第二話 本日をもって、あなた方は全員解雇します
まず向かったのは、執務室。
机の引き出しを開ける。
そこには、父が作らせた結婚契約書の写しがある。
アデレイドの父は、商人だった。
成金と呼ばれようが、泥臭いと笑われようが、契約にだけは厳しい男。
条項は明確だった。
ローラン公爵家がアデレイドを正当な公爵夫人として扱わなかった場合。
アデレイドの持参金は全額返還。
彼女の持参品および個人資産は、すべて即時返却。
さらに、屋敷の維持費および使用人の給与が彼女の持参金から支払われている間、家政に関する人事権はアデレイドに帰属する。
義母も夫も、どうせ成金の娘など契約書を読めないと思っていたのだろう。
「本当に、残念ね」
アデレイドは、屋敷中の使用人を広間に集めた。
不満げな顔。
嘲る目。
何人かは、夜会用の準備で忙しいのだと露骨にため息をついている。
アデレイドは、契約書を掲げた。
「本日をもって、あなた方は全員解雇します」
「は?」
広間が静まり返った。
「私の食事を抜いた者。私の宝石を無断で持ち出し、義母に渡した者。私への侮辱を繰り返した者。全員です」
使用人たちの顔色が変わる。
「あなた方の給与は、私の持参金から支払われていました。つまり、雇い主は私です。雇い主に仕える意思がない者を雇い続ける理由はありません」
「お、奥様、そんな勝手なことを」
「奥様?」
アデレイドは首を傾げた。
「今まで一度も、そう呼びませんでしたわね」
誰も言い返せなかった。
「退職金はありません。荷物をまとめて、今すぐ門の外へ」
広間は騒然となった。
だが、アデレイドは怯まなかった。
かつて東京で、酔っ払い客も、無銭飲食も、理不尽なクレームも相手にしてきた。
この程度の怒号で、ひるむほど柔ではない。
「聞こえませんでしたか?」
アデレイドは、にっこり笑った。
「出ていきなさい。私の金で、私を笑う人間は要りません」
使用人たちを追い出した後、アデレイドは鶏舎へ向かった。
そこには、彼女がこの数週間、大切に世話をしてきた若鶏たちがいる。
もともと、公爵家の食卓に上るために肥育されていた鶏だ。
ただ、誰もその命に感謝などしていなかった。
アデレイドは、一羽の前に膝をついた。
丸く太った、艶のよい若鶏。
餌を変え、水を替え、鶏舎を清潔に保ったことで、肉質は間違いなくよくなっている。
「ごめんね」
アデレイドは、そっと鶏の背を撫でた。
「あなたの命、一番いい形で使わせてもらうわ」
目を閉じる。
「いただきます」
そこからの手つきに、迷いはなかった。
命を奪うことを軽く扱わない。
けれど、恐れて手を鈍らせることもしない。
血抜き。
湯通し。
羽むしり。
解体。
それは貴族令嬢の手ではなく、料理人の手。
厨房に戻ったアデレイドは、持参品の中から小さな箱を取り出した。
父が交易で手に入れてくれた、異国の香辛料。
胡椒。
乾燥ニンニク。
香草。
赤い粉。
塩。
小麦粉に香辛料を混ぜる。
肉には下味を染み込ませる。
衣を薄く、しかし剥がれぬようにまとわせる。
鍋には、最高級のラード。
火加減を見る。
音を聞く。
油の表面を読む。
そして。
じゅわあああああっ!
厨房に、暴力的な香りが爆発した。
香ばしい衣。
肉汁。
香辛料。
熱い油。
それは、公爵邸がこれまで一度も経験したことのない匂いだった。
上品ではない。
繊細でもない。
だが、抗えない。
腹の奥を直接つかみ、喉を鳴らさせる匂い。
夜会へ向かうため、広間のソファで寛いでいた義母と夫は、同時に顔を上げた。
「何、この匂いは」
「……なんだ、これは」
アデレイドは、大皿を手に現れた。
鶏舎で汚れたドレスは脱いでいる。
身につけているのは、厨房用の白いエプロン。
髪はひとつに結い上げ、頬は火照り、瞳は生き生きと輝いていた。
その手には、黄金色に揚がった肉の山。
「お待たせいたしました」
アデレイドは、優雅に膝を折った。
「ローラン公爵家での最後のお食事です。禁断のフライドチキン、アデレイド流。どうぞ、温かいうちに」
「下品な匂いね!」
義母はそう叫んだ。
だが、視線は大皿から動かない。
夫も同じだった。
「そんなもの……夜会の前に食べられるか!これだから成金は困るんだ!」
「そうですか」
アデレイドは、黄金色の一切れを持ち上げた。
サクリ。
自分でかじる。
衣が軽く割れ、熱い肉汁があふれた。
香辛料の香りが鼻に抜ける。
塩気。
旨味。
脂。
肉の弾力。
完璧だった。
「ん……よくできてるわ」
アデレイドは、思わず目を細めた。
その瞬間、夫の喉がごくりと鳴った。
「……一口だけだ」
夫は震える手で、一切れを取った。
「こんな庶民の食べ物、評価するために食べるだけだ」
サクッ。
音がした。
次の瞬間、夫の目が見開かれた。
「な……」
肉汁がこぼれる。
衣が砕ける。
香辛料が舌を殴る。
旨味が遅れて押し寄せる。
「なんだ、これは……!」
夫は、もう一口かじった。
「止まらない……!なんだこれは、旨すぎる!」
「あなた、何をそんな」
義母も耐えきれず、一切れを取った。
「こんな野蛮な……」
サクッ。
義母の扇が床に落ちた。
「なに、これ」
彼女は震える声でつぶやいた。
「本当に、あの鶏なの……?どうして……どうしてこんなに美味しいの……!」
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