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第3話 義母を捨てないための別居

第3話 義母を捨てないための別居


長谷川由美から折り返しの電話が来たのは、午後五時を少し過ぎたころだった。明日の朝一番に訪問すると言っていた長谷川は、志乃の声がいつもと違うことを気にして、最後の予定を終えた足で佐伯家へ来てくれた。志乃は肉じゃがの鍋を弱火にし、玄関に出したままだった青い室内履きをそろえた。


呼び鈴が鳴ると、静江は寝室から大きな声を出した。志乃が玄関の戸を開けると、生成り色のブラウスに紺色のパンツをはいた長谷川が、黒い仕事鞄を抱えて立っていた。九月の夕立に降られたらしく、短い髪とブラウスの肩が少し濡れている。


「遅い時間にごめんなさい。どうしても今日、顔を見ておいた方がいいと思ったんです」


「こちらこそ、急にすみません。夕飯どきなのに」


「夫には連絡しました。今夜は冷凍うどんを食べてもらいます。ネギくらい自分で切れるでしょう」


長谷川はそう言って笑ったが、志乃の顔を見るとすぐに口元を引き締めた。玄関には雅彦の靴が一足もなく、壁際には洗い終えた静江の防水シーツが畳まれている。台所からは肉じゃがの醤油と砂糖の匂いが漂い、食卓には志乃が途中まで書いた介護日誌と、冷めたほうじ茶が置かれていた。


静江が呼び鈴を三度続けて鳴らした。志乃が寝室へ向かおうとすると、長谷川は先に立ち上がった。面談の前に静江の体調を確認したいと言い、仕事鞄から体温計と記録用紙を取り出した。


「静江さん、長谷川です。お加減はいかがですか」


「志乃さんが、私を施設へ追い出すと言うのよ。息子がいない間に、ひどいと思わない?」


「追い出すのではありません。短い間、介護の専門職がいる場所で過ごしていただくんです」


「私はこの家から動きません。雅彦が帰るまで、嫁が世話をすればいいでしょう」


静江は薄紫色の寝巻きの胸元をつかみ、志乃をにらんだ。枕元には梅味の煎餅の袋が開いたまま置かれ、細かな欠片がシーツに散っている。長谷川は煎餅の袋を閉じて棚へ置き、静江の体温と血圧を測った。


体調に大きな変化はなかったが、踵の皮膚が赤くなっていた。長谷川は志乃が毎晩二時間おきに体位を変えていることを確認し、塗り薬とクッションの位置を介護日誌へ書き加えた。静江は、志乃のやり方が悪いから赤くなったのだと口を挟んだ。


「私はちゃんと頼んでいるのに、すぐに来ないことがあるのよ。嫁なのに、口答えもするし」


「静江さん、志乃さんは一日に何時間眠っていますか」


「そんなこと、私に聞かれても知らないわ」


「それでは、昨夜は何回、呼び鈴を押しましたか」


「必要だから呼んだだけよ。数えてなんかいません」


長谷川は返事をせず、静江の体位を整えた。志乃が枕を差し込もうとしたとき、半袖のTシャツから腕の赤紫色の痕がのぞいた。長谷川は志乃の手を止め、その痕を指さした。


「佐伯さん、これはどうしたんですか」


「昼に、お義母さんが腕を払ったときに当たりました。大したことはありません」


「大したことがあるかどうかは、佐伯さん一人で決めないでください。ほかにもありますか」


志乃は何も答えず、Tシャツの袖を少し上げた。手首に近い場所にも、爪でつかまれた細い傷が残っている。長谷川は傷の状態と日付を記録し、あとで写真も撮っておくように言った。


静江は、年寄りの力で痣などできるはずがないと声を上げた。志乃は癖になっていた「大丈夫です」という言葉を飲み込み、床へ落ちた煎餅の欠片を拾った。長谷川は静江に夕食後また来ると告げ、志乃を台所へ連れていった。


肉じゃがの鍋では、ニンジンだけが橙色に浮いていた。静江はニンジンを残すため、志乃は箸で一つずつ自分の小鉢へ移す。長谷川はその手元を見ながら、まず志乃自身の状態を確かめた。


「最後に続けて五時間以上眠ったのは、いつですか」


「覚えていません。雅彦さんが家にいても、夜は起きませんから」


「体重はどのくらい減りましたか」


「春に五十三キロありました。先週、病院で量ったら四十六キロでした」


「食事は一日三回、食べていますか」


志乃は食卓に置かれた昼の皿を見た。アジの骨が残り、冷めた味噌汁にはほとんど手をつけていない。朝に焼いた一枚のアジを、朝と昼の二回に分けて食べたことまで隠す必要はないと思った。


