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第1話 甘い香水と十日間の出張

第1話 甘い香水と十日間の出張


九月に入っても朝から蒸し暑く、佐伯家の台所では、味噌汁の湯気と焼いたアジの匂いが混じっていた。志乃は色の褪せた紺色のTシャツに薄茶色のズボンをはき、静江の朝食用に粥を小鍋で温めながら、雅彦の弁当箱へ卵焼きを詰めていた。旅行へ出る日まで弁当を作る必要はないと思ったが、昨夜の残りを捨てるのも惜しく、結局いつもの癖で二人分を用意してしまった。


雅彦は白いポロシャツに新品のベージュのチノパンを合わせ、鏡の前で髪を整えていた。普段の出張なら着古した紺色のスーツで出かけるのに、今日は腕時計まで新しくなっている。志乃が食卓へアジの開きを置いても、雅彦は鏡から目を離さなかった。


「朝ご飯、できていますよ。味噌汁が冷めます」


「空港で食べるから、いらない。向こうで取引先と会うんだから、少しは身なりにも気を使わないとな」


雅彦はそう言いながら、ポロシャツの襟を二度立てては戻した。五十二歳の夫が二十代の若者のように鏡の前で横を向き、腹をへこませている。志乃は何も言わず、雅彦のために焼いたアジを自分の皿へ移した。


食卓の横には、値札を外したばかりの黒い旅行鞄が置かれていた。十日分のシャツや下着だけでなく、海水パンツ、日焼け止め、派手な青いサングラスまで入っている。大型事業の視察に海水パンツが必要なのかと聞きかけた志乃は、旅行鞄から漂ってくる甘い匂いに気づいた。


果物を煮詰めたような香水だった。志乃は香水を使わず、義母の静江も匂いに敏感なため、家には無香料の洗剤しか置いていない。その匂いには、昨日まで佐伯家になかった誰かの生活が染みついていた。


「ずいぶん新しいものを買ったのね。旅行鞄も、服も、その時計も」


「海外へ行くのに、みすぼらしい格好はできないだろう。全部、仕事で必要なんだ」


「海水パンツも?」


雅彦の手が、旅行鞄のファスナーの上で止まった。しかし、すぐに鼻で笑い、取引先との親睦でホテルのプールを使うかもしれないと言った。志乃は冷め始めた味噌汁を一口飲み、浮いていた油揚げを箸で沈めた。


前夜、志乃は居間の壁際で洗濯物を畳んでいた。静江の肌着、雅彦のワイシャツ、自分の靴下を順番に重ねていると、充電中だった雅彦のスマートフォンが震えた。見るつもりはなかったが、明るくなった画面には、城崎萌香という名前とメッセージが大きく表示されていた。


『海の見える部屋、予約できたよ。十日間ずっと一緒なんて夢みたい』


続いて、ハートのついたスタンプが表示された。志乃は静江の肌着を畳んだまま、しばらく指を動かせなかった。洗濯機の中には次のシーツが残っており、台所では麦茶を沸かしたやかんが音を立てていた。


雅彦は風呂場から鼻歌を歌いながら戻ってきた。志乃は画面の写真を自分の古い携帯電話で撮り、スマートフォンを元の位置へ戻した。雅彦は髪を拭きながら、寝たきりの母親が夜中に呼んでも自分を起こすなと言った。


「明日は朝が早いんだ。静江が騒いでも、俺は起こすなよ」


「あしただけではなく、十日間いないのでしょう」


「だから、その間はお前がしっかりしてくれ。出張中に母さんのことで電話してくるなよ」


志乃は返事をせず、畳んだ静江の肌着を箪笥へ運んだ。廊下の窓から見える小さな庭には、薄桃色の秋桜が三輪咲いていた。春に静江から雑草だと言われ、抜くよう命じられた苗を、志乃が庭の隅へ植え替えておいたものだった。


朝食を終えないうちに、予約していたタクシーが家の前へ止まった。雅彦は旅行鞄を引いて玄関へ向かい、志乃へ重い方を持たせようとした。志乃が黙って見ていると、雅彦は舌打ちをし、自分で段差を越えた。


「十日も家を空けるなら、お義母さんに顔を見せていったら?」


「寝ているなら起こさなくていい。帰ってから土産でも渡すよ」


「薬が何種類あるか、知っていますか」


「そんなことは、お前とケアマネに任せているだろう」


雅彦は母親の部屋を振り返りもしなかった。玄関には、昨日の雨で泥のついた志乃の運動靴と、訪問看護師が使う青い室内履きが並んでいる。その横だけが四角く空いており、雅彦は仕事用の革靴まで鞄へ入れていた。


