第15話 子は親の背中を見て育つ
第15話 子は親の背中を見て育つ
高橋武が介護休業を終えてから最初の日曜日、長女の美奈と長男の亮介が実家へ帰ってきた。美奈は三十二歳で結婚しており、夫と五歳の娘を連れていた。二十九歳の亮介は紺色のパーカーにジーンズ姿で、大きな梨の箱を抱えて玄関へ入った。
九月の終わりでも昼間は汗ばむ陽気だった。庭には白い秋明菊が咲き、金木犀の小さな蕾が枝の間に並んでいる。玄関には武の革靴、恵子の仕事用の黒い靴、父親が通所介護へ履いていく介護靴がそろえて置かれていた。
「ただいま。お母さん、梨をもらったから持ってきたよ」
「こんなにたくさん、二人では食べ切れないでしょう」
「おじいちゃんの施設にも持っていけばいいよ」
亮介がそう言うと、武は梨の箱を受け取った。以前なら、果物の皮をむくのも施設へ届けるのも恵子へ任せていただろう。今日は自分で箱を台所へ運び、傷んだ梨がないか一つずつ確かめた。
「生ものを持っていっていいか、施設に聞かないとな。おやつの管理もあるそうだ」
美奈が靴を脱ぐ手を止めた。隣では、娘の結衣が桃色の靴下をはいたまま廊下へ上がろうとしている。美奈は慌てて抱き上げ、父親の顔を見た。
「お父さん、施設のおやつまで知っているの?」
「父さんが通所介護で何を食べたか、連絡帳に書いてあるんだ」
「その連絡帳、お母さんが読んでいるんでしょう」
「今は俺も読んでいる」
武は少し得意そうに答え、梨の箱を冷蔵庫の横へ置いた。恵子は台所でサツマイモご飯を炊き、サバの味噌煮を温めていた。鍋から味噌とショウガの匂いが上がり、結衣が夕飯はまだかと何度も台所をのぞいた。
美奈と亮介が帰ってきたのは、武が父親の通院へ付き添ったと恵子から聞いたからだった。これまで武は、学校の面談にも子どもの通院にも、ほとんど行ったことがない。美奈が小学生のころに腕を骨折した日も、亮介が夜中に高熱を出した日も、病院へ連れていったのは恵子だった。
「お父さんがおじいちゃんを病院へ連れていったって、本当なの?」
美奈は食卓へ皿を並べながら尋ねた。武は梨を冷蔵庫へ入れ、当たり前だと答えた。ところが、亮介まで台所へ来て、母親から写真を見せてもらったと言った。
「車椅子を押している写真まで撮られていたな」
「送迎車の運転手さんが撮ったんだよ。初めてなのに、記念写真みたいで恥ずかしかった」
「父さんが平日に会社を休むなんて、もっと珍しいよ。俺が盲腸で入院したときも、会議があるって来なかっただろう」
「お前の盲腸と、介護を一緒にするな」
「手術したんだけど」
武は何も言わず、食卓へ箸を並べた。家族五人分の箸をそろえようとして、結衣の短い箸がどこにあるのか分からず、引き出しを三つ開けた。恵子が赤いケースを指さすと、武は中から子ども用の箸を取り出した。
夕食には、サツマイモご飯、サバの味噌煮、レンコンのきんぴら、豆腐とネギの味噌汁が並んだ。美奈の夫は休日出勤で来られなかったため、席は一つ空いている。恵子が味噌汁を運ぼうとすると、武が鍋敷きを出し、自分で食卓まで運んだ。
「お父さん、熱があるんじゃない?」
「どうして味噌汁を運んだだけで、病人扱いされるんだ」
「だって、お父さんが台所から何かを運ぶの、初めて見たから」
「大げさなことを言うな。ビールくらい自分で持ってきたことがある」
「それは家事に入らないよ」
美奈が笑うと、亮介も笑った。武だけは口を曲げたが、恵子が座るまで箸を持たずに待った。結衣はサツマイモだけを先に探し、黄色い塊を箸でつまんでいる。
食事が始まると、美奈は父親の介護休業について尋ねた。武は、二週間会社を休み、ケアマネジャーとの打ち合わせや福祉用具の見直しをしたと説明した。通院には介護休暇を使い、今後も恵子と交代で付き添う予定だった。
「育休みたいなものなの?」
「似ている名前だが、介護休業だ。父さん一人につき、通算九十三日まで三回に分けて取れる」
「九十三日、おじいちゃんの世話をするの?」
