第4話 南国の乾杯と、六年ぶりの眠り
第4話 南国の乾杯と、六年ぶりの眠り
タイ南部の高級リゾートでは、午後七時を過ぎても昼間の熱が石畳に残っていた。海に面したレストランには甘い蘭の香りが漂い、白いシャツの胸元を開けた雅彦は、氷の入った水を一口飲んでからシャンパンのグラスを持ち上げた。向かいに座る萌香は、赤いハイビスカス柄のワンピースを着て、携帯電話のカメラを二人へ向けていた。
テーブルには、殻を割ったロブスター、香草を載せた白身魚、青い皿に盛られたマンゴーが並んでいる。雅彦は香草の匂いが苦手だったが、萌香の前では通ぶって口へ運んだ。辛いソースでむせそうになっても、シャンパンを飲んでごまかした。
「雅彦さん、もっとこっちに寄って。海も入れたいから」
「こうか? 俺の顔、日に焼けすぎていないか」
「少しくらい焼けていた方が若く見えるよ。会社の人には、現地視察で外を歩いたって言えるでしょう」
「それもそうだな。じゃあ、新事業の成功に乾杯だ」
二人がグラスを合わせると、乾いた音が鳴った。視察と称して会社へ提出した日程表には、現地企業との商談、工場見学、市場調査が細かく記されている。しかし、実際に予定されている仕事は、三日目の午後に現地の取引先へ挨拶する一時間だけだった。
残りは島巡り、スパ、象に乗る観光ツアー、買い物で埋まっている。雅彦は会社から出張費の一部を受け取り、足りない分は自分のカードで支払っていた。カードの請求は翌月になるため、志乃が気づいても、そのころには適当な理由を考えればよいと思っていた。
萌香は写真を確認し、雅彦の顔にかかった影を気にして何度も撮り直した。撮影が終わるころには、白身魚の表面に載っていた油が固まり始めている。雅彦は料理よりも、周囲の客が自分たちをどのように見ているかが気になっていた。
「俺たち、夫婦に見えるかな」
「新婚旅行に見えるんじゃない? でも、本当に奥さんとは離婚するんだよね」
「もちろんだ。もう何年も夫婦らしい生活はしていない。母の介護があるから、同じ家に住んでいるだけだ」
「帰ったら、ちゃんと話してくれる?」
「任せておけ。志乃は強く言えば、最後には俺の言うとおりにする」
雅彦は自信ありげに笑い、二杯目のシャンパンを注文した。携帯電話の画面には、志乃から届いたメッセージが残っている。静江が若葉園のショートステイを利用すること、施設の住所、電話番号、長谷川ケアマネジャーの連絡先が書かれていた。
メッセージを読んだとき、雅彦は空港からホテルへ向かう送迎車の中にいた。驚きはしたが、静江が十日間施設へ入るなら、志乃も少し休めるだろうと考えた。帰国するころには志乃の機嫌も直り、いつも通り家事と介護をしているはずだった。
「また奥さんから?」
「いや、母の介護の連絡だ。ショートステイへ行くらしい」
「大丈夫なの?」
「志乃とケアマネが手配したなら問題ない。あいつは介護だけは細かいからな」
「施設に電話しなくていいの?」
「俺が電話したって何もできないよ。せっかく海外まで来たんだから、仕事に集中しないとな」
仕事という言葉を聞いて、萌香は小さく笑った。雅彦もつられて笑い、携帯電話を伏せてテーブルへ置いた。海の向こうでは観光船の明かりが動き、ホテルの庭では南国の花に隠れた虫が高い声で鳴いていた。
同じ時刻、日本では細かな雨が古い瓦屋根を濡らしていた。志乃の実家は、佐伯家から車で一時間ほど離れた住宅街にある。両親が亡くなったあとも処分できずに残していた平屋で、拓真が月に一度、窓を開けて掃除をしていた。
