第14話 育休があるなら、介護休もあるのか?
第14話 育休があるなら、介護休もあるのか?
高橋武が人事課へ呼ばれたのは、介護講座へ参加した翌週の月曜日だった。白い半袖のワイシャツに紺色のネクタイを締めていたが、朝から汗をかき、襟の内側が濃く変色している。廊下の窓からは強い日差しが入り、会社の花壇では赤いサルビアが土の乾きに耐えていた。
人事課の机には、介護休業制度と書かれた水色の冊子が置かれていた。武はそれを見て、恵子が会社へ何か言ったのかと眉を寄せた。人事担当の村井は冷たい麦茶を勧め、まず武の父親の状態を尋ねた。
「要介護3です。立つときは支えが必要ですが、食事は自分でできます」
「介護を始めたことを、上司へ報告されましたね」
「早退することがあるかもしれないと伝えただけです。介護は妻がしていますから、仕事に支障はありません」
「奥様も働いていらっしゃると聞きました」
「スーパーのパートです。父の状態が悪くなれば辞めてもらいます」
村井は返事をせず、冊子を武の前へ置いた。表紙には、仕事と介護を両立するためにと書かれている。武は麦茶を一口飲み、紙コップの縁を指でつぶした。
「これは奥さんの会社へ渡すものですか」
「いいえ。高橋さんに説明するための資料です」
「俺に?」
「介護に直面したと申し出た社員には、会社から利用できる制度を個別に説明し、利用する意思を確認することになっています」
「育休なら知っていますよ。子どもが生まれた人が休む制度でしょう」
「介護にも休業制度があります」
武は紙コップを机へ置いた。育児休業があることは知っていたが、介護については欠勤か有給休暇を使うものだと思っていた。父親の介護が必要になったときも、妻の恵子が仕事を辞めれば済むと考え、自分の会社の制度を調べたことはなかった。
「介護休業というのがあるんですか」
「あります。対象となる家族一人につき、通算九十三日まで、三回に分けて取得できます」
「九十三日も会社を休んで、父のオムツを替えろということですか」
「介護休業は、ご本人が九十三日間すべての介護をするためだけの制度ではありません。ケアマネジャーと相談し、介護サービスを整え、仕事と両立できる体制をつくるためにも使います」
村井は、介護休業と介護休暇の違いを説明した。まとまった期間を確保する介護休業のほかに、通院の付き添いやケアマネジャーとの打ち合わせなどに使える介護休暇がある。対象家族が一人なら一年に五日、二人以上なら十日まで、時間単位でも取得できるという。
冊子には、短時間勤務、時差出勤、残業を免除する制度も紹介されていた。介護休業中に会社から賃金が出ない場合でも、条件を満たせば雇用保険から休業前の賃金の六十七パーセント相当の介護休業給付を受けられる。正確な金額は個別に確認する必要があるが、収入が完全に途絶えるとは限らなかった。
「そんな話は、今まで聞いたことがありません」
「四十歳になった社員へも、早めに制度の情報を提供しています。高橋さんにも以前、社内メールを送っています」
「メールなら毎日、何十通も来ますからね。全部は読めませんよ」
「読まなかったことと、制度が存在しないことは別です」
村井は、介護を理由に退職を決める前に相談してほしいと伝えた。会社にも、制度を利用できる職場環境を整える必要がある。取得を申し出た社員に、不利益な扱いをすることはできなかった。
「男が介護休業を取ったら、取引先に何と思われますか」
「ご家族の介護体制を整える人だと思われるでしょう」
「うちの部署では、今まで取った男はいませんよ」
「最初の一人になればいいのではありませんか」
武は冊子を閉じた。隣の部屋から複写機の音が聞こえ、昼休みを知らせるチャイムが鳴った。自分の机には、恵子が作った鮭のおにぎりが二つ入っている。
「妻に任せれば、俺は休まなくて済みます」
「奥様が仕事を辞めることには、同意されているのですか」
武はすぐに答えられなかった。市民会館で、恵子は仕事を辞めたくないとはっきり言った。左手首には、父親の入浴介助で痛めた痕も残っていた。
「まずご夫婦で話し合ってください。制度を利用するかどうかは、そのあとで構いません」
「九十三日も休むつもりはありません」
「必要な期間だけ、三回に分けることもできます」
「二週間だけでもいいんですか」
「要件を満たして申請すれば可能です。その二週間で、何を整えるかを決めておくことが大切です」
その夜、武は水色の冊子を仕事鞄へ入れて帰宅した。玄関には父親の杖と、恵子が仕事に履いていく黒い靴が並んでいる。台所からは、焼いたサバと大根おろしの匂いが漂っていた。
恵子はスーパーの制服の上に花柄のエプロンを着け、味噌汁の火を止めていた。左手首にはまだ湿布が貼られている。武が人事課から渡された冊子を食卓へ置くと、恵子は鍋の蓋を持ったまま題名を読んだ。
