第三話 酒の肴と、前世と今世
あの女子は大丈夫だったのだろうか。
そう思いつつも床についた翌日の夜――
「聞いたぞ。姫君を助けたそうではないか」
珍しく父が声をかけてきた。楽しそうに。
片手に持つ酒瓶から、たぷん、と、音がした。
「工藤の倅が姫君を助けた、と。館中その話でもちきりよ」
呑んでいる。これはだいぶ呑んでいる。
……たいして酒に強くないくせに。
赤らんだ頬がそれを証明していた。
俺の噂を酒の肴にしないでくれっ……!
父のだる絡みを背に、廊下へ出る。雲ひとつない空に夜月がくっきりと見え、綺麗だった。
……違う。
助けられたのは俺の方だ。
雨の溜まった水溜りに、苦い顔をした自分が映っていた。
翌朝、家の者に頭を撫でられた。
館へ姫の様子を伺いに行こうかと悩んでいるところに、だ。
「熊を退け、姫君をお救いになられたとか。頼もしくなられましたなぁ」
……何それ!!!初耳なんだけど!!?
どんな面して姫の前に顔出せって言うんだよ、それ……。
いや、武田の姫だ、別に見に行かなくとも大丈夫であろう。
そして、翌々日の昼、道端で村人から手を握られ、豆を渡された。
「熊と渡り合い、姫君をお守りなされたとか。我ら武田家に恩がありますれば……去年の豆じゃが持っていってくだせぇ」
まずい。非常にまずい。噂が拡大している。……風のような速さで。
ますます館へ行きづらくなってしまった……。
でも、頭打ってたしな。
翌翌々日の朝、ちょっと様子を見るだけだ、と自分に言い聞かせ、館へ向かった。
ところが。件の姫の姿は、館になかった。
――数日前に遡る
件の姫の様子はというと。
「ここは……?」
「禰々姫様!お目覚めになられましたか!」
和装姿の、母と同じくらいの年齢の女性が、ずい、と顔を近づけてきた。その瞳は心配そうに、わずかに濡れていた。
ねね……、姫様……???今私のこと、姫様って呼んだの???
うちの家はしがないサラリーマン一家だ。母は主婦で、父はそこそこの会社でそこそこの役職についてる極一般的な会社員である。
姫扱いなんて生まれてこのかた一度もされたことなんて……
「……っ」
頭が、ずきん、と痛んだ。
視界に広がる、木目の走る板張りの天井に違和感を覚えた。
それに、匂いも違う。まず、鼻をかすめたのは、藺草の香りだった。
それに、木の匂いや、木炭の香りもする。
そして、炊き立てのご飯の香りに、胃袋がきゅう、と反応した。
どこか安心感を覚える匂いだ。
おかしい。……なんで、安心感を覚えるんだろう。なんで……、この香りが落ち着くんだろう。
うちの家に広がる香りは、柔軟剤の香りと、コーヒーの香りだったはずなのに。
障子越しに差し込む光が、ぼんやりと部屋を照らしている。
「禰々姫様……っ……よくぞ、ご無事で……!」
先ほどの女性にもう一度名前を呼ばれた。
見覚えはない。ない、はずだった。
「……於弘?」
ふいに、その名が浮かぶ。
何故か胸の奥がじんわりと温かくなった。
6/7 内藤の倅→工藤の倅へ修正。(内藤昌秀の生家は工藤。後に内藤の名跡を継承したと言われている為)




