第7話 既読のついた通知
第7話 既読のついた通知
警察署から志乃へ電話があったのは、雅彦が相談に訪れた翌日の午前九時だった。志乃は実家の台所で、庭から摘んだ青じそを細く刻んでいた。朝食の納豆へ入れるつもりだったが、受話器から「ご主人から、お義母様の介護について相談を受けています」と聞こえた瞬間、包丁を持つ手が止まった。
まな板の上には、刻みかけの青じそと、少し形の崩れた豆腐が載っている。鍋の味噌汁は弱火のままで、煮干しと味噌の匂いが台所へ広がっていた。志乃は火を止めてから、電話を持ち直した。
「夫は、私が義母を捨てたと話しているのでしょうか」
「詳しい内容は、こちらで直接お話しします。お義母様が施設を利用するまでの経緯と、現在のご様子を確認させてください」
「分かりました。弁護士と一緒に伺ってもよろしいですか」
「構いません。関係する書類がありましたら、お持ちください」
電話を切ると、志乃は椅子へ座った。味噌汁の表面に薄い膜が張り、納豆の泡が消えていく。雅彦から「刑務所へ送る」と書かれたときより、警察から穏やかな声で事情を聞きたいと言われた方が、指先は冷たくなった。
拓真は出勤前で、白いワイシャツの袖をまくりながら洗面所から戻ってきた。志乃の前に置かれた箸が動いていないことに気づき、椅子を引いて座った。電話の内容を聞いても慌てず、まず遠藤へ連絡しようと言った。
「父さん、本当に警察へ行ったんだな」
「私は、おばあちゃんを捨てたことになるのかな」
「ならないよ。長谷川さんたちと、あれだけ準備しただろう」
「でも、警察から電話が来たよ」
「確認するために呼ばれたんだ。お母さんが悪いと決まったわけじゃない。味噌汁を飲んでから遠藤先生へ電話しよう」
志乃は冷めかけた味噌汁を一口飲んだ。青じその入っていない納豆も、ご飯の上へ載せて食べた。食事を抜けば長谷川に叱られると思い、残さず口へ運んだ。
遠藤へ連絡すると、その日の午後に警察署へ同行してくれることになった。長谷川にも事情を伝えたところ、支援内容を説明する必要があるなら自分も行くと申し出た。若葉園へ確認すると、静江は朝食の粥を完食し、体温と血圧にも異常はなかった。
志乃は押し入れから青いファイルを出し、座卓の上へ書類を並べた。長谷川との面談記録、ショートステイの契約書、訪問介護の変更予定表、訪問看護の記録、投薬表、主治医への連絡記録がそろっている。静江の踵の状態や食事量を記した引き継ぎ表も、若葉園から受け取った利用中の報告も入っていた。
雅彦へ送ったメッセージは、送信時刻と既読の文字が見える形で印刷してある。志乃はその紙を一番上へ置き、何度も角をそろえた。指が震えるたびに紙がずれるため、最後は拓真が透明な袋へ入れてくれた。
「お母さん、同じ書類を何回確認するんだよ」
「何か抜けていたら困るでしょう」
「介護日誌だけで三冊ある。これ以上持ったら、警察の人が読む前に腰を痛めるよ」
「一冊目には、おばあちゃんがまだ歩けたころの記録もあるの。必要ないかもしれないけれど、途中から急に介護を始めたわけではないと分かるから」
志乃は表紙に油染みのある一冊目も鞄へ入れた。日誌の間から、六年前のスーパーのレシートが落ちた。静江のために買った桃の缶詰と、とろみ剤の文字が薄く残っていた。
午後一時、志乃は灰色のカーディガンに紺色のズボンを合わせ、遠藤と警察署へ向かった。長谷川は薄い水色のブラウスに黒いパンツをはき、大きな仕事鞄を抱えて入口で待っていた。花壇には赤と白のサルビアが植えられ、乾いた風で小さく揺れていた。
相談室には、昨日と同じ灰色の机が置かれていた。担当者は志乃たちを座らせ、雅彦から「寝たきりの母親を妻が置き去りにした」と相談されたことを説明した。遠藤は、まず志乃が持参した記録を確認してほしいと青いファイルを差し出した。