玄関には、母親が生前に使っていた赤い花柄の傘が残っている。台所の棚には景品でもらった皿が積まれ、柱には幼い志乃と妹の身長を測った鉛筆の線があった。久しぶりに入った家は少し畳が湿っていたが、消毒薬も排泄物も香水も匂わなかった。
拓真は先に来て、奥の六畳間へ布団を敷いていた。紺色の作業着のまま掃除をしたらしく、袖には白い埃がついている。小さな座卓には、コンビニで買ったおにぎり、麦茶、バナナが並べられていた。
「何を食べたいか分からなかったから、とりあえず買ってきた。冷蔵庫の電源も入れておいたよ」
「ありがとう。肉じゃがを持ってきたから、夕飯に食べよう」
「この状況でも、残り物を持ってくるんだな」
「食べ物を捨てると、おばあちゃんに叱られたのよ。今でも落ち着かないの」
志乃は台所へ行き、保存容器の肉じゃがを小鍋へ移した。古いガス台は点火するまで二度かかり、青い炎がつくと、醤油とジャガイモの匂いが広がった。拓真は戸棚から二つの茶碗を出したが、一つには小さな欠けがあった。
味噌汁は、拓真が即席のものを用意した。乾燥ワカメを入れすぎたため、椀の中が黒緑色でいっぱいになっている。志乃が半分を自分の椀へ移すと、拓真は子どものころから加減が分からないのだと笑った。
「父さんから連絡は来た?」
「来ていない。おばあちゃんが施設へ入ったことは知らせたけれど、既読がついただけ」
「若葉園には電話した?」
「さっき長谷川さんから連絡があったよ。夕食も薬も問題なかったって。踵にはクッションを入れてくれたそうよ」
「お母さんは、若葉園へじゃなくて、父さんから連絡があったか聞いているんだろう」
志乃は箸でジャガイモを割った。中まで温まりきっておらず、中心が少し冷たかったが、そのまま口へ入れた。雅彦から電話がないことより、自分がいまだに夫からの連絡を待っていたことの方が、志乃には引っかかった。
夕食のあと、志乃は食器を洗おうとした。拓真は母親の手からスポンジを取り上げ、今日は自分がやると言った。志乃は何もせずに台所を離れることができず、布巾でテーブルを三度拭いた。
「もうきれいだよ。拭きすぎると、表面が剝げるぞ」
「何かしていないと落ち着かないの」
「じゃあ、歯を磨いて寝る。それも立派な用事だよ」
「まだ八時半よ」
「お母さんには、もう夜中の二時くらいだろう。顔色を見れば分かる」
拓真に言われ、志乃は六畳間へ入った。布団には日に干した綿の匂いが残っており、枕元には水を入れたコップと懐中電灯が置かれている。拓真は夜中に必要な物があれば呼んでくれと言い、隣の部屋へ移った。
志乃は灰色のカーディガンを脱ぎ、洗いざらしの白いTシャツと薄青色のズボンに着替えた。横になる前に、携帯電話で若葉園から連絡が来ていないことを確認する。目覚まし時計を二時間後に合わせようとして、指を止めた。
静江の体位交換は、今夜は施設の職員が行ってくれる。排泄の記録も服薬の確認も、志乃が起きてする必要はない。それでも眠っている間に何か起きるような気がして、携帯電話を枕の下へ入れた。
雨が雨戸へ当たる音を聞いているうちに、志乃は眠っていた。夜中に一度も目を覚まさず、夢を見ることもなく、次に目を開けたときには部屋が明るくなっていた。台所から、包丁がまな板へ当たる不規則な音が聞こえている。
志乃は身体を起こし、枕元へ手を伸ばした。呼び鈴が鳴ったと思い、床の上を何度も探した。水のコップを倒しそうになってから、見慣れない木目の天井を見上げた。
