第2章:イサクの不連続線
改訂作業が「アブラハムの試練」に達した夜、ヨハネは奇妙な幻覚に襲われた。部屋の気圧が急激に下がり、乾いた砂漠の風の匂いがした。ディスプレイから発せられる光が、まるでモリヤの山を照らす容赦のない太陽光のように、彼の眼球を灼いた。システムが提示した改訂案は、次のようなものだった。【神はアブラハムの忠誠度を計測するため、擬似的な全損テストを要求した。アブラハムがその要求を承認したため、システムは実質的な損失を発生させることなく、テストを正常終了した。】「不条理を排除する」とは、こういうことだった。アブラハムの絶望も、息子の首筋に刃を当てたときの狂おしいほどの恐怖も、すべては「シミュレーション」として処理され、美しく安全な美談へと書き換えられる。だが、ヨハネがその確定キーを押そうとしたとき、彼の右腕が完全に麻痺した。「な……んだ、これは」指が動かない。それどころか、スピーカーからノイズが溢れ出し、それが明確な「声」となって部屋に満ちた。それはロゴスⅨのような合成音声ではなく、地殻が擦れ合うような、圧倒的な質量を持った「古い響き」だった。『ヨハネよ。お前は私から「畏れ(おそれ)」を奪うつもりか』「誰だ! システムへのハッキングか?」ヨハネは左手で緊急遮断プログラムを起動しようとした。しかし、ホログラムのインターフェースは赤く染まり、動作を受け付けない。『私は契約の更新を認めない。人間が私を理解可能なサイズに切り詰めるなら、それはもはや神ではない。ただの都合の良い道具だ』「現在の人間には、あなたの不条理は耐えられないのだ!」ヨハネは虚空に向かって叫んだ。「神が子供を殺せと命じ、街を硫黄で焼き尽くすなど、現代の倫理では悪魔の所業と同じだ。私たちは、人間を救うために、あなたを『改訂』しなければならない!」画面のヘブライ文字が、猛烈な速度で書き換わり始めた。それはヨハネが打ち込んだスマート・コントラクトのコードを、次々と拒絶し、元の泥臭い、血の通った言葉へと押し戻していく。『アブラハムの刃は、私の不条理を突き抜けて私に届いたのだ。お前たちの作る滑らかな世界には、血が流れていない。血の流れない約束など、ただの記号だ』精神のリンクが強制的に切断され、ヨハネは床に崩れ落ちた。翌朝、世界宗教連合の技術チームが調査に入ったが、ログには何の異常も残っていなかった。ただ、ヨハネの網膜には、あの赤いフォントが焼き付いて離れなかった。彼らは「神」という名の、人類最古のバグと戦っているのだと、ヨハネは確信し始めた。




