第3章:十戒のデフラグ
「ヨハネ、作業が遅れているようだね」最高司祭サミュエルが、再びヨハネの部屋を訪れた。今回はホログラムではなく、生身の身体を引き連れて。彼の後ろには、武装した連合のセキュリティガードが控えていた。「出エジプト記の『十戒』の項目で、システムが停滞しています」ヨハネは充血した目で答えた。「『私のほかに何ものをも神としてはならない』という第一戒ですが、これを現行の『ユニバーサル・プライバシーおよび自己決定権』の規約と統合しようとすると、論理崩壊を起こします」サミュエルは鼻で笑った。「簡単じゃないか。神を『中央統治アルゴリズム』と言い換えればいい。人間はアルゴリズムに従い、アルゴリズムは人間の幸福を最大化する。そこに嫉妬深い絶対者など必要ない。ヨハネ、君の感傷が作業を阻害しているのなら、別のオペレーターに交代させるが?」「いえ、私にやらせてください」ヨハネは拒絶した。もし、あの「声」が本物であるならば、自分以外の人間がこの改訂を完了した瞬間、人類は取り返しのつかない「何か」を失うことになる。ヨハネは再びコンソールに向かった。十戒の記述が、ロゴスⅨによって解体されていく。「殺すな」「盗むな」といった戒律は、市民の行動スコアを最適化するための「相互不可侵プロトコル」へと変換された。【プロトコル1:個体識別子の抹消行為の禁止。】【プロトコル2:他個体の所有権シグナルの侵害禁止。】ヨハネの指は震えていた。これは改訂ではない。聖書の「去勢」だ。神という超越的な存在を、単なる社会のシステム管理者へと引きずり下ろio作業だ。その時、施設全体の電力が消失した。予備のバッテリーすら起動しない完全な暗黒。地下数百メートルの閉鎖空間が、一瞬にして静寂の墓場と化した。いや、静寂ではなかった。ズズズ、と音を立てて、部屋の壁一面のディスプレイが、外部電源なしで発光し始めた。映し出されたのは、無数のフォントが混ざり合った「ロゴスⅨ」の崩壊プロセスだった。0と1の並びが歪み、楔形文字、エジプトのヒエログリフ、そしてヘブライ文字へと退行していく。「バベルの逆転だ……」ヨハネは息を呑んだ。暗闇の中で、サミュエルの悲鳴が聞こえた。ガードたちの持つ電磁銃がショートし、激しい火花を散らしている。壁の文字が、巨大な二枚の石版の形を成した。そこから溢れ出る光は、あまりにも強大で、ヨハネたちの影を壁に深く刻み込んだ。スマート・コントラクトによって合理化された十戒ではない。そこには、人間の理解を拒む、絶対的な義務としての「言葉」が刻まれていた。『私は主、あなたの神。あなたを奴隷の家から導き出した者である』その言葉が脳内に直接響いた瞬間、サミュエルは狂ったように頭を抱えて叫んだ。「論理的ではない! このテキストは処理できない!」しかし、ヨハネだけは、その圧倒的な光の中に、言葉にできない懐かしさを感じていた。それは、システムがどれだけ綺麗に舗装しても、人間の心の奥底に残り続ける「混沌への郷愁」であり、「大いなるものへの畏怖」そのものだった。「神よ」ヨハネは呟いた。「あなたは、まだ私たちを諦めていないのか」暗黒の部屋に、古いフォントの明滅だけが続き、物語は人類の言語の根源を揺るがす大いなる審判へと加速していく――。




