第13話 家長は七十九年前にいなくなりました
第13話 家長は七十九年前にいなくなりました
八月の土曜日、志乃が働く支援団体では、「家族だけで抱えない介護」という公開講座が開かれた。会場は市民会館の二階にある会議室で、壁際には折り畳み椅子が四十脚並び、窓辺には職員が持ってきた橙色のマリーゴールドが飾られていた。志乃は白い半袖のブラウスに紺色のパンツをはき、受付で参加者の名前を確認していた。
給湯室では、大きなやかんに麦茶が用意されていた。小林は参加者へ配る塩飴を籠へ入れながら、今年も暑すぎると扇子を動かしている。冷房は効いていたが、廊下から入る空気には焼けたアスファルトの匂いが混じっていた。
「佐伯さん、資料は足りますか」
「五十部あります。申込者は三十八人なので、予備もあります」
「今日は男性も多いですね」
「家族で参加するよう、地域包括支援センターから勧められた方がいるそうです」
参加者の多くは、親の介護を始めたばかりの夫婦だった。夫だけ、妻だけで来た人もいれば、兄弟姉妹で並んで座る人もいる。受付開始から十分ほど過ぎたころ、五十代後半の夫婦が会場へ入ってきた。
夫の高橋武は、白いポロシャツに灰色のズボンをはき、革のセカンドバッグを脇へ挟んでいた。妻の恵子は薄い藤色のワンピースを着て、大きな布製の鞄を両手で抱えている。鞄の口からは、介護サービスの案内と、薬局の袋が見えていた。
「高橋武です。妻の名前も書くんですか」
「お二人で参加されるなら、それぞれお願いいたします」
「家の介護をするのは妻です。私は付き添いで来ただけですよ」
武は受付用紙を一枚だけ取り、恵子へ渡した。恵子が自分の名前を書こうとすると、武は父親の要介護度と病名も忘れずに書くよう横から指示した。志乃は恵子の左手に、湿布を貼った跡があることへ気づいた。
「介護されているのは、武さんのお父様ですか」
「そうです。母は亡くなったので、長男の私が引き取りました」
「普段のお世話は、どなたがされていますか」
「妻ですよ。私は仕事がありますから」
「恵子さんも、お仕事をされていますか」
「週に四日、スーパーで――」
恵子が答えかけると、武が途中で口を挟んだ。パートだから仕事と呼ぶほどではなく、父親の介護が増えれば辞めさせるつもりだという。恵子は受付用紙の角を折り、黙って夫の後ろへついていった。
講座では、地域包括支援センターの職員が、介護保険の申請、ケアマネジャーへの相談、訪問介護、通所介護、短期入所について説明した。家族がすべての介護を自分の手で行う必要はないという話になると、武は腕を組んだ。机の下では、恵子が何度も右手で左手首をさすっていた。
前半の説明が終わり、十五分の休憩になった。志乃は紙コップへ麦茶を注ぎ、参加者へ配った。武は塩飴を二つ取り、一つをポロシャツの胸ポケットへ入れた。
「最近は、何でも介護保険に頼れと言うんですね。昔は家族が家で親をみたものですよ」
「昔も、主に家へ入った女性が担っていたのではありませんか」
「嫁が夫の親をみるのは普通でしょう。うちの母も、祖父母を最後まで介護しました」
「お母様は、それを望んでいたのですか」
「望むとか望まないとかいう問題じゃない。家族なら当然です」
武は麦茶を一気に飲み、空の紙コップを恵子へ渡した。恵子は何も言わず、ごみ箱へ捨てに行った。その背中を見ながら、志乃は静江の呼び鈴へ走っていたころの自分を思い出した。
休憩後は、家族が介護を押しつけ合わないための話し合いが行われた。講師の小林は、誰がどの支援を担当できるか、仕事、体力、住居、費用を具体的に書き出すよう勧めた。すると武が手を上げ、用意された資料には妻の役割が書かれていないと指摘した。
