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第2話 切れた糸と、冷静な準備

第2話 切れた糸と、冷静な準備


長谷川ケアマネジャーへ電話をかけたものの、その日は担当者会議で外出しており、事業所から折り返しを待つことになった。志乃は携帯電話をエプロンのポケットへ入れ、洗い終わったシーツを庭に干した。薄桃色の秋桜が物干し竿の下で揺れ、白いシーツの端が花に触れそうになるたび、志乃は洗濯ばさみを一つずつ増やした。


九月の風にはまだ夏の熱が残っていた。額から落ちた汗が、静江につかまれた腕の赤い傷へ染みる。志乃は井戸水のように冷たい水道水で腕を洗い、袖を下ろして痕を隠した。


昼前になると、静江の呼び鈴が鳴った。志乃が寝室へ入ると、静江は枕元の時計を指さし、昼食が遅いと文句を言った。まだ十一時四十分だったが、静江は毎日十一時半に食事をするのが決まりだと言い張った。


「お義母さん、いつもお昼は十二時ですよ。朝のお薬を飲んだのが八時ですから、まだ少し早いです」


「年寄りはお腹がすくのが早いの。雅彦がいたら、こんなに待たせたりしないわ」


「雅彦さんは、お義母さんのお昼が何時か知りません」


「知っているわよ。あの子は優しいもの」


志乃は言い返す代わりに、台所へ戻って小鍋を火にかけた。朝の粥に水を足し、細かく刻んだ梅干しを混ぜる。自分の昼食には、朝に残したアジの半身と冷めた味噌汁があったが、食卓へ座る時間はなかった。


冷蔵庫の扉には、雅彦が土産でもらってきた観光地の磁石がいくつも貼られていた。北海道の熊、京都の舞妓、沖縄のシーサーの下に、訪問看護、通院、入浴介助と書いた予定表が挟まれている。雅彦は旅行先の土産だけは買ってきたが、その日付に合わせて介護を手伝ったことはなかった。


粥を椀へよそい、麦茶と薬を盆に載せる。寝室へ戻ると、静江はテレビで旅番組を見ていた。画面には青い海と白い砂浜が映り、司会者が南国の果物を食べている。


「雅彦も、こんなところへ行ったのかしら。仕事ばかりで、かわいそうに」


「海の見えるホテルに泊まるそうですよ」


「仕事のできる人は、泊まる場所も立派なのよ。あんたには分からないでしょうけど」


志乃はベッドの背を上げ、静江の胸元へ黄色いタオルをかけた。小さな匙で粥をすくい、息を吹きかけて冷ましてから口元へ運ぶ。静江は一口食べただけで顔をしかめた。


「酸っぱいじゃない。梅干しなんか入れないでって言ったでしょう」


「昨日は、味がないから梅干しを入れてほしいと言いました」


「私はそんなこと言っていないわ。作り直しなさい」


志乃が椀を下げようとすると、静江は手を振り上げた。手の甲が志乃の腕へ当たり、盆が傾く。粥の椀は床へ落ち、黄色いタオルと畳の上に白い米粒が散った。


麦茶のコップも倒れ、畳へ茶色い染みが広がった。志乃は薬だけを先に拾い、濡れない場所へ置いた。静江は謝るどころか、鼻を鳴らして志乃を見下ろした。


「何をぼんやりしているの。嫁のくせに、食事一つまともに作れないのね」


「お椀を落としたのは、お義母さんです」


「あんたの出し方が悪かったからでしょう。雅彦なら、もっと優しく食べさせてくれるわ」


志乃は台所から雑巾と新聞紙を持ってきた。畳の目に入り込んだ米粒を、爪の先で一粒ずつ拾う。粥は踏めば畳の奥へ入ってしまうため、雑巾でこする前に取り除かなければならなかった。


