第36話:防音の檻と深淵の悪夢
場所:サンダーランド国 トリトン港 スターリング卿の沿海の屋敷
賑やかな舞踏場の端から、ジュリアン・ヴァンス卿は募る恐怖と共に見守っていた。
彼はアシュフォード嬢が優雅に求婚者の息苦しい群れから抜け出し、東のバルコニーの扉へと滑るように向かうのを見た。その直後、スターリング卿が気軽に取り巻きたちから離れ、彼女を追い始めた。
ジュリアンの握りしめた水晶のワイングラスがきしんだ。彼は高位枢機卿たちに目を向け、神の裁きの裁定者たちが悪名高い捕食者が獲物を狙うのに気づくことを期待した。しかし枢機卿たちは意図的に視線をそらし、十分の一税についての突然の非常に活発な会話に深く没頭していた。
女神の裁定者たちは本当にこれほど盲目なのか? とジュリアンは思った。その血が沸騰した。それとも彼らは積極的に共犯なのか? 彼の金は天そのものの沈黙を買うのか?
黙って見ていることができず、ジュリアンはグラスを置き、割って入ろうと動いた。彼はバルコニーに向かって素早く歩いたが、突然、彼の進路は完全に塞がれた。二人の肩幅の広い商人と厳しい顔の教会の聖堂騎士が直接彼の前に立ち、侵入不可能な人の壁を形成した。
「ああ、ジュリアン卿!」太った商人の一人が大声で叫び、重い手をジュリアンの肩に置いた。「ちょうどお会いしたかった人物です。あなたの父上が起草している新しい海軍貿易関税について是非話し合わなければ!」
「どいてください」ジュリアンは要求し、彼らをかわそうとした。「緊急の用事があります」
「そんなこと言わずに、夜はまだ長いですよ!」別の商人が笑い、意図的に再び彼の進路に立ちはだかった。彼らは彼を引き止めていた。スターリングは彼の手下たちに妨害工作を命じていた。ジュリアンは歯を食いしばり、腐敗した政治の壁に閉じ込められ、手遅れにならないことを必死に願った。
◆
石造りのバルコニーに足を踏み出すと、冷たい夜気が即座にアシュフォードを包み込み、石炭の煙と海の塩気のかすかな金属的な香りを運んだ。
眼下では、都市は二つの時代の息をのむような融合だった。古代の中世の石造りの要塞とギザギザした石畳の街路は、今や蒸気駆動のガス灯の温かく揺らめくシューという音で照らされ、遠くへと落ちた星の軌跡のように伸びていた。巨大なレンガ造りの工場の煙突は、ゴシック様式の大聖堂の尖塔の隣に暗い巨人のようにそびえ立ち、真珠のような煙の優しい煙を星空に吐き出していた。港の下では、巨大な木材の蒸気船の黒いシルエットが水面に揺れ、その鉄の船体は金色の街灯を反射していた。
背後からの舞踏室では、ヴァイオリンの柔らかなワルツがまだ響いていたが、ここでは都市が自身の静かな歌を歌っていた――古代の石と産業時代の安定したリズミカルな心臓の鼓動の交響曲だった。
「素晴らしい眺めでしょう?」
ケインはスターリング卿がバルコニーに足を踏み入れ、後ろで重いガラスの扉を閉めるのにもひるまなかった。太った貴族は近づき、彼の濃いコロンのベトベトした香りが新鮮な海風を圧倒した。
「そうですね」ケインは答えた。その声を優しく女性的に保ち、追い詰められた小鳥の役を演じた。
「少し顔が赤いようですよ、私の愛しいアシュフォード」スターリングは呟き、ケインの個人的な空間に足を踏み入れた。彼の目は一瞬、その不自然な紫の魔法の色合いで輝いた。「騒音、群衆…疲れませんか? 休みたいでしょう。実際、かなり目が回っているのでは?」
ケインは哀れな【催眠暗示】の呪文が彼の深淵の意識に無害に跳ね返るのを感じた。しかし罠を仕掛けるために、彼は意図的にまぶたを垂らし、足元でわずかに揺れた。彼は石の手すりに体重を預け、まるで脚が力尽きかけているかのようにした。
「私…はい。とてもふらふらします」ケインは単調にささやいた。
「心配しないで、私がいます」スターリングは微笑み、卑劣な勝利の笑みが彼の顔に広がった。彼は太った汗ばんだ腕をアシュフォードの腰に巻き付け、『彼女』の体重を支えた。「静かな部屋に案内して、そこで回復しましょう」
スターリングは催眠されたように見える少女をバルコニーから導き、屋敷の所有者のために完全に確保された人気のない薄暗い廊下を下った。彼は重いマホガニーの扉の前で止まり、それを押し開けてケインを中に導いた。
部屋は豪華だったが、息苦しかった。壁は厚いベルベットのパッドで覆われていた。窓はなかった。それは完全な防音の隔離室で、どんな叫び声も舞踏室に届かないように特別に設計されていた。
スターリングはアシュフォードを柔らかいベルベットのソファに導いた。「ここで休んでください、私の愛しい人」と彼はささやいた。
