第5話 帰宅した夫を迎えた三枚の書類
第5話 帰宅した夫を迎えた三枚の書類
十日後の午後、成田空港から乗ったタクシーが佐伯家の前に止まった。雅彦は白い麻のシャツにベージュのチノパンをはき、南国の日差しで赤黒く焼けた顔を窓ガラスへ映した。頬の皮が少しむけていたが、仕事で海外を飛び回った男らしく見える気がして、帽子で隠さずに帰ることにした。
足元には、新品の黒い旅行鞄と、大きな土産袋が三つ置かれていた。象の絵がついたクッキー、ドライマンゴー、香草入りの即席麺、派手な布地の財布が入っている。静江には金色の象の置物を買い、志乃には空港の売店で安くなっていた石鹸を一箱選んだ。
萌香とは空港で別れていた。人目につかない場所で短く抱き合い、次は冬に温泉へ行こうと約束した。萌香の赤いワンピースから移った甘い香水が、雅彦のシャツの胸元にまだ残っている。
「ここでいいです。釣りは取っておいてください」
雅彦は運転手へ千円札を渡し、得意そうに土産袋を持ち上げた。旅行中にカードを使いすぎたことは頭にあったが、出張手当が振り込まれれば何とかなると思っていた。帰宅すれば志乃が麦茶を出し、旅行中に困ったことを一つずつ報告してくるはずだった。
玄関の鍵を開けると、十日間閉め切られていた空気が流れ出した。排泄物や消毒薬の匂いはなく、台所から味噌汁の匂いも漂ってこない。聞こえるのは、居間の壁に掛けられた時計の針が動く音だけだった。
「ただいま。志乃、荷物を運ぶのを手伝ってくれ」
雅彦はいつもより大きな声で呼んだ。しかし、台所から返事はなく、静江の寝室から呼び鈴が鳴ることもなかった。玄関には志乃の茶色い運動靴がなく、訪問看護師用の青い室内履きだけが壁際にそろえてあった。
雅彦は土産袋を廊下へ置き、冷蔵庫を開けた。中には未開封の卵が三個、しなびたニンジン、賞味期限の切れた豆腐が残っている。冷えたビールも作り置きの麦茶もなかった。
「まったく、何をしているんだ。帰る日くらい分かっているだろう」
雅彦は水道水をコップへ注ぎ、一気に飲んだ。台所の流しには洗って伏せた茶碗が二つあり、布巾はきれいに乾いている。十日前までそこにあった志乃の生活だけが、途中で片づけられていた。
旅行中、志乃から届いたのは静江のショートステイに関するメッセージだけだった。雅彦は既読にしたまま返事をせず、帰国日も知らせていない。それでも妻なら予定表を見て覚えているのが当然だと考えていた。
「母さん。ただいま。土産を買ってきたぞ」
寝室の引き戸を開けると、介護用ベッドは空だった。防水シーツも体位交換用のクッションもなく、床に積まれていたオムツの箱も消えている。枕元の棚には、電池を抜かれた呼び鈴だけが残されていた。
カーテンは半分開いており、窓から午後の日差しが差し込んでいた。小さな埃が光の中を動き、誰も寝ていない布団の上へ落ちていく。雅彦は呼び鈴を持ち上げ、何度もボタンを押した。
当然、音は鳴らなかった。電池を抜いた志乃の行動が、自分に対する嫌がらせのように思えた。雅彦は呼び鈴をベッドへ投げ、居間へ戻った。
「ショートステイなんだから、もう帰っているはずだろう。志乃は何をしているんだ」
雅彦は旅行の日付を指で数えた。静江が施設へ入ったのは、自分が出発してから三日目だった。十日間の利用なら、帰宅するのは三日後になる。
志乃から送られたメッセージには、利用期間も正確に書かれていた。しかし、雅彦は施設の名前だけ見て、細かい日付を読んでいなかった。自分の間違いを認める代わりに、十日間も母親を施設へ入れる必要があったのかと腹を立てた。
居間へ入ると、ダイニングテーブルの上に白い紙が三枚並べてあった。一枚目は離婚届、二枚目は志乃から雅彦へ宛てた通知書、三枚目は旅行の証拠を一枚にまとめたものだった。その上には、遠藤孝之法律事務所と印刷された名刺が載っていた。
雅彦は離婚届を手に取った。妻の欄には佐伯志乃と署名され、印鑑も押されている。夫の欄は空白で、証人欄にもまだ何も書かれていなかった。
「何の冗談だ。五十にもなって、家出の真似事か」
通知書には、静江を若葉園へ安全に引き継いだこと、志乃が実家へ移ったこと、離婚を求めることが書かれていた。財産や今後の生活については、遠藤弁護士を通して協議すると記されている。最後には、静江に関する問い合わせ先として、若葉園と長谷川の電話番号も載っていた。
雅彦は通知書を丸めかけたが、三枚目の紙を見て手を止めた。そこには、萌香から送られた「海の見える部屋、予約できたよ」というメッセージが印刷されている。二人分の航空券、同じ部屋に宿泊したことが分かる明細、テラスでグラスを合わせている写真まで並んでいた。
