第六話「王冠の下の天秤」1
人は、正しさだけでは届かない場所を見たあと、すぐに悪人にはなれない。
けれど、前と同じ善人でもいられない。
あの地下決闘裁判から一か月後、王都南区の石畳は、春先の薄い陽を受けて白く乾いていた。
エレノア・ヴェイスは、商家の並ぶ通りの角で足を止め、手帳を閉じた。
地方染料を扱う中規模商会に対して定期視察を行う日だ。
ただし、その理由だけではないことも、エレノア自身がいちばんよく分かっていた。
あの夜のあと、彼女は記録院を洗い、接収先を辿り、封緘文書に繋がる名を拾い、先の内偵でようやくこの商会へ行き当たった。
正しい手順の、昼の追い方だ。
けれど、その地道な追跡の先に本当に待っていたのが、地下礼拝堂で石床を這っていたあの女だと分かった時、自分の胸のどこかが、ほんの少しだけ安堵したのも否定できなかった。
逃げられてはいない。見失ってはいない。あの夜は、ちゃんと昼へ繋がっていたのだと。
だからこそ、定期的に視察する必要がある。
「入るのか、調停士殿」
横から、愛想のない声がした。
見なくても誰だか分かる。昼の顔をしている時のカイルは、相変わらず感じが悪い。
「そのために来ました」
エレノアは前を見たまま言う。
「あなたこそ、今日はずいぶん普通ですね」
「普通で悪いか」
「悪くはありませんけど、落差が腹立たしいです」
「……何の話だ」
白々しい。
けれど、その白々しさに少しだけ救われる自分もいて、エレノアは内心で舌打ちした。
商会の表扉は、磨かれた真鍮の取っ手に午前の光を返している。地下礼拝堂の横口とは似ても似つかない、健全で上品な入口だ。
だからこそ余計に、同じ網の上にあるのだと分かってしまう。
「今日はお茶を飲みに来たわけではありませんよ」
エレノアは言った。
「誰もそんなことは言ってない」
「言われる前に否定しておきます」
横で、カイルが小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのかは分からない。
店の者に名を告げると、案内は妙に早かった。応接間ではない。奥の、私的な居室へ通される。
内偵先としてはどうかと思う。だが、断る理由もない。
通された先の小部屋には、すでに茶器が二人ぶん用意されていた。
窓際の椅子に、セラフィナ・アシュベルがいる。
今日は黒布ではなく、淡い灰青の室内着だった。火に舐められた頬と指の痕は隠しきれない。
それでも、湯気の向こうにいる姿は、地下の石床で見た時よりずっと人間らしく、ずっと厄介だった。
「ごきげんよう、調停士殿」
掠れた喉で、けれど礼を失わずにそう言う。
「ごきげんようを返すかどうかは、まだ考えます」
エレノアは即座に返した。
「まあ。では、お茶だけ先にいかが?」
その返しが、あまりにも自然だったので、エレノアは一瞬だけ言葉に詰まった。
視察先にいる潜伏令嬢と、こうも滑らかに二度目の茶席へ入っていいのか。調停士としてどうなのか。
そう思う一方で、以前よりはるかに元気そうなセラフィナを見て、よかった、と思ってしまう自分がいる。
それがいちばん腹立たしかった。
カイルが何も言わず、手際よく茶を注ぐ。夜の代闘士の手ではなく、よく仕えた家の給仕の手だ。
エレノアは椅子に腰を下ろした。
白磁の茶器から、薄く湯気が立っている。
香りは穏やかだった。癖がなく、けれど安茶ではない。焼けた喉にも通りやすいものを選んだのだと分かる。
「警戒なさらなくてもよろしいのよ、調停士殿」
セラフィナが言う。
「毒は入っておりませんわ」
「そこまでは疑っていません」
「まあ。では、もう少し別のことを疑っておいでなのね」
「山ほどあります」
セラフィナが、かすかに口元を和らげた。笑った、というほどではない。けれど、気をよくしたのは分かる。
やりずらい、とエレノアは思う。
この人は、火にすべて焼かれた境遇でなお、人の言葉の綾で遊ぶ茶目っ気がある。