スターリングは背を向けて重い扉に鍵をかけた。金属的なカチッという音が小さな部屋に大きく反響した。完璧だ、とスターリングは思った。唇を舐めながら。まずは美しい使用人を屈服させる。そして彼女を手に入れたら、次にソフィア卿を狙うために彼女を使う。ヴァイルブラッドの財産は私のものになる。
彼はベルベットの外套のボタンを外し、フィルターのない嫌な欲望の表情で振り返った。「さて、始めましょう――」
スターリングは凍りついた。言葉が彼の喉で死んだ。
防音室の気温は氷点下まで急降下していた。鏡の縁に霜が急速に結晶化し始めた。
アシュフォードはもはやソファに崩れ落ちてはいなかった。『彼女』は部屋の中央に完全に真っ直ぐに立っていた。しかし何かが恐ろしく、恐ろしいほど間違っていた。美しいサファイアドレスはその周囲の光を飲み込むかのようだった。アシュフォードの真夜中の黒い髪はもはや彼女の肩に落ちておらず、深い水の中に浮かんでいるかのように空中に広がり、完全に重力に逆らっていた。
そして彼女の目。虹彩の金色の輪は、薄暗い部屋の中で強烈で突き刺すような輝きを放ち、純粋で絶対的な憤怒の力の波動を放射していた。それは息苦しい圧力で、スターリングを膝をつかせた。ケインは女性的な形態から着替えるのを忘れていたが、彼から漏れ出す純粋な悪魔的な殺意は彼の外見を完全に凌駕していた。
「な、なんだ?」スターリングはどもり、ケインの殺意の目に見えない重力が彼の肺を押しつぶす中で大量の汗をかいた。「なぜ…なぜ立っている? 呪文は効いているはずだ!」
「一度だけ尋ねる」アシュフォードは話した。その声はもはや柔らかなアルトではなかった。それは重層的で、深淵の野性的な金属的な歪みで反響していた。「死にたいか、生きたいか?」
その質問はスターリングの精神を完全に粉砕した。部屋の中の恐ろしい力の波動は疑いの余地を残さなかった。この存在は、それが何であれ、彼を虐殺しようとしている。
「わ、私は死にたくない!」スターリングは叫んだ。本物の恐怖の涙が彼の太った頬を伝った。「すみません! 許してください! 何でもします!」
彼は前に身を投げ出し、額をカーペットに押し付けて哀れな懇願の様子を見せた。しかし彼の手が床に着いたとき、彼の重く宝石をちりばめた指輪の中の隠されたバネの機構がカチッと開いた。
スターリングの目は必死の悪意で輝いた。彼は手首をひねり、三本の小さな専門的に隠された投げナイフをアシュフォードの胸に向けて直接放った。刃は非常に致死性の高い麻痺性のワイバーンの毒でコーティングされていた。死ね、怪物! とスターリングは祈った。
バシッ。バシッ。バシッ。
三本のナイフ全てがアシュフォードの胸に深く突き刺さった。
スターリングは安堵の息を漏らし、少女が即座に死ぬことを期待した。
アシュフォードは少しもひるまなかった。
濃い赤い血がサファイアの絹の上に広がったが、その血は漆黒に変わった。スターリングの恐怖した目の前で、傷の周りの肉は小さなギザギザした口のように開いたように見えた。ナイフは激しく内側に吸い込まれ、完全にアシュフォードの体内に吸収された。傷は一秒の何分の一で塞がり、傷跡さえ残らなかった。
【システム通知】
行動:致死性ワイバーン毒素&鉄のナイフを消費。
スキル発動:【絶対強欲】
結果:毒は中和されました。鉄は生の魔力に変換されました。
アシュフォードは修復されたドレスを見下ろし、それからスターリングを見た。ゆっくりと、深く不自然な笑みが『彼女』の完璧な顔に広がり、それに続いて、部屋の壁そのものを震わせるような暗く反響する恐ろしい笑い声が続いた。
「あなたは選択した」ケインはささやき、ゆっくりと一歩前に進んだ。
スターリングは後ずさりし始め、制御不能に震えながら温かい尿の水たまりが彼の高価なズボンを染めた。「やめろ! 来るな! 衛兵! 衛兵!」
スターリングは肺の限界まで叫び、自分の命のために金切り声を上げた。しかし彼が設計した通り、防音の壁は全てのデシベルを吸収した。舞踏室の誰も何も聞かなかった。部屋の隅の影が前方に押し寄せ、叫ぶ貴族を完全に包み込んだ。
◆
十分後、東のバルコニーの重いガラスの扉が滑り開いた。
ついに遮る商人たちから抜け出したジュリアンは、冷たい夜気の中に慌てて飛び出し、荒く息を切らしていた。彼の目は、何を見つけるかもしれないという恐怖であちこちに走った。
代わりに、彼はアシュフォードが石の手すりのそばに平和に立ち、街の灯りを見つめているのを見た。サファイアドレスは完璧に無傷だった。彼女の髪はきちんとピンで留められていた。彼女は全く無事に見えた。