「全部を自分で介護するためじゃない。仕事へ戻ったあとも続けられるよう、サービスを整える期間なんだ」
武は人事課で教えられたことを、そのまま子どもたちへ話した。介護休暇、短時間勤務、残業の免除についても説明する。話しているうちに、自分が制度を教える側になっていることへ気づき、背筋を伸ばした。
美奈は箸を置き、武の顔を見た。武が制度を使ったことを喜ぶより先に、なぜ自分の胸が落ち着かないのか考えているようだった。食卓の下では、結衣が落としたサツマイモを拾い、紙ナプキンへ包んでいた。
「私、ずっと、おじいちゃんの次はお父さんとお母さんの介護をするものだと思っていた」
「お前には夫の家もあるだろう」
「夫の親と、お父さんたちと、両方を私がみるんだと思っていたの」
「どうして美奈一人がやるんだ」
「お父さんが、介護は女の仕事だと言っていたから」
武は味噌汁の椀を持ったまま、動きを止めた。美奈が高校生のころ、テレビで介護離職の特集を見たことがある。武はそのとき、娘がいる家は老後が安心だと言い、恵子も否定しなかった。
「そんな昔の話を覚えているのか」
「覚えているよ。結婚するときも、お母さんみたいに夫の親を大事にしろと言われた」
「親を大事にするのは普通だろう」
「大事にすることと、一人で介護することは違うのでしょう。今、お父さんがそう説明したじゃない」
美奈は冷めかけた味噌汁を一口飲んだ。結衣が母親の顔を見て、自分のサツマイモを一つ美奈の茶碗へ入れた。美奈は礼を言い、その小さな一切れを食べた。
亮介はレンコンのきんぴらを口へ運びながら、今度は自分の話を始めた。大学時代に武から、結婚するなら家事のできる女性を選べと言われたことがある。亮介もそれを疑わず、結婚後は妻が家事や親の介護をするものだと思っていた。
「この前、付き合っている人に、結婚したら共働きでも夕飯は作ってほしいと言ったんだ」
「それで、何と言われたの?」
恵子が尋ねると、亮介はサバの骨を皿の端へ寄せた。彼女から、自分は家政婦になるために結婚するのではないと言われたという。返す言葉がなく、父親の家も同じだったと説明した。
「俺、おやじの背中を見て覚えたんだよ。男は外で働いて、女が家のことをするものだって」
「俺のせいにするな。自分で考えれば分かるだろう」
「子どもは、最初から全部を自分で考えられないよ。家で毎日見たことを、普通だと思うんだ」
「お母さんが全部やっていて、お父さんはビールを飲んでテレビを見ていた。俺も、それが夫婦だと思っていた」
武は缶ビールへ伸ばしかけた手を引いた。食卓には家族五人分の料理があり、作ったのは恵子だった。自分がしたことは、味噌汁を運び、箸を並べただけだった。
「それでも、父さんの介護は始めただろう」
「だから、びっくりしたんだよ」
亮介は笑わなかった。美奈も、武が変わり始めたことは認めている。ただ、一度病院へ付き添っただけで、今までの家族の役割が消えるわけではなかった。
恵子は食べ終えた皿を重ねようとした。武はその手を止め、自分が洗うと言った。美奈と亮介はまた父親の顔を見たが、今度は冗談を言わなかった。
「お父さん、洗剤は流しの下だからね」
「それくらい知っている」
「スポンジの硬い方で、コップをこすらないでよ。傷がつくから」
「分かったから、座って梨でも食べていろ」
武はエプロンを探したが、自分のものはなかった。恵子の花柄のエプロンを借りるのは嫌で、ワイシャツの袖をまくった。美奈は梨の皮をむき、結衣が食べやすい大きさに切った。
流しには、鍋、魚の皿、茶碗、箸が重なっていた。武は洗剤を多く出しすぎ、泡を流すのに時間がかかった。サバの味噌がこびりついた皿は、湯につけてから洗うと恵子に教えられた。
「毎日、これをやっていたのか」
「朝と夜ね。あなたのお弁当箱も洗っていたよ」
「食器洗い乾燥機を買えばよかったな」
「私が欲しいと言ったとき、手で洗えば済むと言ったでしょう」
「いつの話だ」