「介護休業? あなたの会社にもあったの?」
「どこの会社にも同じような制度があるらしい。会社によって手続きは違うそうだ」
「取るの?」
「まだ決めていない。九十三日も休めると言われた」
「九十三日ずっと休まなくてもいいのでしょう」
「三回に分けられるそうだ。二週間だけでも申請できると言っていた」
食卓には、サバの塩焼き、冷やしたトマト、豆腐とナメコの味噌汁が並んだ。武の父親は居間の介護用椅子に座り、テレビの野球中継を見ている。恵子が魚の骨を取り除こうとすると、自分でできると箸を動かした。
「お父さん、来週の病院は火曜日です。武さんと私のどちらに付き添ってほしいですか」
恵子が尋ねると、父親は武の顔を見た。これまで通院には、いつも恵子が付き添っていた。武は病院の場所さえ知っているのかと聞かれ、サバの皮を箸でつついた。
「市民病院だろう」
「三か月前から、駅前の内科へ変わりました」
「どうして俺に言わなかった」
「薬局が近く、車椅子でも入りやすいから変えると話しました。あなたはテレビを見ながら、好きにしろと言いました」
「そうだったか?」
「診察券が冷蔵庫の横に貼ってあります。送迎車は九時半です」
武は冷蔵庫を見た。観光地の磁石の下に、診察券と通院予定表が挟まれている。毎朝そこから牛乳を出していたのに、一度も読んだことがなかった。
「火曜日は、俺が行く。介護休暇を時間で取れるらしい」
「仕事は大丈夫なの?」
「休める制度があるんだから、使ってもいいだろう」
「私が休むときには、パートだから仕方ないと言ったのに」
「今は、俺の話をしているんだ」
恵子は何も言わず、冷めかけた味噌汁を飲んだ。武は言い返されたことへ腹を立てかけたが、自分の言葉がそのまま戻ってきたことに気づいた。父親はサバの骨を皿の端へ並べながら、恵子にばかり頼ってきたのは事実だと呟いた。
翌週の火曜日、武は初めて父親の通院へ付き添った。白いポロシャツに黒いズボンをはき、車椅子を押して送迎車へ乗せる。玄関の小さな段差を越えるだけでも、前輪を上げる方法が分からず、運転手に教えてもらった。
内科の待合室には、消毒薬と湿布の匂いが漂っていた。壁際には朝顔の写真が飾られ、長椅子では高齢者たちが診察の順番を待っている。父親の名前を呼ばれるまで一時間近くかかり、武は何度も腕時計を見た。
「いつも、こんなに待つのか」
「短い方ですよ」
父親の代わりに恵子が答えた。仕事を休まずに済むよう、恵子も出勤前の時間だけ同行していた。受付と採血が終わったのを確認すると、制服の入った鞄を持って立ち上がった。
「私は仕事へ行きます。診察で先生に聞くことは、この手帳に書いてあります」
「薬をもらったら帰ればいいんだろう」
「薬が一種類変わるかもしれません。朝と夕方のどちらに飲むのか、確認してください」
「薬局で聞けば分かる」
「先生の説明も聞いてください。お義父さんは、聞こえたふりをして忘れることがあります」
「余計なことを言うな」
父親は恵子をにらんだが、耳の後ろまで赤くなっていた。恵子は薬の手帳、診察券、保険証を武へ渡し、仕事へ向かった。武は膨らんだ布製の袋を受け取り、これを毎回持ってきていたのかと初めて尋ねた。
診察では、医師から血圧、足のむくみ、夜間の排尿について質問された。武はほとんど答えられず、恵子が書いた手帳を読み上げた。日付ごとに食事量、転倒しかけた時刻、眠れなかった夜が記録されていた。
「今後、通所介護の利用を増やすと聞いています。ご家族で相談はできていますか」
「これからです。俺が二週間、介護休業を取るかもしれません」
「二週間、ご自宅で一人ですべて介護するということですか」
「違います。ケアマネジャーと相談して、妻が仕事を続けられるようにするためです」
口にしてから、武は自分が人事課で聞いた言葉をそのまま使ったことに気づいた。父親は隣で何も言わず、ポロシャツの裾を引っ張っている。医師は、それなら早めにケアマネジャーと予定を立てるよう勧めた。
その日の午後、高橋家でサービス担当者会議が開かれた。ケアマネジャー、訪問介護員、通所介護の相談員、武、恵子が食卓を囲んだ。机には恵子が冷やしておいた麦茶と、武が買ってきた袋入りの煎餅が置かれていた。
恵子が一人で行っていた介護を、紙へ書き出した。朝の着替え、服薬確認、食事、通院、入浴、洗濯、買い物、夜間のトイレ介助が並ぶ。武は、自分が担当している項目が一つもないことに気づいた。
「俺は、働いて家計を支えています」
「私も働いています」
恵子はすぐに答えた。ケアマネジャーは二人の間へ一枚の予定表を置き、責任の比べ合いではなく、今後の介護体制を決めましょうと声をかけた。武はポケットから赤いボールペンを出し、自分ができる時間へ丸をつけ始めた。