「アシュフォード嬢!」ジュリアンは息を呑み、駆け寄った。「大丈夫ですか? 遅れてしまって――スターリング卿を見ましたか? 彼はここに来ましたか?」
アシュフォードは振り返り、優しく完全に非の打ちどころのない微笑みを浮かべた。「私は全く問題ありません、ジュリアン卿。新鮮な空気はまさに必要なものでした。そしていいえ、スターリング卿は見ていません。私はずっと一人でした」
ジュリアンは巨大な安堵の息をつき、手すりに少し寄りかかった。彼は何と言っていいか分からず、パニックのアドレナリンに圧倒されていた。「私…あなたが無事で本当に良かったです」
「私のことはご心配には及びません、閣下」アシュフォードは優しく言った。彼女は丁寧なお辞儀をした。「失礼します。お嬢様を探さなければなりません。遅くなりましたので」
彼女は彼の横を通り過ぎ、ジュリアンはバルコニーに立ち尽くし、自分が話した怪物に全く気づいていなかった。
◆
大舞踏室に戻ると、ワルツの旋律は歓喜の頂点に達していた。ケインは滑らかに群衆に溶け込み、ソフィアとセバスチャンが大階段の近くに立っているところへ歩いていった。彼の顔は深く穏やかな満足の表情を浮かべていた。
ソフィアはワイングラスを一口すすると、その紫の目でケインを頭からつま先までスキャンした。彼女は彼の周りの空気に残る深淵の魔力の非常にかすかな痕跡に気づいた。
「殺したの?」ソフィアは casually に尋ね、声を低く保った。
「もちろん違う」ケインは答えた。その口調はぞっとするほど快活だった。「ただ彼に自分の過ちを示しただけだ。彼の精神を局所的な深淵の幻覚ループに閉じ込めたんだ。自分の腕が引きちぎられる感覚を経験させ、生の肉を食べさせ、出血多量で死なせ、そして回復魔法で甦らせて同じことを繰り返した。五分間で約七十回は経験したと思う」
ソフィアはグラスを下ろし、ゆっくりと瞬きした。そして、柔らかく苛立ったため息をついた。
「まあ」ソフィアは呟き、邪悪な笑みが彼女の唇に触れた。「少なくとも彼はまだ呼吸している。壊れた恐怖のポーンはまだ使えるポーンだ。明日、彼の恐怖を利用して彼の資産を支配できるわ。しかし認めざるを得ないわね、ケイン…息をのむほど美しい貴族の女性にしては、あなたは深く恐ろしいわ」
ケインは彼女に withering な視線を送った。
「そろそろお暇しましょう、お嬢様方」セバスチャンが滑らかに割って入り、外套を抱えて彼らの隣に現れた。「馬車が待っています」
彼らが壮大な屋敷を出て、蒸気馬車に向かって石畳の道を歩いていくと、背後から声が呼びかけた。
「アシュフォード嬢! 待ってください!」
それはジュリアンだった。彼は階段を駆け下り、敬意を込めた距離で止まり、冷たい夜気と純粋な緊張で頬を赤らめていた。「ただ…お別れを言いたかったんです。そして、首都でまたお会いできることを本当に願っています」
ケインは立ち止まった。彼は誠実で、完全に愚かな若者を見た。女性的な persona を完璧に維持して、アシュフォードは最後の、壊滅的なほど美しい微笑みを浮かべた。
「楽しみにしています、ジュリアン卿」アシュフォードは優しく言い、馬車に乗り込んだ。
馬車の重い鉄の扉がカチッと閉まり、蒸気エンジンが唸りを上げて始動し、彼らを夜の中へと転がしていった。
彼らが安全に見えなくなった瞬間、ケインは純粋な苦痛のうめき声を漏らした。闇の魔力が彼の体に波打った。サファイアドレスは影に溶け、彼の体は変化し、彼は鋭い男性的な姿に戻り、革張りの座席に重くだらしなく座った。
向かいに座るソフィアは、頭を手に乗せて優しく笑った。「まあまあ。どうやらあなたは若いヴァンス卿を本当に惹きつけたようね。新しい興味を見つけたのかしら、ケイン?」
ケインはゆっくりと頭を上げた。彼の金色に縁取られた目は薄暗い馬車の灯りでかすかに輝き、静かな殺人的な脅威を放っていた。
「あなたは」ケインはゆっくりと尋ねた。その声は毒を滴らせていた。「あの防音室でスターリング卿が直面したことを、正確に経験してみたいか?」
ソフィアは再び笑い、異常者の脅威に全く動じなかった。彼女は窓の外の通り過ぎるガス灯を見つめ、その目は期待で輝いていた。
「休める時に休んでおきなさい、ケイン」ソフィアは微笑んだ。「明日、私たちはこの都市の一部を所有する。ここ数日は無限に面白くなるわ」
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