第6話 介護放棄で刑務所へ送ってやる
第6話 介護放棄で刑務所へ送ってやる
翌朝、雅彦は目覚まし時計が鳴っても起きられなかった。旅行鞄を開けないまま居間で眠り、午前七時四十分になってようやくソファから身体を起こした。白い麻のシャツには即席麺の汁が飛び、南国で焼けた頬にはクッションの跡が残っていた。
出勤まで二十分しかなかったが、朝食も着替えも用意されていない。洗面所の籠には、十日前に脱いだ肌着と靴下が入ったままだった。雅彦はシャツの染みを濡らしたタオルでこすり、香水を多めにつけて匂いをごまかした。
冷蔵庫には卵が三個残っていた。志乃がいれば目玉焼きくらい作らせたが、フライパンがどの棚にあるのか分からない。雅彦は卵を使うのを諦め、旅行用に買って残っていた栄養補助食品を水で流し込んだ。
「何が離婚だ。少し脅せば、すぐに戻ってくる」
声に出しても、家の中では時計の音しか返ってこなかった。寝室の空の介護用ベッド、食卓に並んだ三枚の書類、玄関の空いた靴箱を見るたび、雅彦は奥歯をかみしめた。志乃が自分を置いて出ていけるとは、帰宅するまで一度も考えたことがなかった。
雅彦は離婚届を仕事鞄へ押し込み、証拠写真を二つに折った。遠藤弁護士の名刺はごみ箱へ捨てかけたが、あとで苦情を言うために財布へ入れた。廊下に散らばった土産は片づけず、折れた金色の象だけを靴箱の上へ置いた。
玄関を出ると、夜露に濡れた秋桜が庭で揺れていた。志乃が水をやらなくなれば、どうせ数日で枯れると思った。雅彦は花壇の端に落ちたチョコレートの包み紙を踏み、駅へ向かって歩いた。
会社へ着いたのは、始業時刻を二十分過ぎてからだった。雅彦は取引先との会食が長引いたと部下へ説明し、海外出張の土産としてドライマンゴーを配った。袋の裏には空港免税店の値札が残っていたが、誰も指摘しなかった。
自分の机には、旅行前に処理していなかった書類が積まれていた。コーヒーカップの底には乾いた茶色い輪が残り、観葉植物の葉も一枚黄色くなっている。雅彦は仕事を始める前にパソコンを立ち上げ、「介護放棄 妻 犯罪」と入力した。
検索結果には、老人虐待、ネグレクト、保護責任者遺棄という言葉が並んだ。雅彦は一つの記事を開き、必要な保護をしなかった者は処罰されるという部分だけを読んだ。細かな成立条件や事例の違いには目を通さず、自分に都合のよい文章を印刷した。
「これだ。志乃は犯罪を犯したんだ」
隣の机にいた若い部下が、驚いて顔を上げた。雅彦は慌てて印刷した紙を裏返し、家庭内の問題だと説明した。部下は深入りせず、海外視察の報告書を今日中に提出してほしいと告げた。
「報告書なら、現地の資料を整理しているところだ。午後には出す」
「部長から、訪問先の担当者名と面談記録も添付するように言われました」
「先方の都合で予定が変わったんだ。面談は一件だけになった」
「十日間の出張で、一件だけですか」
部下はそれ以上何も言わなかったが、雅彦を見る目が変わった。雅彦は机の引き出しから旅行会社のパンフレットを出し、慌てて鞄の奥へ押し込んだ。志乃のせいで仕事に集中できないと思い、携帯電話を取り出した。
最初に送ったのは、「寝たきりの老人を置いて逃げたことは重大な犯罪だ」というメッセージだった。返事がないため、インターネットの記事を撮影して送る。五分待っても既読にならず、雅彦は続けて文字を打った。
『保護責任者遺棄罪というものを知らないのか』
『警察へ突き出す』
『刑務所へ入ってから後悔しても遅い』
『前科者になれば、拓真にも迷惑がかかるぞ』
『今日中に帰宅して母さんへ謝れば、警察には黙っておいてやる』
最後の文章を送ると、雅彦は椅子へ深く座った。志乃は警察や裁判という言葉に弱く、町内会の回覧板を一日遅らせただけでも何度も謝るような女だった。刑務所と書けば、すぐに電話をかけてくると思った。
ところが、昼休みになっても返信はなかった。雅彦は社員食堂でカレーを注文したが、携帯電話ばかり見ていたため、福神漬けを取るのを忘れた。カレーは冷め、表面に薄い膜が張った。
「佐伯さん、出張はどうでした?」
向かいへ座った同僚が、味噌ラーメンをすすりながら尋ねた。雅彦は携帯電話を伏せ、暑くて大変だったが大きな成果があったと答えた。同僚は、日焼けを見る限り天気には恵まれたようだと笑った。
「奥さんへの土産は買ったんですか」
「もちろんだ。女は土産を渡せば機嫌が直るからな」
「うちは菓子より、留守中の洗濯を自分でやれと言われますよ」
「夫を立てられない妻は困るな。うちは母の介護まで全部、志乃がやっている」
言い終えたところで、雅彦は昨夜見た離婚届を思い出した。同僚がラーメンの汁を制服へ飛ばし、紙ナプキンで慌てて拭いている。雅彦は冷めたカレーを数口食べ、残りを返却口へ運んだ。
そのころ、志乃は実家の縁側で洗濯物を畳んでいた。灰色のカーディガン、白い肌着、拓真の黒い靴下が、小さな籠に収まっている。庭には黄色い小菊が咲き、秋の日差しで乾いたタオルから洗剤の匂いがした。
携帯電話の画面には、雅彦から届いたメッセージが並んでいた。「刑務所」「前科者」「拓真にも迷惑」という文字を読むと、畳んでいたタオルの角がずれた。志乃は何度も直そうとしたが、指先が動かなかった。
