第五話「灰を這う令嬢」11
裏通路は、来た時よりさらに冷えていた。
石壁の湿り気。足元を這う古い排水溝。ところどころに残る、新しい煤。
地下法廷の熱はすぐそこに残っているのに、少し離れただけで空気はひどく静かだ。
賢王は知っている。知っているどころか、その裂け目を自分の手に載せている。
表では調停士が争いを記録へ戻し、地下では賢王が例外を血へ戻す。
どちらも法の顔をしている。その二重底の上を、自分はいままで何も知らずに歩いていたのだ。
狭い通路を抜け、崩れた格子の脇まで戻る。そこから先は、また湿った排水路だった。
侍女はそこで足を止め、一礼する。
「ここから先は、おひとりで」
「送らないんですか」
「地上へ出るまでの道は、もうご存じでしょう?」
最後まで抜け目がない。
侍女が去る。灯りが遠ざかり、周囲がいっそう暗くなる。
エレノアは小型灯の蓋を少しだけ開けた。細い光が石の継ぎ目をなぞる。
排水路を抜けるあいだ、さっき見たものが何度も脳裏をよぎった。
壇へ這うセラフィナ。
「ここに在り」と名を告げる声。
記憶だ、と名乗ったカイル。
石床へ落ちる血。
そして高座から落ちた、妙に楽し気な賢王の声。
どれも夢ではなかった。嫌になるほど具体的で、石の冷たさや血の匂いまで思い出せる。
格子を抜け、崩れた外壁の陰へ身を滑らせた時、ようやく夜気が頬に当たった。
地上の空気は冷たい。けれど、地下より薄い。
それだけで少し息がしやすくなる。
礼拝堂跡の横口は、すでに何事もなかったように閉ざされていた。
灯りもない。見張りの姿も、遠目にはただの影にしか見えない。エレノアはしばらく、そこから目を離せなかった。
胸元へ触れる。
小ぶりな銀のブローチ。
王冠の下、細い軸に吊られた天秤を刻んだ、調停士の徽章。
冷たい。
ただの銀のはずなのに、いまは妙に重かった。
これを与えたのも賢王だ。
地下の裂け目を飼っているのも、同じ賢王だ。
なら、自分は何を信じていたのだろう。
違う、とエレノアは思った。
信じていたのは、拾えるはずのものを拾う手順のほうだ。
誰かが怒鳴った声の大きさではなく、記録の小さな歪みを見逃さないこと。
言い分の強さではなく、踏みにじられた事情のほうを数えること。
剣が抜かれる前に、まだ間に合う言葉を探すこと。
自分が信じていたのは、そういう遅くて地味な手順のほうだ。
その手順が、取り零すことはある。今夜それを、嫌というほど見せつけられた。
けれど、だからといって、裂け目の側へ下りる理由にはならない。
下りれば、賢王の用意した裏の盤の上へ乗る。
例外の規則に自分を預けることになる。
それだけは、したくなかった。
ならば。
焼失家産の控え。
封印記録の決裁者。
王璽印で開く横口へ繋がる名。
地下で血に変わる前のものを、昼の側から拾うのだ。
帳面に残った薄い線を繋ぎ、消されたはずの記録を掘り返し、例外へ落とされる前の痕跡を押さえる。
セラフィナが夜に開けた穴を、こちらは昼から覗き返す。
それが間に合う保証はない。正しいとも、まだ言い切れない。
けれど少なくとも、自分が立つ場所としては、それしかない。
エレノアはようやく横口から目を離した。
宿へ戻る道は暗い。
王都の夜は静まり返っているのに、その下では誰かがまだ名を呼び、誰かがまだ笑っている気がする。
けれど、自分はそこへ戻らない。
私が戦うのは昼だ。
宿の小机に広げるべき帳面がある。明日洗うべき何かがある。
照会をかけるべき記録院がある。
心を落ち着けるために祈ろうとして、やっぱりやめた。
今夜はまだ、うまく祈れない。
そのかわり、頭の中で順番を並べる。
誰に会うか。
何を照会するか。
どこから崩すか。
どの紙なら、まだ火の手が回る前に押さえられるか。
祈れない夜だった。けれど、止まれない夜でもなかった。
エレノアは外套の前をかき合わせ、足を速めた。
夜を見た。だからこそ、昼の側から追うしかない。