「夫が外で働き、妻が家を守るという基本が抜けています。うちは私が家長ですから、家族の役割を決める責任があります」
会場の空気が止まった。資料へ目を落とす女性もいれば、隣に座る夫の顔を見る人もいる。小林が答える前に、武はさらに言葉を続けた。
「日本には昔から家制度があったでしょう。長男が家を継ぎ、嫁が親を介護する。それで家族が成り立ってきたんです」
「その家制度は、現在の法律にはありません」
志乃は資料を持ち、武の席の近くへ立った。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。武は受付をしていた事務員が口を挟んだと思ったのか、眉を寄せた。
「あなたは法律家ですか」
「いいえ。私は長年、夫の母親を在宅で介護した者です」
「それなら、私の言っていることが分かるでしょう。嫁が介護するから、息子は安心して働けるんです」
「その間、嫁の仕事と睡眠と生活は、誰が守るのですか」
「家族なのだから、多少の我慢は必要です」
「その我慢をする人を、なぜあなたが決めるのですか」
武は椅子へ座ったまま、家長には家族をまとめる責任があると繰り返した。志乃は会場の前に置かれた資料から、日本の家制度について書かれた一枚を取り出した。小林が、参加者全員にも同じ資料を配った。
「かつての民法には、戸主を中心とした家制度がありました。けれども、それは日本国憲法の施行に伴う民法改正で廃止されています」
「昔の法律がどうであれ、日本の家庭には伝統があります」
「家制度が廃止されたのは、昭和二十二年です。今年で七十九年になります」
「数字だけで家族の形は変わりませんよ」
「では、七十九年間も存在しない家長の権利を使って、奥様の仕事を辞めさせるのですか」
会場の後ろで、誰かが小さく息をのんだ。武はポロシャツの襟を引っ張り、冷房が弱いと呟いた。胸ポケットに入れた塩飴の包みが、手の動きに合わせて音を立てた。
志乃は、婚姻や家族生活は当事者の合意と個人の尊重を基本にするものだと説明した。夫が妻の生活を一方的に決める権利も、夫の親の身体介護を妻へ命じる権利もない。親の介護について考えるべきなのは、嫁の義務ではなく、本人に必要な支援と家族それぞれが無理なくできる範囲だった。
「私は、妻に命令しているわけではありません。家族として協力を求めているだけです」
「恵子さんは、仕事を辞めることに同意しているのですか」
「妻に聞かなくても分かります」
「それは、合意ではありません」
「うちの家庭のことに口を出さないでください」
「今日の講座へ参加し、皆さんの前で質問されたのは武さんです」
恵子が、膝の上へ置いていた手を持ち上げた。声を出そうとしても、最初は息だけが漏れた。志乃が急がなくてよいと伝えると、恵子は紙コップの水を一口飲んだ。
「私は、仕事を辞めたくありません」
武は勢いよく妻を振り返った。椅子の脚が床をこすり、会議室へ硬い音が響いた。恵子は肩をすくめたが、持っていた資料を膝へ置き、今度は夫の顔を見て話した。
「スーパーの仕事を十二年続けてきました。娘が中学生のころからです」
「パートだろう。父さんの介護と比べる話じゃない」
「パートでも仕事です。私が辞めたら、家計から月に九万円がなくなります」
「親のためなら仕方ない」
「お義父さんの介護を始めてから、私は夜に三回起きています。あなたは別の部屋で寝ています」
「俺は朝から仕事があるんだ」
「私も朝八時から仕事です。帰ったら食事を作り、お義父さんをお風呂へ入れ、あなたの洗濯もしています」
恵子は藤色のワンピースの袖をめくった。左手首には湿布が貼られ、端が汗で浮いている。入浴介助で義父を支えたときに痛めたが、武には言っていなかった。
