第五話「灰を這う令嬢」7
裁礼官のその一言と同時に、空気が切り替わった。
先に動いたのは、被告側の巨漢だった。
咆哮はない。
むしろ、その巨体に似合わぬほど踏み込みは鋭かった。
前へ出る、というより、一息で間合いの内側へ滑り込んでくる。盾を前へ、重剣を斜め上から振りかぶり、そのままカイルの肩口へ叩き割るように落としてくる一撃。
観客が好む剣だ、とエレノアは思った。
強く、分かりやすく、当たればそれで終わる絵になる剣。
けれどその刃が届くより先に、カイルの姿が半歩だけずれた。
たった半歩。
避けたようには見えないほど小さな動きだった。
なのに、重い斬撃は空を切る。
直後、甲高い金属音が鳴った。
カイルの左手が動いていた。
捕縛短剣。
深い溝を刻んだその異形の刃が、巨漢の剣の鍔元へ食い込むように絡みついている。
受けた、のではない。噛んだ、とエレノアには見えた。
巨漢が息を呑む。その顔に、初めて本物の驚きが走った。
短剣の溝が相手の刃を喰い、捻りの力で剣筋を殺す。完全に止めるのではなく、ほんの一瞬だけ相手の動きを鈍らせる。
カイルの右手が動く。細身の剣が、ためらいなく喉下へ走った。
巨漢は咄嗟に身を捻る。
急所は外れる。だが、完全ではない。刃先が首筋から肩口へ浅く滑り、血が散った。
観覧席が一拍遅れてどよめく。
エレノアは息を呑んだ。
速い、だけではない。命を奪うことに迷いがない。
最初から終わらせに行っている。
急所を狙い、外れたら次へ移る、その組み立てに一切のためらいがない。
制圧でも護衛でもない。生き延びるための剣ではなく、相手を先に終わらせるための剣。
それがカイルの裏の顔なのだと、見せつけられた気がした。
巨漢が唸り、無理やり剣を引き戻す。
捕縛短剣に絡んだ刃を力任せに引き剥がし、その勢いのまま小盾ごと体をぶつけるように前へ出た。
盾の縁が鈍く光る。斬るだけではない。打って潰すつもりだ。
カイルは今度こそ下がるかに見えた。
だが違った。
下がらない。踏み込んだ。
盾の正面ではなく、わずか外。
自分の肩を相手の盾縁へ滑り込ませるようにして、衝突の芯をずらす。
まともに受ければ吹き飛ばされる体格差なのに、ほんの角度ひとつでそれを殺す。同時に、左手の短剣が巨漢の手首へ絡む。
押さえた、のではない。動きを殺した。
手首の自由を奪われた瞬間、巨漢の剣筋が死ぬ。
その時にはもう、カイルの剣先は喉を奪える位置へ入っていた。
巨漢が吠えた。力任せに剣を引き上げ、ねじ切るように短剣の拘束を振り払おうとする。
その瞬間、カイルの目がほんのわずかに細くなった。エレノアには、それが見えた。
あ、と思った時には遅い。
左手が捻られる。捕縛短剣が、巨漢の剣の根元と手首を一度に殺す。大剣の軌道が完全に崩れる。喉の前に、何もない。
そこへ、細身の刃がまっすぐ入った。
更なる血が石床に落ちた。音は、驚くほど小さい。
それでも場の空気は一変した。
どよめきが波になる。歓声に近い声。息を呑む気配。
初めて見る者は顔色を変え、常連らしい何人かは、それでもなお身を乗り出して見ようとする。
皆これが見たかったのだ、とエレノアは理解した。気が遠くなってくる。
死んだはずの令嬢が名を呼び、その剣が血を引く、その一連の流れを。
王都の地下でしか味わえない、恐ろしくて、下品で、どうしようもなく贅沢な夜の刺激として。
石床の中央で、カイルは一歩だけ退いた。
巨漢は喉を押さえ、低く呻く。寸でずらし致命を受けていない。まだ倒れない。けれど、その目はもう、最初の余裕を失っていた。
