第五話「灰を這う令嬢」5
石床の脇に設けられた暗い通路から、二人の侍女が現れた。
そのあいだに、黒い布に包まれた何かがある。
人の形をしている、と理解するまでに、エレノアにはわずかな時間が要った。
最初に浮かんだのは、人ではなく事故の痕だった。
火事のあとに片づけきれず残った、名の分からない焼損体。
記録の上では人数だけに押し込められる、個人であることを奪われた残りもの。
だが違った。
それは、生きた女だった。
黒布のあいだから覗いた横顔に、エレノアは息を止めた。
年の頃は、自分とそう変わらないように見えた。
まだ若い。少女と呼ぶには輪郭が静かすぎ、女と呼ぶにはあまりに壊れかけている。
髪は淡い金、肌は白い。
その白さの上を、頬から首筋へ火傷の痕がまだらに走っていた。
それでも目元の涼しさと薄い唇の線は崩れず、痛みに歪んでなお、静かで聡明そうな顔立ちだけが消えていなかった。
侍女のひとりが、かがんで何かを小さく問う。
黒布の女は、ほんの僅かに頷いた。そこまででいい、と了承するみたいに。
次の瞬間、観覧席の反応が揺れた。何かを期待している。
前のめりになる者。
呼吸を止める者。
目を背けかけて、やはり見てしまう者。
歓声は上がらない。
上げれば、さすがに自分の卑しさが露わになるからだろう。
その代わり、沈黙の底だけが熱い。
女は、侍女たちの介助を離れ、石床にひとりで手をついた。
その時になって、エレノアは気づいた。壇まで、自分で行かなければならないのだ。
決闘裁判では、原告は自ら壇へ赴き、名を告げ、罪を告発しなければならない。
古い神託法の名残だ。己の足で神前へ立てぬ者は、そもそも神に見放された者として訴えを持つ資格がない――そんな悪習が、形だけ残っている。
なんてひどい法だ、と昔から思っていた。
弱っている者、傷ついた者、奪われた者にこそ訴えはあるのに、その者からまず「立てること」を要求する。
けれど調停士になってからは、それももう半ば空文化した残骸だと思っていた。
表の決闘裁判は、いまではまず記録を照らし、争点を整理し、和解と裁定を尽くす。その果てにしか旧い形式と剣は出てこない。
少なくとも、自分が知る昼の法の側では、ここまで露骨な形でこの悪習が生きているところを見たことがなかった。
それがいま、地下でいちばん醜い姿のまま息をしている。
目の前の女は、その理不尽に従わされている。いや、従わされているだけではない。
理解した上で、その条件を踏み越えようとしている。
そして、焼け残りの女がそのまま這い始めた。
し、し、と、布が石を擦る音だけが地下に異様にはっきり響く。
黒布の下から覗く指先は、細く、白く、そしていびつだった。
火で焼かれ、縮れ、皮膚の色も均一ではない。骨ばった節のかたちはまだ女の繊細さを残しているのに、その上に被さる傷が、そこへ別の生き物の皮膚を無理に貼りつけたみたいに見せている。
右腕はうまく伸びきらず、肩から先が重たげに震えていた。肩口も、脇も、まともには動いていないのだと分かる。
それでも彼女は止まらない。
身を引きずり、磨かれた石の上を、一歩ぶんにも満たない距離ずつ進んでいく。
その動きは無様なはずだった。
見世物として消費されるには十分すぎるほど、痛ましく、醜く、目を逸らしたくなるはずだった。
なのに、エレノアにはそう見えなかった。目が離せなかった。
這っている。
たしかに、這っている。
それなのに、その女から失われていないものがある。
誇りだ、とすぐには言えなかった。気位、と片づけるにも足りない。
もっと冷たく、もっと澄んだ何か。
どれほど焼かれ、踏みにじられても、なお自分を失っていない純粋な執念の発露のようなものだった。
だからこそ、余計におぞましい。ここにいる者たちは、それが必死になって石床を擦って進むのを見たくて集まっているのだ。
石床の中央には、小さな壇がある。
かつて神前裁判において、訴えをなす者が名を告げた場所。この場にいる者たちは神の名など誰も本気では信じていないくせに、儀式の形だけは残っている。
だが今宵、その形さえも、もはや神のものではなかった。