通所介護は週二日から三日へ増やす。入浴は主に通所先で行い、恵子一人で支える回数を減らす。朝の服薬確認は武が担当し、通院には介護休暇を使って交代で付き添うことになった。
武が取る二週間の介護休業中には、短期入所先の見学、福祉用具の見直し、緊急時の連絡先整理も行う。休業が終わっても家族だけで抱え込まない体制をつくる。それが介護休業を使う目的だった。
「九十三日使い切ったら、そのあとはどうなるんですか」
「ですから、九十三日間だけ自分で介護して終わりではありません。その間に、休業後も続けられる形をつくるんです」
「妻が辞めれば、こんなに面倒な手続きは要らないと思っていました」
「恵子さんが倒れたり、退職後の生活費が足りなくなったりしたら、別の問題が増えます」
「介護は、家族がすれば無料だと思っていました」
恵子は湿布を貼った手首を食卓へ置いた。ケアマネジャーは、その時間と身体の負担が見えないだけで、無料ではないと答えた。武は予定表の空白へ、自分の名前を書き込んだ。
二週間後、武は介護休業へ入った。初日の朝、恵子がスーパーの制服を着て出勤すると、武は父親の薬を一包ずつ確認した。朝食には食パンと目玉焼きを用意したが、黄身を固く焼きすぎたと文句を言われた。
「恵子さんなら、半熟にしてくれる」
「父さんまで、妻と比べるのか」
「だって、あの人の方が上手なんだから仕方ないだろう」
「最初から上手だったわけじゃない。何年もやって覚えたんだ」
「だったら、お前も覚えろ」
武は返事をせず、焦げた目玉焼きの端を自分の皿へ移した。窓辺には、恵子が育てている桃色の日々草が咲いている。水をやるのも毎朝恵子だったと気づき、食後にじょうろを持った。
介護休業中、武は父親の介護だけをしていたわけではなかった。ケアマネジャーとの面談、施設見学、福祉用具業者との打ち合わせ、会社への書類提出を順番に進めた。空いた時間には洗濯機を回し、昼食の焼きそばを二人分作った。
焼きそばは味が濃く、キャベツの芯も固かった。父親は一口食べて水を求めたが、残さず食べた。武は次はソースを半分にすると、台所のメモへ書いた。
「会社へ戻ったら、また恵子さんに全部やらせるのか」
父親が麦茶を飲みながら尋ねた。武は洗ったフライパンを布巾で拭き、棚へ戻した。以前なら、仕事があるのだから当然だと答えていた。
「通所介護を週三日にした。朝の薬は俺が見る。残業も免除を申請する」
「そんなことをしたら、出世に響かないか」
「父さんまで、男は仕事だけしていろと言うのか」
「お前の母さんは、俺の親を家でみたぞ」
「母さんが、それでよかったか聞いたことはあるのか」
父親は口を閉じ、食卓にこぼれた青海苔を指で集めた。武も、恵子がどうしたいかを講座の日まで尋ねたことがなかった。家族を守っているつもりで、自分の働き方だけを守っていた。
介護休業が終わる前日、武と恵子は志乃の働く支援団体を訪れた。市民会館の花壇では、白と桃色の秋明菊が咲き始めていた。受付の机には、仕事と介護の両立についての新しい資料が並んでいる。
「育休があるなら、介護休もあるのかと、人事に聞いてしまいました」
武は頭をかきながら言った。志乃は、知るのが遅くても、使い始めたならよいのではないかと答えた。恵子は隣で、自分の仕事を辞めずに済んだと話した。
「介護休業を取って、どうでしたか」
「休業中に俺が全部やれば、妻に文句を言われないと思っていました。でも、そういう制度ではなかったんですね」
「介護を一人で抱えるための休業にしたら、仕事へ戻れなくなります」
「はい。ケアマネジャーに、休業が終わったあとの予定を先に決めろと言われました」
「恵子さんと話し合えましたか」
武は答える前に、妻の顔を見た。恵子は薄い黄色のブラウスを着ており、左手首に湿布はなかった。布製の鞄には、スーパーの新しい勤務表が入っている。
「まだ足りません。でも、勝手に辞めさせるとは言わなくなりました」
恵子が答えると、武は小さくうなずいた。志乃は二人へ温かいほうじ茶を出した。窓から入る風には、秋明菊の近くへ植えられた金木犀の匂いが混じっていた。
その日の夕方、志乃は事務室の掲示板へ新しい案内を貼った。介護休業、介護休暇、短時間勤務、残業免除、相談窓口が、読みやすい字で書かれている。案内の一番下には、「退職を決める前に相談してください」と赤い文字を入れた。
「佐伯さん、そろそろ帰らないと、商店街の魚屋が閉まりますよ」
小林に声をかけられ、志乃は時計を見た。今日はアジが安いと、朝の広告で確認していた。書類の角をそろえて机へ置き、薄いカーディガンを羽織った。
「帰ります。夕飯まで仕事にしないと決めていますから」
志乃は事務室の明かりを消し、外へ出た。秋明菊が夕方の風に揺れ、商店街から焼き魚の匂いが流れてくる。介護のために仕事を捨てる人ではなく、制度と支援を使って仕事を続ける人を増やすことが、今の志乃の仕事になっていた。




