ませると、今度は冷たすぎると怒る。茶碗蒸しには銀杏が入っており、静江は喉につかえるから取り除けと命じた。


昼食だけで一時間近くかかった。食べこぼした粥は、薄桃色のカーディガンと花柄のひざ掛けへ落ちた。雅彦は濡れたタオルでこすり、染みが広がると裏返して見えないようにした。


午後一時に見守りサービスの職員が来た。雅彦は自分が家にいるから必要ないと言いかけたが、午後から出社する予定を思い出した。母親を職員へ任せ、着替えもせずに家を飛び出した。


会社へ着いたのは午後二時半だった。自分の机には未処理の書類が増え、出張報告書の提出を求める付箋が三枚貼られている。部下が買ってきた弁当の容器から、冷めた焼き鮭の匂いが漂っていた。


上司から、すぐ会議室へ来るよう呼ばれた。小さな会議室には、部長と経理担当者が座っている。机の上には、雅彦が提出した海外視察の日程表と経費明細が並べられていた。


「佐伯さん、現地企業との面談が一件だけになったそうですね」


「先方の都合で予定が変更されたんです」


「残りの九日間は、何をしていたのですか」


「市場調査です。商業施設や観光地を広く見て回りました」


「象に乗るツアーや、二名分のディナークルーズも市場調査ですか」


雅彦の喉が鳴った。会社の経費として提出した領収書に、二名分と印字されていたらしい。さらに、萌香が公開した写真には、撮影日と場所が残っていた。


「同行したのは、取引先の城崎さんです。親睦も仕事のうちでしょう」


「城崎さんの会社には、正式な同行依頼をしていません。彼女は有給休暇中だったと確認しています」


「俺を疑っているんですか」


「疑っているから、説明を求めています。調査が終わるまで、海外出張に関する経費の精算は保留します」


会議室を出ると、携帯電話には訪問介護事業所から三件の着信があった。静江がオムツ交換を拒み、雅彦へ連絡してほしいと言っている。定時まで二時間以上あったが、雅彦は母親の体調が悪いと説明して早退した。


家へ戻ると、寝室には排泄物の匂いがこもっていた。静江はオムツを替えようとした職員の手を払い、「志乃さんでなければ嫌だ」と抵抗したという。職員が二人で声をかけてようやく交換を終えたが、雅彦の帰宅を待っていたため、予定より三十分延長していた。


「ご家族にも、交換の手順を覚えていただく必要があります」


「朝夕は、そちらでやってくれるんでしょう」


「排泄は決まった時間だけではありません。次回、実際に一緒にやりましょう」


「俺は仕事があるんですよ」


「志乃さんも、以前は同じことをおっしゃっていました。その後、介護のために仕事を辞められたと聞いています」


雅彦は返事をせず、玄関の扉を閉めた。靴箱の上には、朝に置いた引き継ぎ表が折れたまま残っている。その横で、牙の折れた金色の象が西日を反射していた。


夕食は、朝に買ったレトルトの粥を使った。雅彦は鍋へ水を多く入れすぎ、米粒が沈んだ薄い汁のようになった。塩を入れればよいと思ったが量が分からず、小さじ一杯をそのまま加えた。