「どうして黙っていたんだ」
「言いました。三回言いました」
「聞いていない」
「テレビを見ながら、『湿布でも貼っておけ』と言いました」
武は何も答えず、机の上の資料をめくった。訪問入浴の説明が書かれたページには、利用できる曜日や相談先が載っている。しかし、武はそのページを一度も読まず、介護は妻がするものだと決めていた。
地域包括支援センターの職員が、恵子の家庭で利用できるサービスについて説明した。義父の入浴は訪問入浴や通所介護を検討し、夜間の負担についてもケアマネジャーと相談できる。短期入所を利用すれば、恵子が続けて眠る日を確保することも可能だった。
「金がかかるでしょう」
武は最初に費用を尋ねた。職員は介護度や所得によって自己負担が異なるため、現在のケアプランと収入を確認して試算すると答えた。恵子が仕事を辞めて月九万円の収入を失う場合とも、比べる必要があった。
「妻が家でやれば、費用はかからないんです」
「恵子さんの労働を、最初から無料として計算するのですか」
志乃が尋ねると、武は口を閉じた。恵子の睡眠、時間、仕事、傷めた手首をゼロ円として扱えば、確かに家計から現金は出ていかない。その代わりに何が失われるのかを、武は一度も数えたことがなかった。
講座が終わっても、高橋夫婦は会場に残った。ほかの参加者が帰り、机には飲み残した麦茶と塩飴の包み紙が残っている。窓から差し込む西日が、少ししおれたマリーゴールドを照らしていた。
「恵子、本当に仕事を続けたいのか」
武は資料を鞄へ入れながら尋ねた。恵子は折れた資料の角を伸ばし、続けたいと答えた。武はすぐに反論せず、胸ポケットに残っていた塩飴を机へ置いた。
「だったら、父さんの風呂はどうするんだ」
「二人でケアマネジャーさんに相談します」
「俺も行くのか」
「あなたのお父さんでしょう」
「仕事がある」
「私にもあります」
二人はしばらく向かい合っていた。武は明日の午後なら時間をつくれると言い、職員から地域包括支援センターの連絡先を受け取った。恵子は夫の代わりに資料を持たず、自分の布製の鞄だけを肩へ掛けた。
高橋夫婦を見送ったあと、志乃は机を拭き、残った紙コップを片づけた。小林はマリーゴールドへ水をやり、根元の枯れた葉を指で摘んだ。やかんには麦茶が少し残っていたため、二人で飲むことにした。
「佐伯さん、七十九年という数字、効きましたね」
「今年が二〇二六年だから、間違えないように朝から計算してきました」
「武さん、家長と言ったときは、どうなることかと思いました」
「私の元夫も同じでした。家族を守ると言いながら、自分の都合を守っていたんです」
志乃は鞄から弁当箱を出した。講座の準備で昼食を半分しか食べられず、卵焼きが二切れ残っている。小林へ一つ勧めると、今度は一人分を多く作りすぎたのではなく、自分で食べるために残したのだと笑われた。
帰宅するころには、空が薄い桃色になっていた。商店街の惣菜店でアジの南蛮漬けを買い、八百屋では小さなトマトを一袋選んだ。花屋の前には、昼間の熱を残した向日葵が並んでいた。
部屋へ戻ると、志乃は洗濯物を取り込み、白いブラウスを畳んだ。食卓には一人分のアジの南蛮漬け、冷やしたトマト、豆腐の味噌汁を並べた。黄色い目覚まし時計の隣には、次の公開講座の企画書が置かれていた。
企画書の題名は、「介護は誰か一人の仕事ではありません」だった。志乃は赤いペンで、「家族全員と専門職で考える」と書き加えた。もう存在しない家長の命令で、誰かの生活が消えてよいはずはなかった。
味噌汁から湯気が上がっていた。志乃は企画書を閉じ、箸を手に取った。七十九年前に廃止された制度へ自分の時間を差し出す必要はないと、今度は多くの人へ伝えていくつもりだった。