「家を出る前に、静江さんの安全を確保しています。こちらが、その経緯を日付順にまとめたものです」
「奥様ご本人から、順番に説明していただけますか」
「はい。夫が出国した翌日、長谷川さんへ、これ以上一人で介護を続けられないと相談しました」
「ご自宅を離れたのは、いつですか」
「静江さんが若葉園の送迎車へ乗り、施設の職員さんに引き継いだあとです。それまでは家にいました」
志乃は、入所までの三日間に利用したサービスも説明した。朝夕の訪問介護、昼の見守り、毎日の訪問看護を組み合わせ、一人になる時間をつくらなかった。主治医からも薬と健康上の注意点を若葉園へ伝えてもらっている。
担当者は一枚ずつ日付を確認し、手帳へ書き込んだ。書類には事業所名、担当者名、利用時刻が記載されている。介護日誌には静江の食事、排泄、体位交換、服薬の内容が何年分も残されていた。
「この記録は、毎日つけていたのですか」
「はい。お義母さんが救急搬送されたとき、医師に説明できるように始めました」
「ご主人も、この記録をご存じでしたか」
「食卓に置いていました。ただ、夫が開いているところは、ほとんど見たことがありません」
「ご主人が介護を担当した記録はありますか」
志乃は介護日誌のページをめくった。しかし、雅彦が一人で静江の介護をした日は見つからなかった。志乃が通院している二時間だけ家にいたことはあったが、オムツ交換を頼んでも、帰宅するまでそのままにされていた。
長谷川は黒い鞄から支援経過記録を出した。志乃の体重減少、睡眠不足、腕に残った痕を確認し、在宅介護をそのまま続ける方が危険だと判断したことを説明する。短期入所は志乃だけの独断ではなく、ケアマネジャー、主治医、訪問看護師、施設職員が連携して決めた措置だった。
「佐伯さんは、静江さんを置き去りにして姿を消したわけではありません。ご本人が安全に若葉園へ到着するまで見届けています」
「若葉園へ入ったあとの健康状態はいかがですか」
「食事と服薬は継続されています。踵の赤みも改善しています。こちらが施設からの報告です」
「介護サービスが途切れた時間はありますか」
「ありません。少なくとも、私どもの記録では確認されていません」
担当者は若葉園の報告書にも目を通した。静江は施設の職員と一緒に体操へ参加し、好物の梅味の煎餅を食べ、夜間も定期的な体位交換を受けている。生命や身体に危険が生じたという記録はなかった。
次に、志乃が雅彦へ送った通知が確認された。送信したのは雅彦の出発三日目で、静江が若葉園へ入る前だった。施設名、住所、電話番号、利用期間、長谷川の連絡先がすべて書かれ、画面には既読と表示されている。
「ご主人から返信はありましたか」
「ありませんでした」
「施設へ連絡したという話は聞きましたか」
「帰国するまで一度もなかったと、若葉園から聞いています」
「奥様が家を出ることは伝えましたか」
「実家で療養するため家を空けると書きました。それにも既読がついています」
遠藤は、雅彦が送ってきたメッセージの写しも提出した。「警察へ突き出す」「刑務所へ送る」「前科者にしてやる」という言葉が、発信時刻とともに並んでいる。担当者はその紙を読み、志乃へ今後も直接のやり取りを避け、同様の連絡が続く場合は記録して相談するよう伝えた。
事情の確認を終えると、志乃たちは別の待合室へ移った。長谷川は自動販売機で温かいお茶を三本買い、志乃へ一本渡した。蓋を開けると、ほうじ茶の香りが鼻へ届いた。
「長谷川さん、仕事を休ませてしまってすみません」
「こんなときまで人の心配をしないでください。事業所には説明してあります」
「お義母さんに、何か影響が出るでしょうか」
「出ません。今日も三時のおやつを食べているころですよ」
「また梅煎餅でしょうか」
「今日は栗ようかんだそうです。静江さん、朝から楽しみにしていましたよ」