新聞紙には、海外旅行の広告が載っていた。青い海を背にした男女が、細長いグラスを合わせて笑っている。志乃はその広告の上へ、静江が落とした粥を置いた。


「そんなところに座っていないで、早く作り直しなさい。雅彦は外国で大事な仕事をしているのよ」


「分かっています」


「あの子は家族のために働いているの。あんたが介護するのは当たり前でしょう」


志乃の指が止まった。つまんでいた米粒が、新聞紙の上へ落ちる。テレビから聞こえる波の音と、庭で鳴くツクツクボウシの声だけが、しばらく寝室に残った。


雅彦は今ごろ、海の見えるホテルで萌香と過ごしている。志乃は夜中に二時間おきに起き、静江の身体の向きを変え、汚れたオムツと寝具を交換している。ここ数か月は腰の痛みで靴下をはくのにも時間がかかり、食事中に箸を持ったまま眠ってしまうこともあった。


それでも志乃は、自分が我慢すれば家族が暮らしていけると思っていた。静江を施設へ入れればかわいそうだと雅彦に言われ、短期入所の話さえ断ってきた。だが、雅彦が守ろうとしていたのは母親ではなく、自分の財布と評判だった。


志乃は残りの米粒を拾い、汚れた新聞紙を折り畳んだ。胸の奥で張り続けていたものが切れたはずなのに、大きな音はしなかった。代わりに、次に何をすればよいのかが、洗った食器を水切り籠へ並べるように一つずつ見えてきた。


「お義母さん。新しいお粥を作る前に、確認したいことがあります」


「何よ。食べ物の恨みは怖いのよ」


「雅彦さんが帰るまで、ショートステイへ行っていただきます。私は実家へ戻ります」


静江は意味を理解できないように、何度もまばたきをした。やがて顔を赤くし、ベッドの柵を手のひらでたたいた。呼び鈴が床へ落ち、乾いた音を立てた。


「勝手なことを言わないで。誰が私の世話をするの」


「長谷川さんと相談します。訪問介護と訪問看護にも連絡します」


「嫁のあんたがやればいいでしょう。実家へ帰るなんて許しません」


「許可をいただくつもりはありません」


志乃は落ちた呼び鈴を拾い、静江の枕元へ戻した。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。静江がもう一度呼び鈴を鳴らしたが、志乃は作り直した粥と薬を届けてから、台所の椅子へ座った。


壁の時計は午後一時を回っていた。朝に焼いたアジは脂が固まり、味噌汁の表面には薄い膜が張っている。志乃はそれでも自分の昼食を一口ずつ食べ、最後に温くなった麦茶を飲んだ。


食事を終えると、志乃は押し入れの奥から古いノートパソコンを出した。雅彦は機械に弱い志乃が証拠を保存できるとは思っていない。しかし、志乃は介護保険の申請書類や医療費の一覧を何年もパソコンで管理しており、分からないことがあれば拓真へ電話して覚えてきた。


最初に、昨夜撮影した萌香のメッセージをパソコンへ移した。次に、雅彦が家庭用の印刷機で出力し、そのまま机へ置き忘れていた航空券の予約票を探す。書斎の引き出しには、雅彦と萌香の座席が並んで記載された予約確認書が残っていた。


旅行会社の封筒には、二名一室のホテル明細も入っていた。部屋の種類は、海を一望できるスイートルームだった。志乃は書類を一枚ずつ撮影し、日付を付けたフォルダへ保存した。


「大型事業の視察に、ダブルベッドが必要なのね」


声に出してみても、笑う気にはならなかった。印刷機の横には、雅彦が食べた煎餅の袋と空の湯飲みが置かれている。志乃は反射的に片づけようとして手を伸ばし、途中でやめた。


次に、志乃は雅彦との過去のメッセージを確認した。「今日は残業だから、母さんを頼む」「休日くらい寝かせてくれ」「オムツ交換は無理」「施設へ入れたら親を捨てたと思われる」。同じような言葉が何年分も残っていた。


