第10話 介護費用の自己負担金にびっくり
第10話 介護費用の自己負担金にびっくり
静江が特別養護老人ホームへ入所して一か月後、雅彦の新しいアパートへ請求書が届いた。茶色い封筒には施設名が印刷され、窓の部分から「佐伯静江様」と書かれた明細が見えている。雅彦はコンビニで買ったカップ麺に湯を注ぎ、三分待つ間に封を切った。
六畳一間の部屋には、以前の家から持ってきた小さな食卓とテレビしかなかった。洗濯物はカーテンレールに掛けられ、流しには二日前のコーヒーカップが残っている。窓際に置いた金色の象は片方の牙が折れ、旅行土産だったことを思い出させる物も、それ一つだけになっていた。
請求書には、介護サービスの自己負担分、居住費、食費、日用品費、理美容代が項目ごとに書かれていた。合計欄を見た雅彦は、湯を入れたばかりのカップ麺を倒しそうになった。介護保険を使えば、ほとんど無料になると思っていた金額とは違っていた。
「十三万八千円? 何かの間違いだろう」
雅彦は明細へ顔を近づけた。食費だけでも数万円あり、居住費も毎日加算されている。静江の年金だけでは足りず、雅彦が不足分を補わなければならなかった。
カップ麺の蓋が湯気で浮き上がったが、雅彦は気づかなかった。財布の中には、給料日まで使う予定の一万円札が一枚と、何枚かの千円札しかない。役職を外されてから給与は減り、慰謝料と財産分与の支払いも始まっていた。
雅彦は請求書に書かれた施設の番号へ電話した。数回の呼び出し音のあと、生活相談員の女性が出た。雅彦は名前を名乗るより先に、請求額が高すぎると訴えた。
「介護保険があるのに、どうして十三万円も払うんですか」
「介護サービスの自己負担分のほかに、居住費や食費、日用品費などが必要になります。明細をご覧いただけますか」
「母は寝ているだけでしょう。部屋代や食事代に、こんなにかかるんですか」
「毎日の食事、入浴、排泄介助、体位交換、服薬管理などを行っています。夜間も職員が対応しております」
「それは施設の仕事でしょう。そのために介護保険を払っているんじゃないんですか」
相談員は声を荒らげず、請求書の項目を一つずつ説明した。静江の所得状況によって利用できる軽減制度についても案内し、必要な書類を提出すれば負担が変わる可能性があると伝えた。雅彦は書類という言葉を聞いただけで、眉間へ皺を寄せた。
「そういう手続きは、そちらでやってくださいよ」
「申請には、ご本人やご家族にご用意いただく書類があります。以前は志乃さんが、必要な更新手続きをされていたそうですね」
「もう離婚した人間の名前を出さないでください」
「では、雅彦さんにお願いいたします。今週中に一度、施設へお越しいただけますか」
雅彦は仕事があると答えた。しかし、相談員から平日の夕方や土曜日でも対応できると言われ、断る理由がなくなった。電話を切ると、カップ麺は汁を吸って膨らみ、箸で持ち上げると短く切れた。
食べる気をなくした雅彦は、請求書を食卓へ置いた。以前なら志乃へ渡し、支払っておけの一言で終わっていた。介護保険証がどこにあるのか、静江の年金が月にいくらなのか、どの費用に軽減制度が使えるのか、一度も確かめたことがなかった。
翌日の夕方、雅彦は会社から施設へ向かった。紺色の作業用ジャンパーの下には、襟のよれたワイシャツを着ている。受付には赤と白のシクラメンが飾られ、食堂から魚を焼く匂いが漂っていた。
静江は食堂の窓際で、夕食を待っていた。薄桃色のカーディガンはきれいに洗われ、髪も短く整えられている。雅彦を見ると、手を上げる代わりに、壁の時計を確認した。
「今日は何をしに来たの」
「母さんの金の話だよ。施設から高い請求が来たんだ」
「そう。それで、私を家へ連れて帰るの?」
「今のアパートじゃ介護できない。家だって、もう売っただろう」