「美奈が小学生のころ」
美奈は梨を切る手を止め、覚えていると答えた。あのとき恵子は、冬になると指先が割れ、絆創膏を何枚も貼っていた。武は水仕事くらいで大げさだと言っていた。
食器を洗い終えると、武のワイシャツの腹には水が飛んでいた。恵子は台所用のタオルを渡し、食器の置き方だけ直した。武は口を出すなと言いかけたが、茶碗が滑りそうになっているのを見て黙った。
食後、美奈は施設にいる祖父へ電話をかけた。通話を拡声にすると、父親の声が居間へ響いた。今日は栗ご飯が出たこと、午後に施設の庭を散歩したことを話した。
「おじいちゃん、お父さんが病院へ付き添ったんだってね」
「一度だけな。まだ恵子さんの方がよく分かっている」
「これからは、お父さんにも頼めるね」
「頼まないと、あいつはすぐ仕事へ逃げるからな」
「父さん、聞こえているぞ」
武が電話へ顔を近づけると、家族が笑った。結衣も意味は分からないまま声を上げ、梨を一切れ握っていた。武はその笑い声を聞きながら、食器を拭く布巾を畳んだ。
帰る前、美奈は玄関で靴を履き、武へ一つ頼みたいことがあると言った。将来、武や恵子に介護が必要になったとき、娘だからと自分一人へ押しつけないでほしいという。介護サービスを使い、亮介も含めて話し合いたいと伝えた。
「そんな先のこと、今から決めなくてもいいだろう」
「元気なうちに話しておきたいの。具合が悪くなってからでは、お父さんも私も考えられなくなるから」
「俺は、施設には入らないぞ」
「それも、今のうちに制度と費用を調べてから言って」
「お前まで、母さんみたいなことを言うな」
武はそう言いながらも、以前のように娘の話を退けなかった。介護休業の冊子と一緒に、老後について家族で話すための資料を食卓の引き出しへ入れた。次に子どもたちが帰ってきたとき、恵子も一緒に読むことにした。
亮介は梨を二個だけ紙袋へ入れた。持ちすぎると一人では食べ切れないと言い、自分で使ったコップを台所へ運ぶ。玄関では、靴べらを元の場所へ戻した。
「父さん、今度、おじいちゃんの施設へ一緒に行こう」
「何をしに行くんだ」
「会いに行くんだよ。用がなくても、孫が祖父さんに会っていいだろう」
「日曜日なら俺も行く。梨を持っていけるか聞いておくよ」
「ちゃんと自分で電話してくれよ。母さんに頼むなよ」
子どもたちを見送ったあと、恵子は庭の秋明菊へ水をやった。武は玄関の外へ出て、空になったじょうろを受け取った。金木犀の蕾が開き始め、夕方の風に甘い匂いが混じっていた。
「俺は、そんなに悪い父親だったのか」
「子どもたちを殴ったり、食べさせなかったりはしなかったよ」
「それなら、普通だろう」
「でも、何を誰がするべきかは、背中で教えていたと思う」
「今から変えても遅いか」
「子どもたちは、今日のお父さんの背中も見ているよ」
翌週の日曜日、武は亮介と一緒に父親の施設へ向かった。梨を持ち込めることを自分で確認し、職員が切り分けやすいよう、四個だけ紙袋へ入れた。亮介は電車の中で、同居していない自分にもできることを考えたいと話した。
施設の庭には、赤と白の彼岸花が咲いていた。武が車椅子を押し、亮介が隣を歩く。三人で花の近くまで行くと、父親は昔、この辺りに田んぼがあったと話し始めた。
「帰りに、ばあちゃんの好きだった饅頭を買おう」
父親がそう言うと、武は施設では食べ物に決まりがあるから先に聞くと答えた。亮介はそのやり取りを聞きながら、車椅子の膝掛けがずれていることに気づき、自分で掛け直した。武は何も言わなかったが、息子の手元を見ていた。
その夜、美奈から写真が送られてきた。小さな結衣が人形を椅子へ座らせ、膝へ毛布を掛けている。写真には「おじいちゃんみたいに、みんなでお世話するんだって」と書かれていた。
武はその写真を恵子へ見せた。子どもは親の言葉だけでなく、毎日の手の動きまで見ている。武は明日の朝も父親の服薬確認をするため、目覚まし時計を十分早く合わせた。




