第一話 成金の娘は鶏の世話がお似合いよ
「あら、成金の娘は鶏の世話がお似合いよ」
その言葉を聞いた瞬間、アデレイドは泥に沈んだ靴先を見下ろした。
かつては宝石のようだと褒めそやされた銀髪も、今は鶏舎の藁くずと埃にまみれている。
白い手袋など、とっくに捨てた。
手のひらには擦り傷ができ、ドレスの裾には泥と鶏の羽が絡みついていた。
アデレイドは、ローラン公爵家に嫁いだばかりの公爵夫人。
ただし、愛されて嫁いだわけではない。
没落寸前の名門ローラン公爵家を救うため、新興商会の娘であるアデレイドが、莫大な持参金と共に買われたのだ。
名門の血。
成金の金。
その交換で成立した結婚だった。
だが、嫁いだ先に待っていたのは、華やかな公爵夫人の生活ではなかった。
冷酷な義母は『成金の娘』とことあるごとに鼻で笑い、アデレイドを屋敷の奥へ追いやった。
夫である若き公爵は、妻を見るたびに苦々しげに顔を背けた。
使用人たちは主であるはずの彼女を陰でこう呼んだ。
『鶏小屋の奥様』
与えられた仕事は、夜会の差配でも、客人のもてなしでもない。
裏庭にある鶏舎の掃除。
食事は冷めたスープと硬いパンだけ。
部屋の暖炉に火が入ることも少ない。
アデレイドの持参金で雇われているはずの使用人たちは、彼女にまともな礼すらしなかった。
「……臭い。汚い。帰りたい」
鶏の糞を片付けながら、アデレイドはつぶやいた。
その時だった。
ぽとり、と藁の上に落ちた一枚の羽。
それを見た瞬間、アデレイドの脳裏に、別の景色が弾けた。
夜の東京。
商店街の人通り。
赤い提灯。
油の弾ける音。
行列。
湯気。
円錐のバーレルを抱えて笑う客たち。
「……待って」
アデレイドは、鶏を見た。
丸々と太った若鶏。
艶のある羽。
しっかりとした脚。
これまでただの汚い生き物にしか見えなかった鶏が、突然、まったく別のものに見えた。
キール、ウィング、サイ、ドラム、リブ……それはまるで、最高の食材に。
「……私、知ってる」
アデレイドは思い出した。
前世の自分は、東京で唐揚げ屋を営んでいた。
油の匂いは服に染みついていた。
それでも、季節のイベントになると行列ができた。
何より……
会社帰りの男。
塾帰りの子ども。
部活帰りの学生。
疲れ切った母親。
ビール片手の常連客。
みんなが、揚げたての唐揚げを一口かじって、同じ顔をした。
ああ、うまい。
その顔を見るために、彼女は何万個もの鶏を揚げてきた。
「……そうだ」
アデレイドは、ゆっくりと立ち上がった。
泥まみれのドレス。
荒れた手。
冷え切った体。
けれど、その瞳だけが、別人のように輝いていた。
「私、鶏の扱いなら誰にも負けないわ」
その日から、アデレイドは変わった。
鶏舎の掃除をしながら、鶏の状態を見る。
餌の配合を変える。
水を清潔に保つ。
太りすぎず、痩せすぎず、肉に旨味がのるように調整する。
使用人たちは、そんな彼女を見て笑った。
「鶏小屋の奥様が、とうとう鶏とお話を始めたぞ」
「お似合いですわ。成金の奥様には、宝石より鶏の羽の方がお似合いですもの」
アデレイドは笑わなかった。
怒りもしなかった。
誰が彼女を侮辱したか。
誰が食事を抜いたか。
誰が彼女の宝石を勝手に持ち出したか。
誰が彼女の持参金から支払われる給与で、彼女を笑っていたか。
全て覚えていた。
そして、決定的な夜が来た。
その日は、国王陛下が主催する重要な夜会だった。
本来なら、公爵夫人であるアデレイドが夫の隣に立つべき場である。
名門ローラン公爵家が健在であることを示す、何より大事な夜。
だが、アデレイドの部屋に現れたのは、豪奢なドレスをまとった義母だった。
義母の首には、アデレイドの真珠。
耳には、アデレイドのサファイア。
髪には、アデレイドが嫁入り道具として持参したダイヤの髪飾りが輝いていた。
「あら、まだそんな格好をしているの?」
義母は扇で口元を隠し、くすくすと笑った。
「今夜の夜会には、私が出ます。ローラン公爵家の顔としてね」
「……公爵夫人は私ですが」
「成金の娘が社交界に出ても、恥をかくだけでしょう?」
義母は、わざとらしく鼻を押さえた。
「あなた、鶏の匂いがするもの。鶏とでも踊っていなさい」
部屋の扉の向こうには、夫である公爵も立っていた。
アデレイドは、夫を見た。
「あなたも、そうお考えですか」
「……母上の言う通りだ」
夫は目を逸らした。
「お前は家柄が足りない。金は役に立ったが、それだけだ。今夜のような場に出せる女ではない」
「そうですか」
アデレイドの中で、何かが静かに切れた。
怒鳴る気にはならなかった。
泣く気にもならなかった。
ただ、心の奥がすうっと冷えていく。
「わかりました」
アデレイドが微笑むと、義母が初めて、わずかに眉をひそめた。
「何がおかしいの」
「いえ。皆様をお見送りする前に、最後のおもてなしを用意しようと思いまして」
「おもてなし?」
「はい。ローラン公爵家で過ごした日々への、感謝を込めて」
夫は鬱陶しそうに手を振った。
「勝手にしろ。出発までに邪魔をするな」
「ええ。すぐに済みますわ」
アデレイドは、そのまま部屋を出た。
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