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第11話 自分のために鳴らす呼び鈴

第11話 自分のために鳴らす呼び鈴


離婚届が受理されてから三か月後、志乃は実家から歩いて十五分ほどの場所にあるアパートへ引っ越した。二階の角部屋で、六畳の和室と小さな台所しかないが、南向きの窓から朝日が入る。窓の下には大家が育てている紫陽花が並び、青や薄紫の花が雨粒を載せていた。


志乃が運び込んだ家具は、小さな食卓、古い箪笥、母が使っていた食器棚だった。結婚していた家から持ち出したのは、自分で買った衣類、通帳、介護日誌の複製、欠けた白い湯飲みだけである。新しく買った黄色いカーテンを取りつけると、狭い部屋が以前の家より明るく見えた。


離婚に伴う手続きは、遠藤の助言を受けながら一つずつ終わらせた。自宅を売却して住宅ローンを精算し、残った金額から志乃の財産分与分が支払われた。年金分割の手続きも済み、不貞に対する慰謝料は、雅彦と萌香がそれぞれ分割して支払うことで合意した。


通帳へ最初の慰謝料が振り込まれた日、志乃は何度も残高を確かめた。長い結婚生活が、その金額だけで清算されたとは思わなかった。冷めた食事も、夜中の呼び鈴も、仕事を辞めた六年間も、通帳の数字に置き換えられるものではなかった。


それでも、そのお金は志乃が新しい部屋を借り、自分の生活を始めるために使えた。敷金を払い、布団を買い、必要な鍋とフライパンを一つずつそろえた。台所用品を選ぶとき、志乃は小さな片手鍋を手に取った。


「二人分なら、大きい方がお得ですよ」


売り場の店員が勧めたが、志乃は首を横に振った。これから毎日、誰かの分まで食事を作る必要はない。一人分の味噌汁が作れる青い片手鍋を買い、帰宅してすぐに豆腐とワカメを煮た。


静江は、長谷川が手続きを支援した特別養護老人ホームで暮らしていた。志乃は保証人でも緊急連絡先でもなく、施設から介護を求められることはない。長谷川から必要な連絡を一度受け、静江が食事を取り、職員の介助で入浴していることだけを確認した。


雅彦からは、静江が志乃に会いたがっているという連絡が、遠藤を通して一度だけ届いた。志乃は何日か考えたあと、今は面会しないと返答した。会わないことを決めても、翌朝にはいつも通り米を研ぎ、青い片手鍋で味噌汁を作った。


志乃が再び介護者へ戻ることはなかった。それは静江の病気を憎んでいるからでも、介護を必要とする人を嫌っているからでもない。自分一人が背負わなければならないという関係へ戻らないと決めたからだった。


六月の初め、志乃は地域の介護者家族を支援する団体で働き始めた。職場は古い市民会館の一室にあり、机が四つと書類棚が二つ並んでいる。窓辺には職員が持ってきた赤いゼラニウムが置かれ、給湯室からインスタントコーヒーの匂いが漂っていた。


初出勤の日、志乃は淡い水色のブラウスに紺色のスカートをはいた。ブラウスは拓真が就職祝いとして買ってくれたものだった。胸元に名札をつけるとき、長く使っていなかった鏡を見て、襟を二度整えた。


「佐伯さん、最初から無理をしないでくださいね。今日は電話の取り方と、書類の場所を覚えるだけで十分です」


代表の小林は、そう言って業務予定表を渡した。五十代後半の女性で、髪を後ろに束ね、緑色のエプロンをつけている。エプロンのポケットから、飴の包み紙と赤いボールペンが半分ずつ出ていた。


「電話対応はできます。介護の事業所や病院には、何度も連絡していましたから」


「では、記録を取るのも慣れていますか」


「日時、担当者名、話した内容、次に連絡する日を書いていました」


「それは助かります。うちの記録、担当者によって書き方が違うんです」


志乃は、相談受付の記録用紙を一枚ずつ確認した。相談者の名前だけが書かれ、折り返し先のないものや、次に誰が対応するのか分からないものが混じっている。志乃は小林の許可を得て、日付、相談内容、緊急性、対応者、連絡先、次回確認日の欄を作った。


昼休みには、職員三人で食卓を囲んだ。志乃の弁当には、梅干しのおにぎり、卵焼き、昨夜の残りの肉じゃがが入っている。小林はコンビニのサンドイッチを食べながら、志乃の卵焼きがきれいだと言った。


「長方形の卵焼き器を買ったんです。一人分なのに、三個も焼いてしまいました」


「長年の癖は、すぐには変わりませんよ。余ったら、私が食べます」


「それなら明日は、少し多めに持ってきます」


「佐伯さん、それでは一人分を覚える練習になりませんね」


二人が笑うと、食卓にパンの袋がこすれる音がした。志乃は温かい麦茶を飲み、時計を気にせず肉じゃがを食べた。昼休みの終わりまで、電話は一本も鳴らなかった。


仕事を始めて一か月もすると、志乃は相談記録の整理を任されるようになった。家族の体調、要介護者の状態、利用中のサービスを一枚で確認できるよう、項目をそろえた。緊急性の高い相談には赤、急がない連絡には青の付箋をつけ、誰が見ても次の対応が分かるようにした。


「佐伯さんが来てから、折り返し忘れがなくなりました」


若い職員が、書類棚を見ながら言った。志乃は青い付箋の位置を直し、まだ改善できるところがあると答えた。介護日誌を何年も書き続けた経験が、今度は仕事として評価されていた。