ここは静江のいる家ではない。呼び鈴は棚の上へ置き、電池も抜いてきた。携帯電話の時刻は午前七時十二分を示していた。
志乃は布団の上に座り、昨夜の八時半から何時間眠ったのか指を折って数えた。十時間以上続けて眠ったのは、静江の介護が重くなってから初めてだった。正確には六年ぶりだった。
台所へ行くと、拓真が黒いTシャツに灰色のスウェットをはき、味噌汁を作っていた。まな板には厚さの違う大根が並び、鍋の中では油揚げと一緒に煮えている。フライパンでは目玉焼きの端が焦げ、香ばしい匂いがした。
「おはよう。味噌汁、しょっぱかったら言って」
「何時から起きていたの?」
「六時半。お母さんが一度も起きてこないから、息をしているか見に行ったよ」
「起こしてくれればよかったのに」
「眠るために来た人を、朝飯のために起こすわけないだろう」
志乃は食卓へ座り、両手で味噌汁の椀を包んだ。湯気が顔へ当たり、大根の甘い匂いがした。少し味噌が濃かったが、熱いうちに飲めるだけで十分だった。
拓真は向かいへ座り、志乃の手元を見ていた。結婚指輪はゆるくなり、指との間に隙間がある。志乃が目玉焼きへ醤油をかけようとすると、瓶を持つ手が小さく震えた。
「お母さん、手がこんなに細かった?」
「昔からよ」
「違う。俺が正月に会ったときより、ずっと細くなっている」
「食べれば戻るよ。長谷川さんにも、食事と睡眠を記録しなさいと言われたし」
「戻るまで、あの家には帰らないで」
志乃は返事をせず、焦げた目玉焼きの端を箸で切った。黄身は固く焼けており、静江なら焼きすぎだと文句を言っただろう。志乃は醤油を少し垂らし、冷めないうちに口へ運んだ。
朝食のあと、拓真は一枚の名刺を食卓へ置いた。離婚と親族問題を扱う遠藤孝之弁護士の名前が印刷されている。志乃が別居を口にする以前から、拓真が相談先を調べていた弁護士だった。
「勝手に探してごめん。でも、いつか必要になると思っていた」
「いつから?」
「父さんがお母さんに、おばあちゃんを施設へ入れたら離婚すると怒鳴ったころ。去年の冬だよ」
「聞いていたの?」
「電話がつながったままだった。お母さんは俺に聞かせまいとして切ったつもりだったんだろうけど、切れていなかった」
志乃は名刺の角を指でなぞった。去年の冬、静江が肺炎になりかけ、夜中も痰の吸引と体温の確認が続いた。志乃が一週間だけ短期入所を利用したいと頼むと、雅彦は親を捨てる気かと怒鳴った。
拓真はすでに遠藤へ大まかな事情を伝え、午前十一時の相談予約を取っていた。志乃は急すぎると言ったが、今ならキャンセルできるという拓真の言葉を聞き、名刺を握り直した。先延ばしにすれば、雅彦が帰国する日が近づくだけだった。
遠藤法律事務所は、駅前の古い雑居ビルの四階にあった。志乃は灰色のカーディガンと紺色のズボンに着替え、証拠を入れた青いファイルを抱えて訪れた。受付には白い竜胆が飾られ、コーヒーと紙の匂いが混じっていた。
遠藤は白髪交じりの髪を短く整え、濃紺のスーツを着ていた。志乃が持参した契約書、支援記録、介護日誌、不倫の証拠を、日付を確認しながら一枚ずつ読んだ。途中で口を挟まず、最後まで目を通してから眼鏡を外した。
「佐伯さんが家を出たとき、静江さんは一人だった時間がありますか」
「ありません。若葉園の職員さんが送迎車へ乗せたのを確認しました。長谷川さんも立ち会っています」
「ご主人には知らせましたか」
「施設の住所と連絡先を送りました。すぐに既読がつきました」
「施設へ渡した引き継ぎ書類と、ご主人へ送った画面の記録もありますね」