何のために使われているのか、まだ言葉にはできない。ただ、裁きとは別の熱が、この場を動かしていることだけは分かった。
女は壇まで辿り着くと、そこで止まった。
動く左手だけで壇の縁を探り、指をかける。細く白い指先が、石の角に食い込んだ。焼けた皮膚が引きつれて痛みがあるはずなのに、その手つきには奇妙なためらいのなさがあった。
痛みに慣れているのではない。痛みごと切り捨てて、先に進むことだけを選んでいる手だと、エレノアには見えた。
次の瞬間、彼女はその身を引きずり上げるようにして、焼け爛れた肩と胸元を壇へ押しつけた。
観覧席のどこかで、息を呑む音が重なる。
彼女は、這ったまま名を告げることを拒んだのだとわかった。
壊れた身を壇へ凭せかけながら、なお自力で立ち上がり相手を見据える姿勢を選んだのだ。
金の髪が、肩口でかすかに揺れる。
白い額に汗が滲み、傷の走る頬に影が落ちる。
その顔は痛みに青ざめているのに、不思議なほど目だけが澄んでいた。
泣きも、媚びも、訴えの哀願もない。
ただ冷たく、静かに、自分の名を世へ返しに来た者の目だった。
焼けた喉が、掠れた声を押し出す。
「――セラフィナ・アシュベル。ここに在り」
その名が落ちた瞬間、地下の空気がひとつ深く沈んだ。ざわめきは、爆ぜるのではなく、底のほうで波打った。
死者の名だ、とエレノアは思った。その認識が落ちた瞬間、背筋を冷たいものが走る。
旧アシュベル伯爵家。焼失。家人死亡、確認済。生存者なし。
帳面の上では、すでに処理され、片づけられ、終わったことにされた名。それがいま、石床の上で自分の喉を使って告発の壇に上っていた。
高座で、賢王がわずかに口元を吊り上げた。
「名は出た。では、罪を」
セラフィナはすぐには口を開かなかった。壇に身を預けたまま、息をひとつ整える。
肩がかすかに震えている。痛みのせいか、呼吸のせいか、その両方か。
けれど目だけは逸れなかった。
その視線の先を追って、エレノアも被告席を見る。
闇の縁に隠れるように、ひとりの男が座っていた。
年若くはない。だが老いてもいない。
髪には銀が混じり始めているが、身なりは隙なく整っている。濃紺の上着は仕立てがよく、指には太すぎない印章環。腹は出ていない。怠惰よりは節制を選ぶ男の体つきだ。
顔立ちは端正というより、手堅い。
社交の場で見れば温厚に見えるだろう。無駄に声を荒げず、礼を知り、書類の扱いにも慣れていそうな顔だ。
セラフィナの掠れた喉が、次の言葉を押し出した。
「ヴィクトール・エルムレイ卿」
名を呼ばれ、一瞬だけ男の顔から色が引いた。
帳面の上で処理を終えたはずの案件が、肉を持って目の前へ現れた時の、実務家の狼狽だ。
だが、それも長くは続かなかった。すぐに口元だけが持ち上がる。
長年、対面の場で不都合を受け流してきた人間の顔だった。
「随分と古傷を掘り返す」
エルムレイ卿は鼻で笑った。
「しかも死者からの訴えとは。王都の夜も、ずいぶん趣味がよくなったものだ」
観覧席のどこかで、乾いた笑いが漏れた。
セラフィナは、目も伏せない。怒鳴り返しもしない。ただ、焼け残った喉で静かに言う。
「死者ではありませんわ」
その一言だけで、笑いが止んだ。
セラフィナは、息を継ぐたび胸元をわずかに震わせながら、それでも言葉を途切れさせなかった。
「焼失財産の違法接収への関与。家臣拘束と殺害への加担。ならびに――」
そこで初めて、彼女の声にわずかな強さが混じった。
「虚偽の記録をもって、アシュベル家断絶後の権利を簒奪した罪」
最後の一語が、石壁に鈍く返った。
簒奪。
それはただの横領でも、不正処理でもない。人の家と名と生の続きを、自分のものとして奪い取る言葉だ。
裁礼官が一歩前へ出た。
「いま一度問う。和解の余地はあるか」
儀礼の文句だ。
ここまで来て和解があるはずがない。けれど、それでも一度だけその問いを置く。
剣の前で、まだ戻れると告げるために。
「ありませんわ」
セラフィナは即座に言った。
「無論ない」
エルムレイ卿が吐き捨てる。
「ならば、代闘に移る。原告、被告、ともに壇を離れよ」




