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第五話「灰を這う令嬢」8


 どよめきが波になる。

 誰も堂々とは歓声を上げない。上げられないのだ。

 ここはあくまで裁きの形をしている。だからこそ、露骨な喝采は似合わない。

 似合わないまま、なお全員がそれを見たがっていたのだと、空気の熱だけが告げていた。


 その熱の波を裂くように、被告席で声が裏返った。


「何だ、これは……っ」


 エルムレイ卿の顔は、もう貴族の体面を保てていなかった。


「こんなもの、裁きではない! 死んだはずの女を引きずり出し、王の御前で血を見せれば、それで訴えになるとでも――」


 その時だった。


 最上段、闇のいちばん濃い席から、笑い声が落ちた。

 けれど妙に若く、妙に楽しげで、場の空気ごと手のひらに乗せて弄ぶような笑いだった。

 地下全体が、ぴたりと静まる。賢王だ。


「余の前で流れる血に、冗談などあるものか」


 低い声が、地下へ静かに落ちる。

 怒鳴ったわけではない。

 ただ、笑いの余韻をわずかに残したまま告げられたその一言が、場の全員の背筋を一度に揃えて凍らせた。


 賢王は石床を見下ろしたまま、気だるげに続けた。


「原告セラフィナ・アシュベルの訴え、ひとつを認める。被告ヴィクトール・エルムレイの権利留保を剥奪し、接収記録の再審を許す。封緘照会の道をひらけ。身柄は奥へ」


 最後の一言だけ、ひどく軽かった。まるで机上の書類を一枚、脇へ退けるみたいに。

 その軽さが、かえっておぞましい。


「陛下――!」


 エルムレイ卿が叫ぶ。


「お待ちください、これは、その女の一方的な――」


 言い終える前に、黒衣の衛士が二人、被告席の脇から現れた。

 いつからそこにいたのか分からない。最初から壁の影に溶けていたような自然さで、エルムレイ卿の両腕を取る。


「離せ、無礼者! 私は――」


「いまは被告です、卿」


 黒衣の衛士のどちらが言ったのかも分からないほど無機質な声だった。

 エルムレイ卿の顔から、最後の血の気が消える。ようやく分かったのだろう。

 ここではもう、整理する側の手ではいられない。自分こそが、今夜の処理対象になったのだと。


 石床の中央で、カイルがセラフィナに向けて、ゆっくりと片膝をついた。


「ご命令は」


 侍女に支えられたセラフィナは、すぐには答えなかった。

 浅い呼吸をひとつ整え、それから連行されていくエルムレイ卿へ目を向ける。


「……次の名は、まだ」


 掠れた喉で、それでも気品を失わずに言う。


「これで、もう忘れませんわね。エルムレイ卿」


 エルムレイ卿の肩がびくりと震えた。振り返ろうとして、衛士に腕を押さえられる。

 セラフィナの目は静かだった。

 怒鳴りも、勝ち誇りもない。それがかえって冷たかった。


「あなたが帳面から消した名は、今夜、あなたのほうを見ましたの」


 衛士たちがその身を奥へ引いていく。

 エルムレイ卿はなお何か言い募ろうとしていたが、もう言葉は形を成していなかった。


    *


 エレノアは、エルムレイ卿が拘束される様子をぼんやりとした頭で見届けていた。

 そこでようやく自分が震えていることに気づいた。

 恐怖だけではない。怒りだけでもない。

 自分が信じてきたものの下に、こんな穴が口を開けていたのだという、その眩暈に似た揺れだ。


 そして次の瞬間、背後で石が小さく鳴った。


「立つな」


 耳のすぐ後ろで、低い声がした。振り向きかけた体が、そこで凍る。


「今、顔を上げると見つかる」


 その声を、エレノアは知っていた。

 知っているのに、さっき石床の中央で聞いた声と同じく、ひどく遠い。昼の気だるい、感じの悪い護衛の声ではない。命令だけを無駄なく渡す声だった。


「……あなた」


「後で話す」


「話す気がある人間は、普通、何も言わずに消えません」


「だから後でだと言ってる」


 頭に来る。その感情だけが、恐怖より先に立った。


「……今から被告を奥へ引く手配がある。その時、こっちの通路が空く。三つ数えたら、右へ来い。音を立てるな」


「命令しないでください」


「なら勝手にしろ。ここで見つかっても、俺は庇えない」


 その一言だけ、少し違った。突き放しているのに、脅しではない。

 冷たいのに、そこだけは妙に硬い。


 広間のほうで、死体が片づけられ始めていた。人が死んでも、何も止まらない。むしろ、止まらないように作られている。


「一」


 誰にも聞こえないくらい小さく、カイルが数えた。


「二」


 視界の端で、被告席側の人影が動く。エルムレイ卿を奥へ引くらしい。石床の脇の通路が一瞬だけ空く。


「三。右へ来い。音を立てるな」


 エレノアは灯りを完全に絞り、足の置き場を確かめる。

 崩れた格子の陰から身を滑らせ、湿った壁へ手をつく。冷たい石の感触が掌へ移る。


 その先に、黒衣の影ではなく、侍女服の女がひとり立っていた。

 彼女はエレノアの顔を見ると、表情ひとつ変えずに言った。


「こちらへ。お嬢様がお会いになります」


「断ると言ったら」


「断るのはご自由です」


 娘は頭を下げた。


「ですが、その場合、出口までご案内はできません」


 感じが悪い。この夜に関しては、全員感じが悪い。

 エレノアは舌打ちしたい気分を飲み込み、黙って歩いた。


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