一方、雅彦は警察から連絡を受け、会社を抜けて再び相談室へ来ていた。濃紺のスーツを着ていたが、ネクタイは少し曲がり、ワイシャツの襟には南国で使った香水の匂いが残っていた。昨日持参した法律記事が机へ置かれているのを見て、志乃の犯罪が認められたと思い込んだ。
「妻は逮捕されるんですか。逃げられる前に早くした方がいいですよ」
「まず確認します。奥様から、静江さんの入所先と利用期間を知らせるメッセージが届いていますね」
「来ましたよ。でも、勝手に決めたことです」
「出発三日目に読み、既読にしています。内容も確認しましたね」
「旅行中だったから、妻に任せておけばいいと思った」
担当者は、机の上へ何枚もの記録を並べた。入所前の訪問介護、訪問看護、見守りサービス、主治医への連絡、若葉園への引き継ぎが、日付と時刻の順に記されている。志乃が施設へ渡した投薬表には、薬の形や飲ませ方まで書かれていた。
「現在確認できた資料では、奥様が静江さんを危険な状態で置き去りにした事実は認められません」
「でも、家から出ていったんですよ。寝たきりの母を置いて、自分だけ実家へ逃げたんです」
「お母様は、ご自宅に置き去りにされていません。奥様が介護施設へ引き継ぎ、必要な介護も続いています」
「嫁が姑の介護を投げ出したことは同じでしょう」
「夫婦間の問題と、刑事事件に当たるかどうかは分けて考える必要があります。現在の資料からは、事件として扱う事情は見当たりません」
雅彦は椅子から身を乗り出し、自分が印刷した法律記事を指さした。必要な保護をしない者は処罰されると、赤線を引いた部分を読み上げる。担当者は最後まで聞いてから、その記事を静かに机へ戻した。
「奥様は必要な介護を専門職へ引き継いでいます。あなたにも事前に通知し、施設の連絡先を伝えていますね」
「だから、それを勝手にやったと言っているんです」
「では、通知を読んだあと、実の息子であるあなたは何をしましたか」
雅彦は口を開いたまま黙った。若葉園へ電話をしていない。主治医にも長谷川にも連絡せず、静江が何を食べ、どの薬を飲んでいるのかも確かめていなかった。
「俺は海外で仕事をしていたんです」
「十日間のうち、お母様の状態を確認する電話を一本もかけられなかったのですか」
「妻がやると思っていたからです。母の介護は、ずっとあいつの仕事だった」
「奥様が介護を引き継いだ記録は、これだけ残っています。では、実の息子であるあなたは何をしましたか」
壁の時計が秒を刻む音だけが、相談室に響いた。雅彦は膝の上で両手を握り、何か答えようとして唇を動かした。しかし、自分がしたこととして思い出せるのは、志乃のメッセージを読み、携帯電話を伏せ、萌香とシャンパンで乾杯したことだけだった。
相談室を出ると、廊下の向こうに志乃が立っていた。灰色のカーディガンを着て、青いファイルを両腕で抱えている。雅彦が近づこうとすると、遠藤が静かに二人の間へ入った。
「志乃、これは夫婦の問題だ。帰って話し合うぞ」
「今後のお話は、私が伺います」
「弁護士に用はない。妻と話しているんだ」
「佐伯さんは、直接の話し合いを望んでいません。介護についても、必要な連絡は長谷川ケアマネジャーと若葉園へお願いします」
志乃は雅彦を見たが、何も言わなかった。青いファイルの一番上には、既読のついた通知が入っている。雅彦が何を叫んでも、そこに残った日付と文字は消えなかった。
警察署を出ると、夕方の風がサルビアの花を揺らしていた。志乃は長谷川と遠藤へ頭を下げ、拓真の待つ実家へ帰るため駅へ向かった。今日は栗ご飯を炊くと言っていたことを思い出し、帰る前に商店街で鶏肉を買おうと考えた。
雅彦は警察署の入口に一人で残った。手には赤線だらけの法律記事があり、透明なファイルの角が汗で曇っている。志乃を犯罪者にするために持ち出した「保護責任」という言葉だけが、折り畳めない荷物のように自分の手元へ残った。