「自宅でも、こんなに記録していたんですか」


「薬の時間、食事、排泄、体温、連絡先まで、全部書いていました」


「すごいですね。私なら三日でやめてしまいそうです」


「書かなければ、私以外の人に何も伝わらなかったんです。だから、やめられなかっただけですよ」


志乃は笑い、午後の相談会で使う名札を並べた。透明なケースの端が一つ割れていたため、指を傷つけないようテープを貼る。以前なら家へ持ち帰って直したかもしれないが、今日は勤務時間内にできるところまでで終わらせた。


月に二度、団体では介護者家族の交流会を開いていた。丸い机を囲んでお茶を飲み、家族には言えないことを話す。志乃は参加者の受付と記録を担当し、求められたときだけ自分の経験を話した。


ある日、四十代の女性が初めて交流会へ来た。灰色のパーカーを着て、膝の上に古い大学ノートを抱えている。受付用紙へ名前を書こうとしても指が震え、何度もペンを置いた。


「書けるところだけで大丈夫です。お名前も、今日は名字だけで構いません」


「母を一人にしてきました。訪問介護の人が来るまで、一時間あります」


「鍵と水分、緊急通報の準備はできていますか」


「はい。ケアマネジャーにも相談しました。それでも、家を出ると何か起きる気がして」


志乃は女性を窓際の席へ案内した。机には小林が買ってきた麦茶と、袋入りの小さな羊羹が置かれている。窓の外では雨に濡れた紫陽花が咲き、開いた窓から湿った土の匂いが入ってきた。


女性は麦茶へ手を伸ばさず、抱えていた大学ノートを開いた。ページには、母親の食事量、排泄、服薬、夜中に起きた時刻が細かな字で書かれている。欄外には「二時半、着替え」「四時、転倒しかける」「六時、朝食準備」と続き、女性自身が眠った時間はどこにもなかった。


「これを、何年続けていますか」


「七年です。夫も兄も、私が一緒に住んでいるのだから、やって当然だと言います」


「ショートステイを利用したことはありますか」


「来月、初めてお願いする予定です。でも、その間に家へ帰らなかったら、母を捨てることになるでしょうか」


女性は大学ノートの表紙を強く握った。油染みのついた角が曲がり、爪の跡が残っている。志乃は、かつて自分が使っていた介護日誌と同じだと思った。


「家を出たら、母を捨てたことになりますか」


志乃はすぐに答えず、女性からノートを受け取った。一ページ目から順番にめくると、体温が上がった日に主治医へ連絡した記録や、薬を変更した日付も残っている。母親を捨てようとする人が、七年間も書ける内容ではなかった。


「お母様を一人にして、誰にも知らせず出ていくのですか」


「違います。ケアマネジャーと訪問看護師さんに相談して、ショートステイを予約しました。薬の表も作っています」


「では、捨てるのではありません。必要な人へ引き継ぐんです」


「でも、母に泣かれたら、行けないと言ってしまいそうで」


「私も、同じでした」


志乃は、自分が家を出た日のことを話した。静江を施設の送迎車へ乗せ、薬と介護記録を渡し、到着の連絡を受けてから自分の荷物を持った。誰かに責められないためではなく、静江の命と自分の生活を両方守るために必要な準備だった。


「介護を専門家へ引き継ぐことと、命を見捨てることは違います。家族を守るために、あなたまで壊れる必要はありません」


女性は何度かうなずき、初めて麦茶を口へ運んだ。ぬるくなっていたが、少しずつ最後まで飲んだ。帰るときには、次の交流会にも来たいと言い、自分で大学ノートを鞄へ入れた。


勤務を終えると、志乃は駅前で拓真と待ち合わせた。拓真は仕事帰りのワイシャツ姿で、青い紙袋を持っていた。近くの定食屋へ入り、二人でアジの開き定食を注文した。


「新しい部屋で使って。就職祝いをまだ渡していなかったから」


紙袋の中には、手のひらに載るほど小さな目覚まし時計が入っていた。白い文字盤の周りを薄桃色の花が囲んでいる。音量を三段階に変えられ、止めるボタンも大きかった。


「目覚まし時計なら、携帯電話にもついているよ」


「お母さん、夜は携帯電話を枕の下へ入れる癖があるだろう。もう緊急連絡を待ちながら寝なくていいんだよ」


「仕事の日に寝坊したら困るから、使わせてもらうね」


「休みの日には鳴らすなよ。誰にも起こされずに寝ていいんだから」


翌朝、志乃は目覚まし時計が鳴る五分前に目を覚ました。枕元へ手を伸ばしたが、そこに呼び鈴はなく、昨日拓真からもらった時計だけが置かれている。台所からは味噌汁の匂いもせず、誰かが水を求める声も聞こえなかった。


志乃は自分で設定した時刻まで、布団の中で待った。やがて、小さな目覚まし時計が軽やかな音を立てた。誰かの排泄介助や服薬のためではなく、自分が仕事へ行くための音だった。


「はい、起きます」


志乃は時計へ返事をしてから、止めるボタンを押した。黄色いカーテンを開けると、朝日が畳の上へ差し込み、窓の下では雨上がりの紫陽花が光っていた。志乃は青い片手鍋に一人分の湯を沸かし、自分のために新しい一日を始めた。


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