第四話 二つの名前
「……禰々姫様」
乳母の於弘の顔は相変わらず心配そうだった。
普段は表情筋が仕事をしていないのではと思うほどの無表情ぶりの彼女が、こんなにも表情を崩したところは初めて見た。
胸の奥が温かい。懐かしいと思った。安心するとも思った。
何故なら……そうだ。私は“ねね“だ。
そして、“禰々“でもある。
混濁していた前世と今世の記憶が、ゆっくりと混ざり合い、自分の中へ溶けていく。
新潟で生まれ育った“ねね“。
甲斐で生まれ育った“禰々“。
“ねね“は歴女と呼ばれる部類の女だった。
だが、その知識は新潟から一歩出ると怪しくなる。
だけど、“禰々“、この名前は知っていた。
随分前に友人の美々香と、黒板を背に話した情景が脳裏に浮かんだ。
「ねねってさー、豊臣秀吉の奥さんも同じ名前じゃなかったー?」
「そうだよー。他にも同じ名前の人がいるんだよ」
「えー?」
「武田信玄の妹。禰々姫様。この人、悲劇のお姫様って呼ばれてるんだよ」
今の私たちとそう変わらない年で亡くなっているから――
ねねはその先を言わなかった。
代わりに、歴史のノートの端へ“禰々“と書き込んだ。
「こうやって書くんだよ」
得意げに見せた文字を、美々香は興味深そうに覗き込んだ。
……なんで、私、山梨に生まれたんだろう?
甲斐の歴史、ほとんど知らないのに。
「姫様、朝餉の支度が整っております」
もう朝と呼べる時間は当に過ぎていた。が、それでも、於弘は、禰々が目を覚ますと信じて朝食を用意してくれていた。
目の前に膳が並べられていく。
湯気と共に香るネギの匂いに、お腹がくぅ、と鳴いた。
「いただきます」
静かに汁椀に口をつけた。
「……温かい」
思わず涙が出そうになる。
目の前に座した於弘は、静かに口を開いた。
「何故山へ入られたのですか」
禰々は箸を置いた。
「……わかんない。ただ行きたかったの」
前世の記憶にある山は、木漏れ日が差して、鳥の声が聞こえて、風が吹くと木々が揺れる、そんな場所だった。
「でも、入ってみて、急に怖くなった」
山へ入り、少し歩いただけでわかった。
ここは、私の知ってる山じゃない、って。
山は静かで、冷たくて、……私なんていつでも呑み込めるみたいだった。