志乃は必要な画面を保存し、介護日誌と照らし合わせた。表紙に油染みのある大学ノートには、静江の食事量、排泄、服薬、体温、夜間の呼び出し回数が細かく書かれていた。欄外には、志乃自身の腰痛、めまい、眠れなかった時間も、小さな字で記録してある。


六月十三日、午前二時、体位交換。午前三時半、失禁により寝具交換。午前五時、静江が胸苦しさを訴え、訪問看護へ連絡。雅彦は別室で就寝し、声をかけても起きず。


七月二十八日、志乃が発熱。雅彦へ介護の交代を頼むが、会社の付き合いを理由に拒否。志乃は解熱剤を飲み、夕食介助とオムツ交換を行う。


八月十九日、長谷川から短期入所を提案される。雅彦が費用を理由に拒否。同日、雅彦は会社の部下と一人一万二千円の焼き肉店を利用。


志乃はページをめくる手を止めた。焼き肉店のレシートが財布から落ちた日、自分は値引きされた豆腐ともやしで夕食を作った。静江には白身魚の煮付けを出したが、味が濃いと言われて捨てられた。


介護日誌を複写機へ置き、重要なページを印刷する。自分の整形外科と内科の診療明細、睡眠不足と血圧上昇を指摘された診療記録も封筒へ入れた。原本、複製、パソコンのデータの三つに分ければ、雅彦に一つを奪われても残りを守れる。


夕方になると、拓真から電話がかかってきた。仕事の休憩時間らしく、背後から電車の発車音が聞こえている。志乃が事情を話すと、拓真はすぐに迎えに行くと言った。


「お母さん、今夜はそこにいて大丈夫なの?」


「おばあちゃんを置いては出られないよ。まだ受け入れ先が決まっていないから」


「父さんは、どこにいるんだよ」


「海の見えるホテル。仕事だそうよ」


「それを仕事だと信じろって? お母さん、証拠は全部、俺にも送って。父さんのパソコンだけに残したら駄目だよ」


志乃は、雅彦と萌香のメッセージ、航空券、ホテルの明細を拓真へ送った。介護日誌の複製も写真に撮って送信する。拓真から「受け取った」と返信が来るまで、志乃は携帯電話を両手で握っていた。


庭へ出ると、午前中に干したシーツが乾いていた。薄桃色の秋桜の隣では、白い彼岸花が一輪だけ咲き始めている。志乃は乾いたシーツを取り込み、角を合わせて四つに畳んだ。


寝室へ運ぶと、静江は夕方の時代劇を見ながら煎餅を食べていた。昼の粥を酸っぱいと捨てたのに、梅味の煎餅には文句を言わない。布団に落ちた欠片を拾う志乃へ、静江は夕食に天ぷらを作れと言った。


「油は危ないので、今日は肉じゃがです」


「雅彦がいないと、すぐ手を抜くのね」


「今日はジャガイモが安かったんです。ニンジンも入れます」


「私はニンジンが嫌いよ。雅彦は分かってくれるのに」


雅彦が母親の好物を知っているなら、静江が梅味の煎餅を好むことも、肉じゃがのニンジンだけ残すことも答えられるはずだった。志乃は煎餅の欠片を掌に集め、台所のごみ箱へ捨てた。もらい物のジャガイモを洗っていると、エプロンのポケットで携帯電話が震えた。


画面には長谷川由美と表示されていた。志乃は蛇口を閉め、濡れた手を花柄の布巾で丁寧に拭いた。これから口にする言葉は、もう引っ込めないと決めた。


「佐伯さん、お電話をいただいたのに遅くなって申し訳ありません。お義母様に何かありましたか」


「静江さんではありません。私のことで相談があります」


「佐伯さんのことですか」


「長谷川さん。もう一人では続けられません。安全に介護を引き継いで、私はこの家を出ます」


電話の向こうで、長谷川は驚いた声を出さなかった。代わりに、今日までよく電話をくれましたねと言い、明日の朝一番に訪問すると約束した。志乃は鍋にジャガイモを入れながら、今度こそ予定を変えないと答えた。


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