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第12話 「嫁には介護義務がありますよね?」

第12話 「嫁には介護義務がありますよね?」


離婚から半年後、志乃のもとへ遠藤から一通の封書が届いた。梅雨明け直後の午後で、六畳の部屋には洗った白いブラウスが干され、窓辺の青い紫陽花は強い日差しで少しうなだれていた。志乃は昼に食べた冷やし中華の皿を洗い、麦茶を入れてから封を開けた。


中に入っていたのは、雅彦の代理人から届いた請求書の写しだった。静江の施設費、衣類代、理美容代、通院時の付き添い費用について、その半額を志乃に支払うよう求めている。請求の理由には、「志乃は長年、静江の介護責任者であり、離婚後も道義的責任を免れない」と書かれていた。


志乃は最後まで読み、封筒へ戻した。以前なら「道義的責任」という文字を見ただけで、自分が悪いことをしたように感じていただろう。だが、今の食卓には静江の薬も雅彦の飲み残したビールもなく、黄色い花柄の目覚まし時計だけが置かれていた。


「離婚しても、まだ私は嫁なのかしら」


声に出してみると、窓の外から小学生の笑い声が聞こえた。夏休みに入った子どもたちが、虫取り網を持って公園へ走っていく。志乃は遠藤へ電話し、翌日の午後に事務所を訪れることにした。


その夜、拓真がナスとキュウリを持って訪ねてきた。近所の人から家庭菜園で採れたものをもらったという。志乃はナスを焼き、ショウガ醤油をかけ、キュウリは塩昆布と一緒に浅漬けにした。


「父さん、今度は何を言ってきたの?」


「おばあちゃんの施設費を半分払えって」


「どうして離婚した元妻が、父親の母親の施設費を払うんだよ」


「長年、介護責任者だったからだそうよ」


「勝手に責任者にしておいて、ずいぶんな言い方だな」


拓真は焼きナスの皮を箸でむいた。きれいに取れず、黒い皮が少し残っている。志乃は昔から皮ごと食べていたと話し、そのままでいいから熱いうちに食べるよう勧めた。


「お母さん、払うつもりじゃないよね」


「遠藤先生に確認してから決めるよ」


「払う必要なんかないよ」


「法律は、思い込みだけでは決められないでしょう。お父さんみたいになりたくないもの」


翌日、志乃は薄い水色のワンピースを着て、遠藤法律事務所へ向かった。駅前の花屋には、黄色い向日葵と赤い百日紅の鉢植えが並んでいた。照り返しが強く、事務所へ着くころには額へ汗が浮かんでいた。


遠藤は志乃へ冷たい麦茶を出し、雅彦側から届いた書面を机へ置いた。請求額の横には赤い付箋がついている。志乃はハンカチでグラスの水滴を拭きながら、支払い義務があるのか尋ねた。


「私は長年、お義母さんの介護をしてきました。途中で家を出ても、介護責任者だったことに変わりはないと言われています」


「まず、介護責任者という言葉をご主人が勝手に使っているだけです。志乃さんが契約で生涯の介護を引き受けた事実はありません」


「嫁には、夫の親を扶養する義務があるのではないのですか」


「民法上、扶養義務を負うのは、原則として直系血族と兄弟姉妹です。雅彦さんは静江さんの実の息子ですから、その立場にあります。しかし、志乃さんは静江さんの娘ではありません」


遠藤は条文の写しを机へ置いた。例外的に、特別な事情がある場合、家庭裁判所が三親等内の親族へ扶養義務を負わせることはあり得る。しかし、単に息子の妻だったというだけで、自宅で身体介護を続ける義務が自動的に生じるわけではない。


しかも、志乃と雅彦の離婚はすでに成立している。婚姻によって生じた静江との姻族関係も、離婚によって終わっていた。雅彦が書面に記した「離婚後も嫁としての責任が続く」という主張には、根拠がなかった。


「では、私は払わなくていいのですか」


「この書面に書かれた理由で、施設費の半分を支払う義務があるとは認められません。こちらから回答しますので、雅彦さんへ直接連絡しないでください」


「身体介護についても、義務はなかったのですか」


「嫁だから、オムツ交換や入浴介助を自分の手で行わなければならないという法律はありません。実の子であっても、必ず自分で身体介護をしなければならないわけではありません。介護サービスや施設につなぎ、必要な支援を確保する方法があります」


志乃は膝の上で両手を重ねた。六年間、夜中に呼び鈴が鳴るたび、自分が起きなければ静江を見捨てたことになると思っていた。雅彦も静江も、「嫁なのだから」という一言で、志乃の仕事、睡眠、食事を後回しにしてきた。


「私がやってきた介護は、何だったのでしょう」


「法律に命じられたものではありません。志乃さんが必要だと思い、家族の生活を守るために行ったものです」


「義務ではなかったなら、やったことが無駄だったという意味ですか」


「違います。義務ではないことを長年続けたからこそ、本来は感謝されるべきだったという意味です」


遠藤の机には、昼食に使ったらしいパン屋の紙袋が置かれていた。袋の口から、クリームパンの甘い匂いがする。志乃は麦茶を一口飲み、今まで一度も言葉にできなかったことを口にした。