「だったら、ここに置いてもらうしかないでしょう」
静江は当然のように答えた。職員が麦茶を運んでくると、ありがとうと言って受け取る。志乃に水を持ってこさせていたころ、一度でも礼を言っていたのか、雅彦には思い出せなかった。
「月に十三万円以上もかかるんだぞ。母さんの年金だけじゃ足りない」
「志乃さんは、毎月どうしていたの」
「俺が知るわけないだろう。家計は、あいつが管理していたんだから」
「知らないのに、無駄遣いするなと怒鳴っていたのね」
「誰のために金の心配をしていると思っているんだ」
「自分のためでしょう」
静江は麦茶を一口飲み、窓の外へ顔を向けた。施設の庭には、白い水仙と黄色い福寿草が咲いている。車椅子に座る静江からも見えるよう、花壇は通路より少し高く作られていた。
生活相談員が迎えに来ると、雅彦は別室へ案内された。机には申請書、静江の年金額が分かる書類、負担軽減制度の案内が並べられている。施設費が無料になるわけではないが、要件を満たせば居住費や食費の負担を抑えられる可能性があった。
「こちらは、昨年まで志乃さんが更新されていた書類です」
相談員は、前年度の申請書の写しを見せた。志乃の字で、静江の収入、預貯金、年金の種類が細かく記入されている。欄外には、提出した書類と受付日まで書かれていた。
「妻が払っていたんですか」
「施設費そのものではなく、以前利用されたショートステイや在宅サービスの費用は、ご家庭で管理されていたようです。お支払いの方法については、ご家族内のことですので、私どもには分かりません」
「介護保険があるのに、金がかかるなんて聞いていません」
「長谷川ケアマネジャーから、何度か費用の説明を受けていませんか」
雅彦は、長谷川から渡された書類を思い出した。自宅の靴箱へ置いたまま読まず、引越しのときにほかの紙と一緒に捨てている。志乃が短期入所を提案するたび、金がかかるの一言で断ってきたが、実際の金額を調べたことはなかった。
相談員は、静江の年金から毎月いくら支払えるかを確認した。不足分については、雅彦がどのように負担するか考えなければならない。理美容や衣類など、月によって変わる費用もあった。
「髪なんて、切らなくても死なないでしょう。服だって、家から持ってきたものがある」
「清潔を保つことも必要です。衣類も汚れたり傷んだりします」
「食費はもっと安くできませんか。母は粥しか食べないんですよ」
「粥だけを提供しているわけではありません。栄養状態や飲み込む力に合わせ、副菜も調整しています」
「俺は毎日カップ麺で済ませているのに」
「それは、雅彦さんご自身の食生活のお話ですね」
相談員は、鉛筆を申請書の横へ置いた。雅彦は何か言い返そうとしたが、適当な言葉が見つからなかった。机の端には、来客用のほうじ茶と個包装の煎餅が置かれていた。
煎餅の袋には、梅の絵が印刷されている。静江が好んでいた梅味だった。志乃が引き継ぎ表へ書いたため、施設でもときどき用意されているという。
「妻は、こんなことまで伝えたんですか」
「食べ物の好みだけではありません。昔の生活や、嫌がる介助の仕方、落ち着く声のかけ方も書いてありました。職員にとって、とても助かる引き継ぎでした」
「そこまで知っているなら、志乃が介護すればよかったんだ」
「知っていることと、一人で背負い続けられることは違います」
相談員の返事は静かだった。雅彦は鉛筆を持ち、申請書へ静江の名前を書き始めた。母親の生年月日を書く欄で手が止まり、携帯電話の連絡先から健康保険証の写真を探した。
手続きが終わるころには、夕食の時間になっていた。食堂へ戻ると、静江の前には全粥、白身魚の煮付け、カボチャの含め煮、刻んだ青菜が並んでいる。味噌汁には細かく切った豆腐が入っていた。