タクシーの運転手が旅行鞄を持ち上げたとき、甘い香水がもう一度漂った。雅彦のポロシャツの肩にも、同じ匂いがついている。萌香とすでに会っていたのだと分かっても、志乃は夫の襟を正してやる気にはならなかった。


「じゃあ、行ってくる。静江のこと、よろしくな」


「大型事業の視察でしたね」


「何度も言わせるなよ。遊びに行くわけじゃないんだ」


雅彦は志乃と目を合わせず、タクシーの後部座席へ乗り込んだ。車が角を曲がる前に、雅彦は誰かへ電話をかけ、笑いながら手を振っていた。志乃は玄関先に立ったまま、青い車体が見えなくなるまで見送った。


庭の秋桜が風に揺れ、乾いた花びらが一枚、玄関のたたきへ落ちた。志乃はそれを拾って台所の小皿へ載せた。捨ててしまえばよかったが、朝から何かを捨てると一日中落ち着かないのが、志乃の昔からの癖だった。


寝室から電子音の呼び鈴が鳴った。志乃が靴を脱ぐ前に二度、三度と続けて鳴り、やがて静江のかすれた声が廊下まで響いた。雅彦がいなくなった家は静かになるどころか、いつもより狭くなったように感じられた。


「志乃さん、いつまで待たせるの。早く来なさい」


「いま行きます。靴くらい脱がせてください」


「口答えする暇があるなら、急ぎなさい。雅彦はもう出たの?」


志乃が寝室へ入ると、酸っぱい排泄物の匂いが鼻を刺した。薄紫色の寝巻きを着た静江は、濡れたシーツを指さしながら眉をつり上げている。枕元には飲み残した麦茶と、昨夜むいたミカンの皮が載った皿が置かれていた。


「呼び鈴を押したのに、遅いじゃない。背中まで気持ちが悪いのよ」


「雅彦さんを見送っていました」


「仕事なんだから、きちんと見送るのは当たり前でしょう。あの子は家族のために外国まで働きに行くのよ」


「そうですね。海水パンツを持って、大変な仕事です」


静江は皮肉に気づかず、雅彦は昔から水泳が得意だったと話し始めた。小学生のときに町内の大会で二位になり、帰りにクリームソーダを二杯飲んだという話だった。志乃は同じ話を何十回も聞いていたが、静江の身体を横向きにしながら、いつも通り相槌を打った。


濡れた寝巻きを脱がせ、身体を拭き、新しいオムツを着ける。静江は身体を動かすたびに痛いと訴え、志乃の腕を爪でつかんだ。赤い筋が残っても、志乃は手を止めなかった。


「もっと優しくできないの。雅彦なら、こんな乱暴なことはしないわ」


「雅彦さんは、お義母さんのオムツを一度も替えたことがありません」


「あの子は男なのよ。外で働く人に、そんなことをさせられないでしょう」


「私も結婚するまでは、外で働いていました」


静江は聞こえなかったように顔を背けた。志乃は汚れたシーツを丸め、洗面器へ入れた。窓の外からは、ごみ収集車の音と、近所の保育園へ向かう子どもの笑い声が聞こえていた。


洗濯機にシーツを入れると、洗剤は容器の底に一回分しか残っていなかった。雅彦に買ってくるよう三日前から頼んでいたが、旅行用の香水を買う時間はあっても、洗剤を買う時間はなかったらしい。志乃は容器へ少量の水を入れて振り、最後まで使い切ってから洗濯機の蓋を閉めた。


雅彦の靴箱を開けると、通勤用の革靴も休日用のスニーカーもなくなっていた。十日間の出張にしては、持ち出した靴が多すぎる。志乃は空いた棚へ、玄関に置かれていた自分の運動靴を一足ずつ収めた。


洗濯機が回り始めると、静江がまた呼び鈴を鳴らした。これまでなら、志乃は濡れた手をエプロンで拭きながらすぐに駆けつけていた。しかし今日は、蛇口をきちんと閉め、味噌汁の鍋を冷蔵庫へ入れ、庭の秋桜に水をやってから寝室へ戻った。


「遅いわよ。今度は何をしていたの」


「出かける準備です」


「買い物なら、牛乳と雅彦の好きなビールを忘れないで。あの子が帰ってきたとき、冷えていなかったらかわいそうでしょう」


志乃は枕元の呼び鈴を取り、静江の手が届く位置へ置き直した。静江の薬と介護記録を確認し、長谷川ケアマネジャーの名刺をエプロンのポケットへ入れる。甘い香水の匂いはもう消えていたが、志乃の腕には静江の爪の跡が残っていた。


「お義母さん。私も、十日間ここを離れます」


静江は口を開けたまま志乃を見上げた。洗濯機が脱水を始め、古い家の床が小さく震えている。志乃は呼び鈴から手を離し、長谷川の電話番号を押した。


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