「母さん、夕飯だ。昼より食べやすくしたぞ」


「味がしないじゃない。それに、しょっぱいわ」


「味がしないのか、しょっぱいのか、どっちなんだよ」


「その言い方は何なの。志乃さんは、私が食べられるまで作り直してくれたわよ」


「志乃の話はするな。あいつは母さんを施設へ置いて逃げたんだぞ」


雅彦が匙を口元へ運ぶと、静江は顔を背けた。粥が頬へつき、寝巻きの襟へ流れ落ちる。雅彦が声を上げると、静江は口に入っていた粥までタオルへ吐き出した。


寝巻きを替えようとしても、腕が袖から抜けなかった。静江は痛いと叫び、雅彦の手をたたく。ようやく着替えさせたころには、粥も茶もすっかり冷めていた。


自分の夕食は、コンビニの唐揚げ弁当だった。電子レンジで温める気力がなく、冷たい唐揚げを台所で立ったまま食べる。静江の呼び鈴が鳴り、二口食べただけで箸を置いた。


「今度は何だよ」


「暑いの。窓を開けて」


「さっき寒いと言ったから閉めたんだろう」


「今は暑いのよ。それから水を持ってきて」


「水なら枕元にある」


「ぬるくなっているわ。冷たいのがいい」


雅彦はコップの水を取り替え、窓を開けた。庭から金木犀の甘い香りが入り、旅行先で萌香がつけていた香水を思い出した。雅彦は携帯電話を取り出し、週末に会えないかと萌香へメッセージを送った。


返事が来たのは、一時間後だった。『介護が落ち着いたら会おうね』という短い文章のあとに、困った顔のスタンプが一つついていた。雅彦が「声だけでも聞きたい」と送っても、既読にはならなかった。


午後十一時、雅彦はソファへ横になった。洗濯機の中には、粥で汚れた寝巻きとタオルが入っていたが、洗剤の場所が分からない。明日の朝、訪問介護員に聞けばよいと思い、電気も消さずに目を閉じた。


午前零時十分、呼び鈴が鳴った。静江は腰が痛いと言い、身体の向きを変えるよう求めた。雅彦が一人で抱えようとすると、静江の肩がベッドの柵へ当たった。


午前一時四十分、もう一度呼び鈴が鳴った。今度はオムツが濡れたという。交換用のオムツを裏表逆に当て、テープが留まらず、雅彦は汗をかきながら何度もやり直した。


午前三時、静江が喉の渇きを訴えた。水を飲ませるとむせ、雅彦は背中をさすり続けた。咳が治まるころには、開けた窓から冷たい風が入り、床に脱いだままのシャツが揺れていた。


「もう勘弁してくれよ。俺は朝から会社なんだぞ」


「私だって、好きでこんな身体になったんじゃないわよ」


「少しくらい我慢できないのか」


「志乃さんは、そんな言い方をしなかった」


雅彦は呼び鈴を静江の手から取り上げようとした。しかし、静江は胸元へ抱え込み、大きな声で志乃を呼んだ。返事がないと分かっていても、何度も同じ名前を繰り返した。


翌朝、雅彦は会社へ遅刻した。髭を剃る時間もなく、昨日と同じワイシャツを着て出勤する。袖口には粥の染みが残り、旅行先で買った香水をつけても、寝室の排泄物の匂いを消すことはできなかった。


それから毎日、雅彦は遅刻と早退を繰り返した。会社では海外旅行の調査が進み、萌香から届く返事は一日一回から二日に一回へ減った。自宅では洗濯物が山になり、食卓には空の弁当容器と飲み残した缶ビールが並んだ。


静江は食事のたびに、志乃ならもっと柔らかく煮た、志乃なら薬を飲みやすく砕いた、志乃ならシーツの皺まで伸ばしたと言った。雅彦はそのたびに、妻の名前を出すなと怒鳴った。しかし、怒鳴れば静江はますます大きな声で志乃を呼んだ。


ある朝、雅彦はレトルトの粥を温め、塩を入れずに寝室へ運んだ。静江は一口食べると、器を押し返した。粥は雅彦の手へこぼれ、熱さで指が赤くなった。


「今度は何が気に入らないんだ。味を薄くしただろう」


「薄すぎて食べられないわ。出汁の匂いもしないじゃない」


「毎回、違うことを言うな。俺だって一生懸命やっているんだ」


「志乃さんを呼びなさい。あの人なら、こんなことはしなかった」


雅彦は返す言葉を失い、冷めていく粥の器を持ったまま立っていた。窓の外では、志乃が水をやっていた秋桜が茶色く枯れ始めている。自分が一度も礼を言わなかった妻の名前を、雅彦は母親の口から毎日聞かされ続けた。


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