表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/43

第五話「灰を這う令嬢」11

 裏通路は、来た時よりさらに冷えていた。


 石壁の湿り気。足元を這う古い排水溝。ところどころに残る、新しい煤。

 地下法廷の熱はすぐそこに残っているのに、少し離れただけで空気はひどく静かだ。


 賢王は知っている。知っているどころか、その裂け目を自分の手に載せている。

 表では調停士が争いを記録へ戻し、地下では賢王が例外を血へ戻す。

 どちらも法の顔をしている。その二重底の上を、自分はいままで何も知らずに歩いていたのだ。


 狭い通路を抜け、崩れた格子の脇まで戻る。そこから先は、また湿った排水路だった。

 侍女はそこで足を止め、一礼する。


「ここから先は、おひとりで」


「送らないんですか」


「地上へ出るまでの道は、もうご存じでしょう?」


 最後まで抜け目がない。


 侍女が去る。灯りが遠ざかり、周囲がいっそう暗くなる。

 エレノアは小型灯の蓋を少しだけ開けた。細い光が石の継ぎ目をなぞる。


 排水路を抜けるあいだ、さっき見たものが何度も脳裏をよぎった。


 壇へ這うセラフィナ。

 「ここに在り」と名を告げる声。

 記憶だ、と名乗ったカイル。

 石床へ落ちる血。

 そして高座から落ちた、妙に楽し気な賢王の声。


 どれも夢ではなかった。嫌になるほど具体的で、石の冷たさや血の匂いまで思い出せる。


 格子を抜け、崩れた外壁の陰へ身を滑らせた時、ようやく夜気が頬に当たった。

 地上の空気は冷たい。けれど、地下より薄い。

 それだけで少し息がしやすくなる。


 礼拝堂跡の横口は、すでに何事もなかったように閉ざされていた。

 灯りもない。見張りの姿も、遠目にはただの影にしか見えない。エレノアはしばらく、そこから目を離せなかった。


 胸元へ触れる。

 小ぶりな銀のブローチ。

 王冠の下、細い軸に吊られた天秤を刻んだ、調停士の徽章。


 冷たい。

 ただの銀のはずなのに、いまは妙に重かった。


 これを与えたのも賢王だ。

 地下の裂け目を飼っているのも、同じ賢王だ。

 なら、自分は何を信じていたのだろう。


 違う、とエレノアは思った。


 信じていたのは、拾えるはずのものを拾う手順のほうだ。


 誰かが怒鳴った声の大きさではなく、記録の小さな歪みを見逃さないこと。

 言い分の強さではなく、踏みにじられた事情のほうを数えること。

 剣が抜かれる前に、まだ間に合う言葉を探すこと。

 自分が信じていたのは、そういう遅くて地味な手順のほうだ。


 その手順が、取り零すことはある。今夜それを、嫌というほど見せつけられた。


 けれど、だからといって、裂け目の側へ下りる理由にはならない。


 下りれば、賢王の用意した裏の盤の上へ乗る。

 例外の規則に自分を預けることになる。

 それだけは、したくなかった。


 ならば。


 焼失家産の控え。

 封印記録の決裁者。

 王璽印で開く横口へ繋がる名。


 地下で血に変わる前のものを、昼の側から拾うのだ。

 帳面に残った薄い線を繋ぎ、消されたはずの記録を掘り返し、例外へ落とされる前の痕跡を押さえる。

 セラフィナが夜に開けた穴を、こちらは昼から覗き返す。


 それが間に合う保証はない。正しいとも、まだ言い切れない。

 けれど少なくとも、自分が立つ場所としては、それしかない。


 エレノアはようやく横口から目を離した。


 宿へ戻る道は暗い。

 王都の夜は静まり返っているのに、その下では誰かがまだ名を呼び、誰かがまだ笑っている気がする。

 けれど、自分はそこへ戻らない。


 私が戦うのは昼だ。


 宿の小机に広げるべき帳面がある。明日洗うべき何かがある。

 照会をかけるべき記録院がある。


 心を落ち着けるために祈ろうとして、やっぱりやめた。

 今夜はまだ、うまく祈れない。

 そのかわり、頭の中で順番を並べる。


 誰に会うか。

 何を照会するか。

 どこから崩すか。

 どの紙なら、まだ火の手が回る前に押さえられるか。


 祈れない夜だった。けれど、止まれない夜でもなかった。


 エレノアは外套の前をかき合わせ、足を速めた。

 夜を見た。だからこそ、昼の側から追うしかない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