写真の中の雅彦は、白いシャツの胸元を開けて笑っている。隣では赤いハイビスカス柄のワンピースを着た萌香が、雅彦の肩へ頬を寄せていた。投稿に添えた「大切な仲間」という言葉まで、はっきり写っている。
「どうやって、こんなものを……」
雅彦は紙を裏返したが、裏は白かった。もう一度表へ返し、写真の日付を確認する。静江が若葉園へ入った日の夜、自分たちはシャンパンで乾杯していた。
土産袋の一つが廊下で倒れ、中から金色の象の置物が転がり出した。硬い床へぶつかり、片方の牙が折れる。雅彦は拾おうとしたが、指先が震えてうまくつかめなかった。
まず志乃へ電話をかけた。呼び出し音が続く間、何を言えば妻を従わせられるか考える。介護を放り出したことを責め、母親に謝らせ、離婚届を破かせればよいと思った。
五回目の呼び出し音で、志乃が電話に出た。背後から食器の触れ合う音が聞こえた。雅彦の帰宅に備えて慌てている様子はなく、声も普段より落ち着いていた。
「志乃、お前は何を考えているんだ。母さんを勝手に施設へ入れて、自分だけ実家へ逃げたのか」
「帰国したのですね」
「帰国したのですね、じゃない。夫が十日ぶりに帰ったんだぞ。普通なら家で迎えるだろう」
「帰国時刻は聞いていません」
「日程表を置いてあっただろう。そんなことより、この離婚届は何だ。浮気を疑っているなら説明してやる。城崎さんは仕事上の同行者だ」
志乃は何も答えなかった。雅彦は沈黙を、自分の言葉を信じ始めた証拠だと考えた。テーブルの上にある写真を握り潰しながら、声をさらに大きくした。
「写真くらいで不倫の証拠になると思うなよ。取引先との関係で同じホテルに泊まっただけだ。お前は世間を知らないから、男女が一緒に写っているだけで騒ぐんだ」
「ホテルの明細には、二名一室と記載されています」
「経費を節約したんだ。それより母さんはどうした。寝たきりの老人を他人に押しつけて、嫁として恥ずかしくないのか」
「若葉園で必要な介護を受けています」
「俺に相談もせずに勝手なことをするな。今すぐ母さんを迎えに行って、家へ戻せ。お前も今日中に帰ってこい」
雅彦は息を切らし、志乃が謝るのを待った。これまでなら、強い声を出せば志乃は「ごめんなさい」と言い、自分の要求を受け入れた。だが、電話から聞こえたのは謝罪ではなく、椀を食卓へ置く小さな音だった。
志乃は実家の台所で、夕食の途中だった。生成り色の長袖シャツに黒いズボンをはき、拓真と向かい合ってサンマの炊き込みご飯を食べていた。食卓の中央には、庭で摘んだ秋茄子の漬物と、豆腐の味噌汁が置かれている。
電話が鳴ったとき、志乃は出ないつもりだった。しかし、画面に雅彦の名前が表示され、遠藤から教えられた一文を自分の口で伝えることにした。拓真は口を挟まず、母親の前へ録音用の小さな機器を置いた。
電話の向こうから、雅彦の怒鳴り声が続いていた。志乃は冷めないうちに味噌汁を一口飲み、両手で携帯電話を持ち直した。白い彼岸花を飾った窓辺から、夕方の風が入ってきた。
「聞いているのか。母さんに何かあったら、お前の責任だからな。介護を放棄した嫁だと、会社にも親戚にも全部話してやる」
「お義母さんの居場所は、出発三日目に知らせました。今後の連絡は遠藤弁護士を通してください」
「待て、志乃。俺はまだ話を――」
志乃は雅彦が言い終える前に通話を切った。携帯電話を伏せると、味噌汁の湯気で少し曇った眼鏡を外し、布巾で拭いた。何度も謝る練習をしてきた口で、今日は一度も謝らなかった。
「お母さん、大丈夫?」
「味噌汁が冷めるところだった」
「父さんは、またかけてくると思うよ」
「次は出ない。録音は遠藤先生へ送っておいて」
志乃は携帯電話の電源を切らず、音だけが鳴らない設定にした。雅彦から連絡が来た記録は残す必要がある。画面にはすぐに二件目の着信が表示され、そのあと三件、四件と増えていった。
佐伯家では、雅彦が通話の切れた携帯電話を握って立ち尽くしていた。廊下には倒れた土産袋、折れた金色の象、溶け始めたチョコレートが散らばっている。冷蔵庫を開けても夕食はなく、棚には賞味期限の切れた即席麺が一つ残っているだけだった。
雅彦は即席麺へ湯を注ぎ、ふやけるまでの三分間に何度も志乃へ電話をかけた。すべて呼び出し音の途中で留守番電話へ切り替わる。三枚の書類は食卓の上に戻したが、握り潰した不倫の証拠だけは、元の形には戻らなかった。
窓の外では、庭の秋桜が夕暮れの風に揺れていた。志乃が出ていっても、花には水が与えられており、土はまだ湿っている。雅彦はそれを確かめることもなく、伸びきった即席麺をすすりながら、警察へ何と話せば志乃を連れ戻せるか考え始めた。