志乃は青いファイルから複製を取り出した。遠藤は書類を日付順に並べ、志乃が要介護者を危険な状態で放置した事実は見当たらないと説明した。むしろ、自分が介護を続けられないと判断した時点で専門職へ相談し、安全な受け入れ先を確保している。
ただし、雅彦が感情的に騒いだり、介護放棄だと非難したりする可能性はある。そのときに志乃を守るのは、記憶ではなく記録だった。遠藤は、契約書や通知画面を複数の場所へ保管し、今後の連絡も文章で残すよう助言した。
「夫は、私が母親を捨てたと言うと思います」
「言うことと、事実は別です。ご主人が何を主張しても、静江さんへ必要な介護が途切れず提供されている記録があります」
「嫁には、最後まで介護する義務があるのではないですか」
「少なくとも、嫁だから一人で倒れるまで在宅介護を続けなければならない、という決まりはありません」
遠藤は、不倫の証拠についても確認した。萌香からのメッセージ、二人分の航空券、ホテルの利用明細、乾杯する写真がそろっている。ただし、今後さらに証拠を集めようとして雅彦のアカウントへ不正に入ったり、二人のいるホテルへ電話したりしないよう念を押した。
志乃は、雅彦と直接話せば責められ、いつものように謝ってしまうかもしれないと認めた。遠藤は委任契約を結んだあとは、離婚や不倫に関する連絡を事務所で受けると説明した。介護に関する緊急連絡だけは、長谷川や施設から志乃へ直接届くよう分けることになった。
「ご主人から電話が来ても、出なくてかまいません。脅すようなメッセージが来たら、削除せずに私へ送ってください」
「無視をしたら、もっと怒ると思います」
「怒らせないために結婚生活を続けるのですか。それとも、ご自分の生活を取り戻すために別居したのですか」
志乃は膝の上で両手を重ねた。左手の結婚指輪が、右手の指に当たって小さな音を立てた。隣に座る拓真は口を挟まず、母親が自分で答えるのを待っていた。
「自分の生活を取り戻すためです。夫が怒らないようにすることは、もう私の仕事ではありません」
相談を終えると、昼を過ぎていた。帰り道の商店街では、花屋の店先に黄色と橙色の小菊が並んでいた。志乃は薄桃色の秋桜を見つけて立ち止まったが、実家の庭にも咲いていることを思い出し、買わずに歩き出した。
実家へ戻る途中、拓真はスーパーへ寄った。豆腐、ネギ、大根、卵のほかに、値引きされたサンマを二尾買う。志乃が一尾でよいと言うと、拓真は二人で一尾ずつ食べるのだと譲らなかった。
夕食には、焼いたサンマと大根おろし、朝の残りの味噌汁が並んだ。サンマの脂が網から落ち、台所には白い煙と香ばしい匂いが残っている。拓真が慣れない手つきで骨を外す姿を見て、志乃は子どものころと変わらないと笑った。
「お母さん、今朝の味噌汁、冷めるまでずっと話していたよな」
「今日は仕方ないよ。弁護士さんの予約があったから」
「今までだって、呼び鈴が鳴るたびに冷めたものを食べていたんだろう」
「温め直せば食べられるもの」
「そういう話じゃないよ」
拓真は箸を置き、志乃の顔を見た。志乃は何か言い返そうとしたが、味噌汁の湯気が眼鏡を曇らせたため、外して布巾で拭いた。食卓には遠藤の名刺と、今日受け取った書類の封筒が置かれていた。
「お母さんは逃げたんじゃない。やるべきことを全部やって、正面玄関から出てきたんだよ」
志乃は眼鏡をかけ直し、味噌汁の椀を持った。大根と油揚げはまだ熱く、湯気から味噌の匂いが上がっている。今度は誰の呼び鈴も鳴らなかったため、志乃は冷めないうちに最後まで飲んだ。




