第五話「灰を這う令嬢」10
その言い方は、あまりに穏やかで、あまりに冷たかった。
「賢王は旧い決闘裁判を全て消し去ったわけではありません。表ではまず調停士に調べさせ、記録を照らし、和解と裁定を尽くす。けれど、名誉、血統、誓約、封印記録――そういう、帳面だけでは裁ち切れぬ争いには、いまも例外の裁定手段が残されていますわ」
「これは制度に則った決闘裁判ではありません」
「ええ。そもそも、それとは別なのですから」
セラフィナの口元に、微かに、ひどく冷たいものが差した。
「地下では誰もそうは呼びません。王権留保裁定。封緘審問。特別裁定儀。呼び名はいくつかありますけれど、要は同じことです。王が表へ出せぬ案件だけを、自分の印で掬い上げる場」
エレノアは息を止めた。
「王璽で……?」
「ええ」
セラフィナは頷いた。
「王の留保権限。特別審問権。王璽命令。そういうものを束ねれば、法はずいぶん都合よく裂けますの。表では終わったことにされた事件も、王が再び口を開けば、夜だけは生き返る」
部屋の燭が、小さく鳴った。
「断絶家。没収財産。封印記録。公開法廷に出せば困る後始末。そういうものだけが、あの地下へ降ろされますのよ。普通の役人には触れられない。調停士にも届きにくい。けれど、誰かが告発し、王が『裁く』とお決めになれば、そこだけは別の扉が開く」
「……それを、あなたは利用している」
「利用されるだけでは終わりたくありませんもの」
その返しは、あまりにも早かった。
「政争に敗れたこと自体は、もうよろしいのです。アシュベル家は焼かれ、接収され、記録を封じられ、生き残りすら無いことにされました。表ではもう終わった事件ですわ。なら表の法だけでは、わたくしは加害者の名に辿り着けない。ですから、王が残した裏の扉を使うしかなかった」
エレノアはセラフィナを見た。
この女は、自分が何をしているか分かっている。ただ怒りに突き動かされているのではない。
どの制度が自分を救わず、どの制度の裂け目だけがまだ使えるのか、理解した上でそこへ身を押し込んでいる。
「勝てば、何が得られるんです」
問うた声が、自分でも少し固かった。
「封じられた文書の再閲覧。接収記録の再審査。個別案件の再告発権。差し押さえの停止。家名への異議――そういう、小さくて、けれど喉から手が出るほど必要な権利ですわ」
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「何より、王の前で、相手の名を罪と結びつけて残せる」
「……それが目的ですか」
「いいえ」
セラフィナは静かに首を振った。
「目的ではなく、道具ですわ」
部屋の燭が小さく鳴る。
カイルは黙ったまま壁際にいる。仮面を外さない。けれど、その沈黙そのものが耳に痛かった。
「アシュベル家を焼いた夜に手を貸した者。接収で肥えた者。記録を潰した者。死者を確定した者。そういう者を、ひとりずつ夜の帳面へ引きずり出してまいりましたの」
掠れた声が、妙に澄んで響く。
「勝つたびに、少しずつ開くのです。封じられた紙が。閉ざされた名が。わたくしたちが奪い返せるのは、復讐の快さではなく、次へ進むための細い手掛かりばかり」
そこでセラフィナは、一度だけ息を止めるように間を置いた。
「それに、ひとりではありませんもの」
「え」
「焼けた屋敷ひとつを、ただの火事で終わらせるには、手が多すぎますわ。接収を配る手。記録を潰す手。死者を確定する手。あの夜に得をした者が、あまりに多い」
そこで初めて、セラフィナの目に冷たい火が差した。
「手を汚した者たちの、その上に、まだ名を呼ばれていない上位者もいる」
エレノアは喉の渇きをよりひどく感じた。
それは誰、と問うことはできた。けれど問わなかった。問えば、その答えをセラフィナが明確に返してくる気がしたからだ。
「ですから、わたくしたちは名を辿っておりますの。ひとり裁き、ひとつ記録を開かせ、ひとつ告発の道を奪い返す。そのたびに、次の名へ届く。そうして、いずれ高座に座る者のところまで」
エレノアは思わず言った。
「賢王が、それを許し続けると?」
「許す、という言い方は少し違いますわね」
セラフィナは薄く息を吐く。
「あの方は、盤の外で遊んでおいでではないの。法の例外を、ご自分の手の中へ集めて遊んでおいでなのです」
小さな沈黙。
「小細工で盤を返すようなお方なら、わたくしの命は当の昔に尽きております」
「ずいぶん信じているんですね」
「ええ。信頼しておりますわ。あの方の本質だけは」
焼けた頬に残る影が揺れる。
「有能で、傲慢で、悪趣味です。けれど、つまらぬ姑息さには耐えられぬお方です。ご自分で残した刃が、いつかご自分へ届くかもしれぬことごと、お愉しみになっておいでです」
その一言で、部屋の空気がわずかに冷えた。