「三回用意しています。でも、自分の分は途中で呼ばれて、食べ忘れることがあります」


「今の生活を続けたら、佐伯さんが先に倒れます。そうなれば、静江さんの介護も突然止まります」


「だから、倒れる前に出たいんです。ただ、お義母さんを一人にはできません」


長谷川は大きくうなずき、黒い鞄から介護サービスの予定表を出した。静江は以前、緊急時にショートステイを利用できるよう、近隣の施設へ登録だけは済ませていた。ただし、雅彦が費用を惜しみ、実際に利用したことは一度もない。


長谷川は三か所の施設へ順番に電話をかけた。一か所目は満床で、二か所目も翌週まで空きがなかった。三か所目の若葉園には、三日後から十日間利用できる部屋が一つ残っていた。


「はい、要介護4です。食事は全粥で、副菜は刻み食です。移乗は二人介助をお願いしたいです。踵に発赤があります」


長谷川は静江の状態を細かく説明し、送迎時間と必要な持ち物を確認した。電話を切ると、予定表の三日後の日付へ赤い丸をつけた。志乃はその丸を指でなぞり、乾いていた唇を舐めた。


「十日間、お願いできますか」


「空床は確保できました。明日、施設の担当者に来てもらい、正式な手続きをしましょう」


「それまでの三日間は、私がやります」


「いいえ。今までと同じ三日間にしてはいけません。明日から訪問介護を朝夕に増やし、昼は見守りサービスを入れます。訪問看護にも毎日来てもらえるか確認します」


長谷川はその場で、訪問介護事業所と訪問看護ステーションへ連絡した。急な変更だったが、事情を伝えると、両方からできる限り調整するという返事があった。夜間については緊急通報装置を枕元へ置き、志乃が続けて眠れる時間を確保することになった。


長谷川は、静江の主治医にも電話を入れた。診療所は間もなく受付を終える時間だったが、看護師が事情を聞き、翌朝までに薬の情報と医療上の注意点を施設へ送ると約束した。志乃は電話が一本つながるたび、食卓の端に並べた洗濯物を一枚ずつ畳んだ。


「介護をやめると言ったら、皆さんに責められると思っていました」


「誰も責めません。もっと早く言ってほしかったくらいです」


「嫁なのだから、最後までやるべきだと言われるかと」


「静江さんの介護計画に、『嫁が倒れるまで介護する』という項目はありませんよ」


志乃は、静江の白い肌着を畳む手を止めた。長谷川の言葉を聞くまで、自分の身体も介護計画の外にあるとは考えたことがなかった。鍋の蓋が小さく鳴り、肉じゃがの甘い匂いが台所へ広がった。


二人は静江の夕食介助を終えてから、引き継ぎ表を作り始めた。朝昼夕の薬、食事の形態、水分量、排泄の間隔、体位交換、塗り薬、呼び鈴を押す頻度まで書き込む。静江がニンジンを残し、梅味の煎餅を好むことも、志乃は生活上の注意として記した。


「こんなことまで必要ですか」


「施設の人が、静江さんと話すきっかけになります。食べ物の好みは大切ですよ」


「お義母さん、昔はニンジンを食べていたんです。拓真が幼稚園のころ、星形に切ってカレーに入れてくれました」


「では、それも書きましょうか」


「いいえ。昔話まで書いたら、紙が何枚あっても足りません」


志乃は久しぶりに口元を緩めた。そのあと、緊急連絡先の欄に雅彦の名前と電話番号を書いた。夫が海外にいること、不倫相手と旅行中であることまでは介護の引き継ぎ表に必要なかったが、家族として連絡がつく番号は残した。


書類が完成すると、長谷川は複写を取るよう勧めた。原本は施設へ、複製はケアマネジャーと志乃がそれぞれ保管する。面談の日時、志乃から相談を受けた内容、各事業所へ連絡した時刻も、長谷川の支援記録に残された。


翌朝、訪問介護員が七時に来た。志乃は久しぶりに静江のオムツ交換を任せ、台所で熱い味噌汁を飲んだ。豆腐とワカメしか入っていなかったが、呼び鈴を気にせず最後まで飲めた。


昼には見守りサービスの職員が訪れ、午後には訪問看護師が踵の皮膚を確認した。志乃は空いた時間に、静江が施設へ持っていく寝巻きと肌着へ名前を書いた。青い油性ペンの先がつぶれており、「佐伯」の「伯」だけ太くなった。


二日目には若葉園の相談員が来て、契約内容を説明した。静江は施設になど行かないと抵抗したが、主治医から休養を兼ねた短期入所だと説明され、ようやく口を閉じた。雅彦が帰るまでの十日間だけだと聞くと、静江は息子への土産を買っておけと志乃に命じた。