喉から溢れた血を乱暴に拭い、巨漢が一歩退く。
だが、カイルは追わない。ただ剣先をわずかに下げたまま、相手が次にどう出るかを待っている。
巨漢は歯を剥き、今度は吠えた。重剣を両手で握り直す。
片腕に巻いた小盾も、さっきまでの見せるための構えではない。守るための位置へ下がっている。
その変化を、カイルは静かに見ていた。
次の踏み込みは、巨漢のほうが慎重だった。
先ほどのように一気には来ない。盾を前に立て、半身になり、剣先で牽制しながら間合いを測る。
けれどエレノアには、それでも足りないと分かった。
カイルはすでに、この男の届く距離を知っている。
どこまで踏み込めば剣が届き、どこで盾が鈍り、どの角度で手首の力が死ぬか。最初の数合で、全部読んでしまった顔をしている。
巨漢が盾を押し出す。その陰から、今度は低い軌道で剣が走った。足狙いだ。
だが、遅い。
カイルの足が半歩退き、石の上を滑る。ただ避けたのではない。
相手の剣先が通る線を空けながら、自分の立つ角度だけを変えている。だから、次の瞬間にはもう、盾の外側にいる。
カイルの左手が閃く。
捕縛短剣が、今度は剣ではなく盾の縁へ噛んだ。深い溝が鉄の端を捉え、そのまま引く。
巨漢の腕がわずかに開く。
右脇が空いた。
そこへ、細身の刃が吸い込まれるように走る。巨漢の体が、ほんの一瞬だけ遅れて揺れた。
脇腹を抉られたのだと理解するまでに、エレノアにも一拍かかった。
血が増える。
観覧席の熱が、さらに高くなる。
巨漢は呻きながらも、まだ倒れない。
むしろ傷の痛みが激昂へ変わったのか、顔を真っ赤にして前へ出る。呼吸は崩れ、構えも荒い。けれど、その荒さのまま叩き潰す気だ。
重剣が大きく振り上がる。
大振りすぎる、とエレノアは思った。
だが、それはこの男なりの賭けなのだろう。小細工も、読み合いも、盾の差し合いも、もう追いつかない。
ならば一撃でまとめて断ち切るしかない。
石床を踏み鳴らし、巨漢が落とす。さっきまでで最も重い一撃だった。
だが、戻らない。
カイルは受けなかった。前に出た。
重剣が振り下ろされる、その内側へ。刃が最大の重みを持つ半歩手前へ、自分から入り込む。
近すぎて、振り切れないのだ。
巨漢の剣は、重さを乗せる前に間合いを潰された。盾も大きすぎて、至近ではかえって邪魔になる。
左手の短剣が手首を殺し、
右手の剣が胸下へ潜る。
今度の刺突は、見えた気がしなかった。巨漢の口が、声にならない形に開く。
それでもまだ倒れきらないところが、この男の頑丈さなのだろう。だが、もう立っているだけだ。
カイルは一歩引いた。
巨漢の体が前へ傾ぐ。
重剣が石床へぶつかり、鈍い音を立てた。小盾が遅れて腕から滑る。
終わる。
誰もがそれを理解した。
巨漢が、最後の力で顔を上げる。
理解できないものへの剥き出しの恐怖だった。
カイルは何も言わなかった。細身の剣が、最後にひとつだけ動く。
喉。今度こそ、迷いなく。
刺突は深く、正確で、余計な弧を描かなかった。まっすぐ入って、まっすぐ終わる。人を殺すためだけに磨かれた線だった。
巨漢の体が止まる。次の瞬間、糸が切れたみたいに崩れた。
石床へ膝が落ち、つづいて肩が落ち、最後に重い音とともに全身が沈む。
血が、はっきりと石床を濡らしていく。磨かれた床の上を、暗い筋が細く広がる。
倒れた男を見下ろすカイルに、勝者の昂ぶりはなかった。満足も、怒りも、誇りもない。
ただ、終わったものを確認する冷たさだけがある。
一拍遅れて、地下の空気が決壊した。




