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第五話「灰を這う令嬢」4

 旧給水路を進んでいくと、やがて前方から音が届き始めた。


 最初は風だと思った。

 けれど違う。明らかに人のざわめきだ。


 大勢の喉がいっせいに低く息をしている時の、あの湿った響き。

 ひそめた興奮と、待ちきれなさと、何かが始まる前の浅い飢えが混じった音。


 エレノアは灯を消した。


 先へ進むにつれ、石の向こうに別の空気があるのが分かる。


 燭の油。湿った土。古い石。

 そして、ごく薄く、鉄の匂い。


 血の匂いに似ている、と気づいた時、背筋が冷えた。


 排水路の終わりに、崩れた格子があった。

 その隙間から、光が漏れている。

 エレノアはそっと覗いた。


 息が、止まった。


 格子の先には開けた地下の広場があった。

 法廷の形をしていて、闘技場に似ていて、礼拝堂にも処刑場にも見える、どれでもあってどれでもない場所。


 見たことがある、と思った。

 もちろん、こんな場所に来たことはない。だが形だけなら、知っている。

 裁きの形だ。訴えを聞き、名を記し、勝敗に理を与えるための形。


 なのに、その中心にある石床は、どう見ても人を救うためのものではなかった。


 中央には磨り減った石床がある。

 その周囲を観覧席が幾重にも囲み、高い席ほど闇が濃い。そこにいる者たちは皆、顔の半分ほどを覆う仮面や、影の深い頭巾をつけていた。


 誰も素顔を出さない。

 出せないのではない。出したくないのだ。

 ここにいる自分を、明るいところの自分と繋げたくない。その卑怯さだけは、仮面越しにもすぐ分かった。


 エレノアは無意識に息を止め、自分の首元に巻いていた薄布をほどいた。

 砂除けに持っていた、ごくありふれた布だ。こんなところで役に立ってほしくはなかった。

 半ば反射みたいにそれを頭からかぶり、頬から口元までを隠す。


 ひどい、と思った。

 ここにいる連中の卑しさに眉をひそめながら、自分もまた同じように顔を隠している。

 けれど、隠さなければならないこと自体が、この場の異様さを何よりよく物語っていた。


 石床の奥、半円形の高座にひとりの男が座している。


 冠はない。王笏もない。

 ただ片肘を肘掛けに預けているだけなのに、そこがこの場の最上位なのだと、誰の目にも分かる。


 そして、エレノアにはその顔が分かった。


 賢王だった。


 頭が理解を拒んだ。

 だが目だけは逸らせない。


 王都の表で法を整え、争いを記録へ引き戻し、神託に代えて条文を置いた王。

 調停士という職を生み、人が剣ではなく言葉で決着を探る道を広げた王。


 その男が、地下の高座に座している。


 賢王は薄く笑った。


「照覧の名の下に、今宵の訴えを開く」


 低く、よく通る声だった。

 祈りのようでいて、祈りではない。神へ捧げる言葉ではなく、神の席から下す言葉だ。


 エレノアは、胸の奥が冷えるのを感じた。

 調停士として学んできた文言と作法が、どこか遠いところでねじ曲げられ、別の獣の骨組みにされている。

 正しさを支えるはずの形が、いまは残酷さを正当化する飾りになっていた。


「名を告げよ、罪を告げよ、血をもって否め。ここでは退いた名だけが、先に死ぬ」


 その一言が落ちた瞬間、エレノアははっきり理解した。


 これは決闘裁判の開幕だ。そして、それはつまり、この場で人が死ぬ。

 事故でも、激情でもなく、手順として。

 裁きの形式の中で、死が予定されている。


 逃げるべきだと思った。

 だが動けなかった。

 恐怖のせいだけではない。この裁きの形がどこまで壊れているのか、見届けなければ自分の足元まで崩れそうな気がした。


 賢王が、満足げに顎を引く。


「原告、前へ」


 その一言が落ちた瞬間、観覧席の空気がわずかに跳ねた。



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