「お義母さん、施設は旅行先ではありません。売店も小さいそうです」


「雅彦は甘いものが好きなのよ。何かあるでしょう」


「自分で買ってきてもらってください。私は雅彦さんの土産を探しません」


「本当に気の利かない嫁ね」


志乃は返事をせず、静江の新しい靴下へ名前を書いた。以前なら胸の奥へ残っていた言葉が、今日は油性ペンの匂いと一緒に窓の外へ抜けていった。庭では秋桜の花が五輪に増え、白いシーツの代わりに静江の寝巻きが風を受けていた。


入所前夜、志乃は雅彦へメッセージを送った。静江が三日後から若葉園のショートステイを十日間利用すること、施設の住所と電話番号、担当ケアマネジャーの名前を簡潔に記した。緊急時には雅彦にも連絡が入ることを付け加え、送信した画面を保存した。


一分もしないうちに既読がついた。しかし、返事はなかった。母親の体調を尋ねる言葉も、費用についての確認もない。志乃は画面を印刷し、介護関係の書類をまとめた青いファイルへ挟んだ。


その夜、拓真から連絡を受けた志乃は、雅彦が公開している旅行用の写真を確認した。南国のホテルのテラスで、雅彦と萌香が細長いグラスを合わせている。雅彦は白いシャツの胸元を開け、萌香は赤い花柄のワンピースを着ていた。


写真の隅には、海と大きなプールが写っていた。文章には「大切な仲間と新事業の成功を祝う夜」と書かれている。志乃は写真と投稿日時を保存し、拓真へも送った。


「おばあちゃんのことを知らせた直後だよ。父さん、正気なの?」


「既読にはなったから、知っているよ」


「電話して怒鳴ってやろうか」


「しなくていい。いま必要なのは、怒鳴り声ではなく記録だから」


三日目の朝、若葉園の送迎車が家の前へ到着した。静江は薄桃色のカーディガンを羽織り、車椅子に座っていた。膝には志乃が昨夜洗った花柄のひざ掛けが載っている。


施設の介護職員は、志乃が作った引き継ぎ表を一項目ずつ確認した。薬の袋、健康保険証の写し、着替え、塗り薬もそろっている。長谷川も立ち会い、施設到着後に必ず連絡を入れると約束した。


「志乃さん、私を置いてどこへ行くつもりなの」


「実家です。しばらく休みます」


「雅彦が帰ったら、あんたを叱ってもらいますからね」


「施設の方の言うことを聞いてください。踵が痛くなったら、我慢せずに伝えるんですよ」


静江は顔を背けたが、志乃が車椅子から手を離すと、慌てたように袖をつかんだ。志乃はその手を乱暴に振りほどかず、一本ずつ指を外した。代わりに介護職員が静江の肩へ手を添え、車内へ案内した。


送迎車が角を曲がるまで、志乃は玄関先に立っていた。胸の奥にはまだ、施設へ預けて本当によかったのかと尋ねる声が残っている。しかし、静江の薬も食事も介護も、すべて専門職へつながっていた。


長谷川は、志乃の肩を軽くたたいた。庭の秋桜には朝露が残り、薄桃色の花びらが陽射しを受けていた。志乃は花壇へ落ちた枯れ葉を一枚拾い、手の中で二つに折った。


「静江さんを捨てたのではありません。必要な介護へ引き継いだんです」


「はい。分かっています」


「今日からは、ご自分の食事と睡眠も記録してください」


「介護日誌は、もう終わりだと思っていました」


「今度は、佐伯さん自身のための日誌です」


長谷川を見送ったあと、志乃は家へ戻った。呼び鈴の鳴らない寝室には、消毒薬と静江が使っていた軟膏の匂いが残っている。志乃は窓を少し開け、シーツを外したベッドをそのままにした。


自分の荷物は多くなかった。着替え、通帳、印鑑、診察券、介護日誌の複製、雅彦の不倫を示す証拠を古い茶色の旅行鞄へ入れる。結婚したときに買った花柄のワンピースは押し入れに残し、母からもらった灰色のカーディガンだけを持っていくことにした。


食卓には、雅彦へ宛てた書面を置いた。そこには静江を若葉園へ安全に引き継いだこと、別居すること、離婚を希望していること、今後の連絡は記録が残る方法に限ることを書いた。書面の隣には、若葉園と長谷川の連絡先も置いた。


志乃は玄関で茶色の運動靴をはいた。冷蔵庫には肉じゃがが一食分残っていたため、小さな保存容器へ移して鞄に入れた。食べ物を捨てずに持っていく自分の癖が、今日は少しだけおかしかった。


最後に寝室を振り返ると、枕元の呼び鈴が目に入った。志乃はそれを手に取り、電池を抜いて棚の上へ置いた。静江が戻る日には、必要な人がもう一度つなげればよい。


「お義母さんの命は置いていかない。でも、私の人生は連れていきます」


志乃は誰もいない部屋へ向かって言った。玄関の鍵を閉めると、茶色の旅行鞄を自分の手で持ち上げた。庭の秋桜の横を通り、迎えに来た拓真の車へ向かって歩き出した。


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