「私は、お義母さんのために仕事を辞めました。夜中も起きて、薬を飲ませて、何度も救急車へ乗りました」


「はい」


「それなのに、お父さんの介護なのだから私がやって当然だと思っていました」


「当然ではありません」


「途中でやめた私は、無責任ではありませんか」


「志乃さんは途中で投げ出していません。ケアマネジャー、訪問看護、訪問介護、主治医、施設へ引き継ぎました。自分だけで抱える介護を終わらせたのであって、静江さんの命を放置したのではありません」


遠藤は、雅彦側への回答書を作成すると約束した。施設費は、まず静江自身の年金や資産、利用できる制度を確認し、不足する部分について扶養義務のある親族間で検討する問題である。離婚した志乃へ、かつて嫁だったという理由だけで半額を押しつけることはできない。


一週間後、雅彦は代理人から回答書を受け取った。灰色のポロシャツと短いズボンを着たまま、六畳のアパートで書面を読んだ。机には値引きされた焼きそばパンと、飲みかけの缶コーヒーが置かれている。


「扶養義務者は、実の子である雅彦さんです」


書面の一文を読み上げると、狭い部屋に自分の声だけが残った。雅彦はすぐに遠藤法律事務所へ電話し、志乃を出すよう求めた。しかし、受付から今後も代理人を通して連絡するよう告げられ、通話を切られた。


その日の夕方、雅彦は静江の施設を訪れた。受付には桃色の百日紅が飾られ、食堂からカレーの匂いが漂っている。静江は白いブラウスに薄紫色のズボンをはき、職員と一緒に洗濯物を畳んでいた。


「母さん、施設費が高すぎる。志乃にも半分払わせようとしたけど、拒否された」


「当たり前でしょう。もう嫁ではないもの」


「離婚したからといって、今までの責任まで消えるのか」


「志乃さんは、あんたより何倍も私の世話をしてくれたわ。それなのに、あんたは最後まで一円も払わせるつもりなのね」


「俺だって余裕がないんだ。役職を外されて、給料も減ったんだぞ」


「その原因を作ったのは、誰なの」


雅彦は返事をせず、窓際の椅子へ座った。施設の庭には向日葵が並び、車椅子から見える高さで花が咲いている。静江は畳み終えたタオルの角をそろえ、職員へ手渡した。


「志乃さんに会いたいなら、自分で連絡してくれ。俺の電話には出ないんだ」


「会って、何を言うの」


「母さんが謝れば、少しくらい金を出してくれるかもしれない」


「私は、あの人に介護を頼むために会いたいのではないわ」


「じゃあ、何のためだよ」


「一度も言わなかったことを言うためよ」


静江はそれ以上話さず、夕食の席へ移った。雅彦はカレーの載った盆を見て、自分も食べて帰れないかと職員へ尋ねた。面会者の食事は予約制だと言われ、財布へ手を入れたまま立ち尽くした。


同じ日の夜、志乃は仕事から帰り、青い片手鍋で一人分の味噌汁を作った。冷蔵庫に残っていたナスを焼き、冷やしたトマトを切る。窓辺では、花屋で買った小さな向日葵が透明な瓶に挿してあった。


食事を始める前に、遠藤から電話が入った。雅彦側が施設費の請求を取り下げたという。志乃は礼を言い、味噌汁が冷めないうちに通話を終えた。


「嫁だから、ではなかったのね」


志乃は誰もいない食卓で、小さく言った。六年間にしたことが消えるわけでも、失った時間が戻るわけでもない。それでも、これから先の時間まで差し出す必要はなかった。


翌日、介護者家族会へ新しい相談者が来た。夫の父親を介護するため、仕事を辞めるよう求められている女性だった。女性は幼い子どもの写真がついた鞄を抱え、何から話せばよいか分からないと俯いた。


志乃は温かいほうじ茶を出し、急がなくてよいと伝えた。机には相談用紙と赤いボールペンが置かれ、窓の外では夏の百日紅が風に揺れている。女性が「嫁だから、断れませんよね」と尋ねると、志乃はゆっくり首を横に振った。


「嫁だから自分の手で介護しなければならない、という決まりはありません。まず、あなたができることと、できないことを分けましょう」


「断ったら、冷たい嫁だと言われます」


「言われた言葉と、法律上の義務は別です」


「でも、お義父さんを見捨てるようで怖いんです」


「身体介護を引き受けないことと、命を見捨てることも別です。ケアマネジャーや地域包括支援センターへ相談し、必要な介護へつなぐ方法があります」


女性は鞄から手帳を出し、志乃の話を書き始めた。志乃は相談者の生活、仕事、子どもの年齢、夫や親族の協力状況を一つずつ確かめた。かつて自分が言ってほしかった言葉を、今度は自分の口で誰かへ伝えていた。


昼休みになると、小林がアジの開き弁当を買ってきた。事務室には焼き魚の匂いが広がり、志乃は持参したキュウリの浅漬けを小皿へ分けた。呼び鈴は鳴らず、誰からも食事を中断するよう命じられなかった。


「佐伯さん、今日は味噌汁が冷める前に食べられそうですね」


「はい。熱いうちにいただきます」


志乃は湯気の立つ味噌汁を両手で持った。嫁という名前で押しつけられた役目は、もう志乃の背中にはなかった。窓辺の向日葵を見ながら、温かい味噌汁を最後まで飲んだ。


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