「本日はちゃんと調査です。お茶に釣られて来たわけではありません」
エレノアは改めて言った。
「でしょうね」
セラフィナはあっさり頷く。
「わたくしの顔を見に来るついでに調査に来たのでしょう?」
「ややこしい言い回しですね、それなら逆です、多分」
「まあ。でも、どちらでも構いませんわ。結果として、お茶はご一緒できておりますもの」
その返しに詰まり、エレノアは茶杯へ手を伸ばした。
逃げではない。ただ、いまの一手を取り返す言葉が思いつかなかっただけだ。
口に含む。
やわらかい。薬草めいた苦みが後に残るが、きつくはない。むしろ妙な心地よさまである。
「お加減は」
エレノアは聞いてから、しまった、と思う。視察に来たのではなかったのか。
自分で言ったばかりなのに。
だがセラフィナは、それを咎めなかった。
「以前よりはずっと良いです」
そう言って、唯一自由に動かせるであろう左の指先で茶杯の縁をなぞる。
「立って名を告げても、すぐには倒れなくなりましたもの」
「誇るところではありません」
「ただ、事実を申し上げているだけ」
その「事実」の軽さが痛い。
本来なら、そんなことを平然と会話へ載せていいはずがない。けれどこの人は、それをもう何度も自分へ言い聞かせてきた人間の声音で言う。
「……地下へ出るのは、もうやめてください」
思わず口をついた。
命令でも、説得でもなく、ほとんど願いに近い言い方だった。
セラフィナは少し黙った。黙って、それからごく薄く首を振る。
「それはできません」
予想していた返事なのに、エレノアの胸の奥が少しだけ重く沈む。
「調査の結果、あなたが死んだら意味がないと出ています」
「あら、調停士殿の調査は随分お優しいのね」
「優しさではなく、問題解決の勘定です」
「では安心いたしましたわ」
セラフィナの声が、かすかに柔らかくなる。
「わたくし、同情されるのはあまり好きではありませんの」
好きではない、どころではないのだろう。
地下で見たセラフィナは、同情を踏み潰すみたいに自分の腕で壇へ上がっていた。
カイルが静かに皿を置く。
砂糖菓子が二つ。小さく、上品で、無駄に可愛らしい。
「なぜ菓子まであるんです」
「茶には付きものだからな」
「商会の視察先で、出していただくものではありません」
「なら、視察らしく残していけ」
「感じが悪いですね」
「今さらか」
そう言われると、少しだけ息が楽になる。
腹が立つ会話のはずなのに、地下よりずっとましだと思ってしまうのは、たぶん相手もわざとだ。
エレノアは結局菓子に手を付けてから、手帳を開いた。
「帳簿の欠番について聞きます。三件。荷受人の名前が抜かれている。表の商いの規模に対して、夜の出入りが多すぎる。倉庫番の名寄せも一人ぶん余計です」
「立派」
セラフィナが感心したように言う。
「ここまで調べられるのなら、ちゃんと昼のやり方でここまでたどり着いたのも納得がいきます」
「そういう仕事です」
「ええ。だから好ましいですわ」
今度は、本当に言葉に詰まった。
「……好きとか、軽々しく言わないでください」
「軽々しくは申しませんよ」
セラフィナは静かに茶杯を置いた。
「帳面を読み、人の暮らしの側から追って来る方は貴重ですもの。夜の裂け目だけを知っていると、いつか、自分でもどこへ落ちているのか分からなくなります」
その言葉に、エレノアは少しだけ目を細めた。
この人は、分かっている。
地下へ降り続けることが、自分をどう削っているか。分かった上でやめない。
「それで」
エレノアは手帳をめくる。
「あなたはこの商会の奥で何をしているんです」
「茶を飲んでおりますわ」
「本当に感じが悪いですね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
カイルが、わずかに視線を外した。
笑いを堪えているのかもしれない。そう思った瞬間、そちらにも腹が立つ。
「表の顔を整えるためです」