「制度を書き換え、番外の手でわたくしを潰すほうが確実だと思えば、普通の王ならそうなさるでしょうね。けれど、あの方はそうなさらない。そうした瞬間、賢王などという美名をご自分で汚すことになるから」
セラフィナは、ひどく静かに言った。
「もしそうなさるなら、わたくしは嗤って死にますわ。ああ、その程度の御方でしたか、と」
その時、セラフィナがふいに口元へ白布を当てた。
咳は小さかった。だが一度では止まらない。布を外した一瞬だけ、赤が見えた。
エレノアは反射的に一歩出かける。
だがセラフィナは、指先ひとつでそれを制した。
「……失礼」
「失礼ではありません。大丈夫なんですか?」
「慣れてしまいました」
その静けさに、エレノアはひどく腹が立った。
諦めた者の声ではない。最後まで使い切るつもりの声だった。
「調停士殿」
セラフィナが、少しだけ声を和らげた。
「あなたはきっと立派な方なのでしょう。帳面を読み、記録を繋ぎ、誰かが捨てた小さな証言も拾い上げる。そういう方なのだと思いますわ」
その言葉は褒め言葉のようでいて、どこか告別に似ていた。
「でしたら、どうか覚えておいて。正しい手順は、遅れることがありますの」
その一言が、ひどく重かった。
「私は、あなたのやり方を支持しません」
「ええ」
「理解したとも言いません」
「ええ」
「でも」
そこで一度、言葉が止まる。
それでも、もう見てしまった以上、言わずにいられない。
「見なかったことには、しません」
セラフィナは、ほんの少しだけ目を閉じた。
「十分ですわ、調停士殿」
エレノアは壁際にいるカイルを一度だけ見た。
「……あなたも」
低く言う。
「これでいいと思っているんですか」
問いかけた先はカイルだった。だが、彼はすぐには答えなかった。
「よくはない」
返ってきた声は短い。
「だが、他に残っていなかった」
それだけだった。
言い訳でも、正当化でもない。
選びたくて選んだ道ではないが、残っていた道ではあった――そういう種類の返答だった。
エレノアの胸が、鈍く痛んだ。
昼の法は遅い。地下の法は古くて血なまぐさすぎる。
それでも、取り零された者にとっては、腐った裂け目のほうが先に手を伸ばしてくることがある。
その現実を、否定しきれない。
「……嫌です」
気づけば、ぽつりと漏れていた。
セラフィナが目を上げる。
カイルも、わずかにこちらを見る。
「こういう形でしか届かないのも嫌ですし、表で拾えなかったものが、ああいう場所へ落ちるのも嫌です」
言いながら、ようやく自分が何に怒っているのか、輪郭が見えた気がした。
地下法廷だけではない。
そこへ落ちるまで、誰も拾えなかったことに怒っている。
帳面の上で死んだことにされるまで、誰も止められなかったことに怒っている。
そして、その全部を賢王が「例外」として掌に残していることに、怒っている。
「……私は」
エレノアはゆっくりと言う。
「あなたのやり方を真似しません」
「ええ」
「地下に潜って、ここの規則に自分を乗せる気もありません」
「ええ」
「でも、あそこへ落ちる前に拾えるものは、表の側で拾います」
セラフィナの目が、ほんの少しだけ細くなった。
エレノアはそこで初めて、自分の中の何かが、わずかに別の向きへ噛み始めるのを感じた。
夜を認めない。
けれど、夜が拾ってしまっているものを放置もしない。
なら、やることはひとつしかない。
表の側から追うのだ。
帳面を。
接収先を。
封じられた紙を。
王璽印でしか開かない横口へ繋がる人と荷の流れを。
地下で血に変わる前の痕跡を。
まだ言葉にはなっていない。なっていないが、輪郭だけが少しずつ胸の中で固まり始めていた。
「……調停士殿」
「何ですか」
「いま、少しだけお顔がよくなりましたわ」
「最悪の褒め方ですね」
即座に返すと、セラフィナがごく薄く、息だけで笑う。
その笑い方がまた、ひどく上品で、ひどく腹立たしかった。
だが、さっきよりは呼吸がしやすい。
地下の裂け目へは行かない。けれど、その裂け目へ落ちる前のものを、昼の側で拾いにいく。
まだ決意と呼ぶには早い。
それでも、崩れた足場の中で、ようやく一枚だけ、踏める石が見えた気がした。
「……帰ります」
そう告げると、セラフィナはごくわずかに頷いた。
「ええ。どうか足元にお気をつけて。こちらは、少し床が悪いものですから」
それが地下の石床のことだけを指していないと分かってしまって、エレノアは眉を寄せた。
「最後まで感じが悪いですね」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
そんなやり取りまで妙に整っているのが癪だった。
壁際では、カイルがまだ仮面をつけたまま立っている。
「……あなたにも、後で聞きますから」
ようやくそれだけ言うと、仮面の奥でカイルの視線がわずかに動いた。
「好きにしろ」
「その言い方、本当に腹が立ちます」
「知ってる」