遠藤から、雅彦の連絡には返信しないよう言われている。志乃は深呼吸し、画面を一枚ずつ保存した。発信時刻と送信者の名前が入るように撮影し、データを拓真と遠藤へ送った。
すぐに遠藤から電話がかかってきた。志乃は縁側へ腰を下ろし、庭の土をつつく雀を見ながら電話に出た。台所では、昼食用に温めていたサツマイモが蒸し器の中で甘い匂いを出していた。
「佐伯さん、メッセージを確認しました。返事はしていませんね」
「はい。でも、拓真にまで迷惑をかけると言われると、黙っていていいのか分からなくなります」
「今の目的は、佐伯さんを怖がらせて家へ戻すことです。反論すれば、言葉を変えて何度でも連絡してくるでしょう」
「本当に警察へ行ったら、私は捕まるのでしょうか」
「警察から確認を受ける可能性はあります。そのときは、私が一緒に対応します。施設への引き継ぎ記録がありますから、慌てる必要はありません」
遠藤は、届いたメッセージを削除せず、今後も保存するよう伝えた。電話には出ず、雅彦が実家へ来た場合も扉を開けない。危険を感じたときは、遠慮せずに警察へ通報するよう念を押した。
志乃は、蒸し器の火を消した。サツマイモを皿へ取り出すと、皮の紫色がところどころ割れ、黄色い中身が見えている。半分を食べ、残りは拓真が帰宅したときのためにラップをかけた。
「先生、夫は怒ると、私が謝るまで何時間でも話し続ける人です」
「だからこそ、直接話さないでください。ご主人の怒りを収めることは、佐伯さんの義務ではありません」
「分かりました。今日は若葉園にも電話して、お義母さんの様子だけ聞きます」
「それで十分です。佐伯さんは必要なことをしています」
遠藤との通話を終えると、若葉園から連絡が入った。静江は昼食のうどんを完食し、午後の体操にも参加したという。志乃が踵の状態を尋ねると、赤みは薄くなり、看護師が毎日確認していると教えられた。
静江が危険な状態で放置されているわけではない。その事実を耳で聞くと、志乃の肩から少し力が抜けた。雅彦のメッセージは増え続けていたが、志乃は通知音を消し、残りの洗濯物を畳んだ。
午後三時を過ぎても志乃から返事がないため、雅彦はさらに腹を立てた。海外視察の報告書は一行も進まず、机には法律の記事と萌香から届いた「今度はいつ会える?」というメッセージが並んでいる。上司から報告書を催促されても、家庭の緊急事態だと言って早退した。
雅彦は会社近くのコンビニで、印刷した法律の記事を透明なファイルへ入れた。表紙には赤いペンで「保護責任者遺棄罪」と大きく書く。証拠を準備した気になり、そのまま最寄りの警察署へ向かった。
受付には、道を尋ねる高齢の男性と、落とし物を届けに来た女子高校生が並んでいた。雅彦は順番を待つ間も、何度も腕時計を見た。自分の用件は犯罪被害なのだから、道案内や落とし物より先に扱うべきだと思っていた。
「母が危険な目に遭っています。妻をすぐに逮捕してください」
順番が来ると、雅彦は受付の警察官へ透明なファイルを突き出した。声が大きかったため、待合用の椅子に座っていた人たちが振り返った。警察官は雅彦を相談室へ案内し、まず事情を順番に話すよう求めた。
相談室には灰色の机と椅子があり、壁には特殊詐欺への注意を呼びかけるポスターが貼られていた。机の隅には使いかけの消毒液が置かれ、窓から西日が差し込んでいる。担当者は雅彦から法律の記事を受け取り、手帳を開いた。
「お母様のお名前と年齢を教えてください」
「佐伯静江、七十八歳です。要介護4で、ほとんど寝たきりです」
「現在、お母様はどちらにいらっしゃいますか」
「それが、妻が勝手に施設へ入れたんです」
「施設のお名前は分かりますか」
「若葉園だったと思います。妻から連絡は来ましたが、詳しくは知りません」
担当者は、静江が一人で家に残されているのではないことを確認した。次に、どのような被害が生じているのか尋ねる。雅彦は、妻が夫に相談せず母親を施設へ預け、実家へ逃げたこと自体が犯罪だと説明した。
「お母様が食事を与えられていない、薬を飲ませてもらえない、けがをしたという事実はありますか」
「施設へ入れられているんだから、俺には分かりません」
「施設には確認されましたか」
「していません。妻とケアマネが手配したなら、そこまでする必要はないでしょう」
「お母様と最後に話したのは、いつですか」
雅彦は口を閉じた。出国の日も、静江の寝室へ顔を出していない。旅行中は一度も電話をせず、帰国してからも若葉園へ連絡していなかった。
「二週間まではいかない。十日くらいです」
「十日前から、お母様の状態を一度も確認していないのですか」
「俺は仕事で海外にいたんです。母の介護は妻の役目だ」
「奥様が介護できないと連絡したあとも、施設には電話をしていませんね」
「だから、妻が介護責任者なんだ。俺は仕事がある」
担当者は返事をせず、赤い文字の書かれた法律記事へ目を落とした。雅彦は、自分の主張が通ったものと思い、妻をいつ逮捕するのか尋ねた。しかし、担当者はインターネット記事を静かに机へ戻し、今度は志乃から届いた連絡をすべて見せてほしいと告げた。