セラフィナはようやく真面目に答えた。
「商会は人を隠せます。荷の出入りに名を紛れさせられる。断絶家の残り火が、いきなり屋敷へ戻るよりは、よほど自然でしょう?」
「自然な潜伏先、ということですね」
「ええ。それに、接収先や古い売買台帳を辿るなら、商いの顔は都合がよいの」
そこまでは想定内だった。
だが次に続いた言葉で、エレノアは手帳から顔を上げた。
「あなたにカイルをつけるのも、その一環です」
「……つける?」
「貸している、と言ったほうが分かりやすいかしら」
エレノアは思わずカイルを見た。
仮面はない。昼の顔だ。いつもの、やる気があるのかないのか分からない顔。
けれど、今の一言に何も異議を挟まない。
「昼の帳面を辿るには、調停士殿の隣にいたほうが早いこともありますもの」
セラフィナは平然と言う。
「夜のわたくしの手が届かぬところまで、表のあなたは歩いてくださる。その間、カイルがいたほうが、わたくしも安心できます」
「安心って……」
エレノアは思わず眉をひそめた。
「あなたの執事兼代闘士でしょう」
「ええ」
「だったら、地下のほうが必要では?」
「毎日あの場に立つわけではありませんから」
セラフィナはさらりと返した。
「それに、わたくしの代闘士であることと、あなたの護衛を兼ねることは矛盾しませんもの」
「すると思います」
「しない」
そこで初めて、カイルが口を挟んだ。
「少なくとも、俺の中では」
その言い方が、妙に当たり前で、エレノアは返す言葉を失った。
セラフィナが、少しだけ楽しそうに彼を見る。
「この通り、本人も申しておりますし」
「本人の意思だけで決めないでください」
「では、あなたはお嫌なの?」
「嫌というより……」
エレノアは言葉を探した。
「……落ち着きません」
それを聞いて、セラフィナが初めてはっきり笑った。喉を傷めぬように、息だけで笑うみたいな、小さな笑いだ。
「存じております」
「知っていてやっているんですね」
「もちろん」
ひどい。
でも少しだけ、この部屋の空気が温かいと思ってしまうのが、もっとひどい。
エレノアは茶杯を置いた。
「誤解しないでください。私はまだ、あなた方を見逃したわけではありません」
「ええ」
「調査も続けます。必要なら封印記録にも触りますし、この商会も洗います」
「お好きになさって」
セラフィナは穏やかに頷く。
「昼の法で触れられるところは、あなたが触れてくださればよろしいの」
そして、ごくわずかに声を低くした。
「夜は、わたくしたちが進みますから」
その一言で、部屋の空気が一段だけ冷えた。
やはり、セラフィナは止まらない。
お茶を飲み、菓子を勧め、昼の顔で座っていても、その奥では次の名前を数えている。
エレノアは手帳を閉じた。
「……本当にやっかいな人たちですね」
「ようやくお分かりになって?」
セラフィナが言う。
「自分で質が悪いのを理解している感じが、いちばん感じが悪いです」
「それはお互いさまでしょう」
また返しが早い。
この人と話していると、剣ではない別の種類の決闘をしている気になる。
扉の外で、控えめな足音が止まった。
ノックはない。けれど、いると分かる程度には近い。
セラフィナの視線が一度だけ扉へ流れる。
すぐ戻る。
何か知らせがあるのだろう。商会の荷か、地下の使いか、それとも。
「本日の調査はここまでにいたしましょうか」
セラフィナが言った。
「本日は、ずいぶんと有意義でしたもの」
「勝手に決めないでください、私はまだ結論を出していません」
「良いではありませんか。結論は急がなくてよろしくてよ」
掠れた喉で、けれど妙に優しい声音だった。
「考え続けてくださるほうが、ずっとありがたく」
仕方なくエレノアは立ち上がる。
カイルが自然に一歩引く。その仕草がまた腹立たしいくらい滑らかだ。
去り際、セラフィナが静かに言った。
「調停士殿、昼にいらしてくださって、ありがとう。次回もまた、是非」