職員は、静江の身体を少し起こし、一口ずつ食べる速さを確かめている。静江がカボチャは甘すぎると言うと、職員は無理に勧めず、白身魚から食べましょうと声をかけた。雅彦が家で出したレトルトの粥とは違い、出汁の匂いが食卓まで届いた。
「母さん、俺は帰るぞ。施設の申請はしておいたからな」
「そう。ご苦労さま」
「毎月、足りない金を俺が出すんだぞ」
「私を家でみるより安いんじゃないの」
「金の問題だけじゃない。もっと感謝してもいいだろう」
静江は匙を口へ運んでもらいながら、雅彦を見た。口元を職員に拭いてもらってから、ゆっくり話した。声は小さかったが、隣の席まで聞こえた。
「志乃さんは、何年もこれをしてくれたわ。あんたは一度でも、あの人に感謝したの?」
雅彦は答えず、椅子の背へ掛けていたジャンパーを取った。食堂には煮魚と味噌汁の匂いがあり、窓の外では庭の照明が水仙を照らしている。帰れば、六畳のアパートに食事は用意されていなかった。
そのころ、志乃は拓真と一緒に、実家近くの商店街を歩いていた。離婚届は正式に受理され、財産分与と慰謝料の支払い方法も決まっていた。志乃は薄い若草色のコートを着て、白い布製の買い物袋を肩へ掛けていた。
花屋の前には、桃色と黄色のチューリップが並んでいた。志乃は足を止め、黄色い花を三本選んだ。以前なら、花へ使うお金があれば静江の果物を買わなければならないと、手を伸ばす前に諦めていた。
「三本だけでいいの?」
「花瓶が小さいから、これで十分。食卓に置いたら、味噌汁を運ぶときに倒しそうだもの」
「お母さん、相変わらず現実的だな」
「花は倒れたら水を拭かないといけないでしょう」
志乃は笑い、チューリップを新聞紙で包んでもらった。隣の八百屋では、新ジャガイモと菜の花を買った。夕食は菜の花の辛子和えと、肉じゃがにする予定だった。
実家へ戻ると、志乃は買った花を古いガラス瓶へ挿した。食卓には、地域の介護者家族会から届いた案内と、新しい仕事の応募書類が置かれている。長谷川の紹介で、介護者を支援する団体の事務補助を始めることになっていた。
静江を長年介護した経験を、美しい思い出に変えるつもりはなかった。夜中に鳴り続けた呼び鈴も、冷めた食事も、腕に残った爪の痕も、なかったことにはできない。それでも、介護日誌を書き、薬を管理し、支援先を調整してきた力は、これから自分の仕事として使うことができる。
拓真が台所でジャガイモの皮をむきながら、施設費について父親から連絡が来たと話した。雅彦は、静江の費用を志乃にも負担させられないかと尋ねてきたという。拓真は遠藤を通すよう伝え、それ以上は答えなかった。
「お母さんには、言わない方がよかった?」
「ううん。でも、私から連絡はしないよ」
「おばあちゃんのこと、気にならない?」
「長谷川さんから、必要な介護を受けていると聞いている。それで十分」
「父さんは、介護保険なら無料だと思っていたみたいだ」
「家計簿も請求書も、一度も見なかったからね」
志乃は肉じゃがの鍋へ砂糖と醤油を入れた。出汁の匂いが台所へ広がり、拓真が味見をしたいと小皿を差し出す。まだジャガイモが固いため待つように言うと、拓真は子どものころと同じ顔で鍋をのぞいた。
食卓の携帯電話が鳴った。以前なら、呼び鈴と同じように身体が先に動いていたが、志乃は火を弱めてから画面を確認した。連絡してきたのは、これから働く支援団体の担当者だった。
仕事の開始日と勤務時間を確認し、志乃は週三日から始めたいと伝えた。電話を切ると、肉じゃがのニンジンを一つ味見した。少し固かったため、蓋をしてもう五分煮ることにした。
「お母さん、味噌汁もできたよ」
「先に食卓へ運んで。今度は冷めないうちに食べよう」
拓真が二人分の味噌汁を運び、志乃は鍋の火を止めた。黄色いチューリップの隣から湯気が上がり、豆腐とワカメの匂いがした。もう誰の呼び鈴も鳴らず、志乃は温かいままの味噌汁へ箸をつけた。




